SMAPのバラエティ番組から日本の組織の問題を考える。日本の組織は自己保身などの理由から自己流の暗黙知を積み重ねてタコツボ化してしまうことがある。テレビ朝日では、バラエティ制作チームが同じ社内のスポーツ制作チームが考える「スポーツ番組らしさ」を理解できないほど専門化が進んでいる。社内が理解できないものを視聴者が理解できるはずがない。これを打破するのは簡単ではない。少なくともこのバラエティ番組では、中居さんが理解できない暗黙知にこだわらずに本人の目線や過去の経験を現場に持ち込むべきだった。
バラエティ番組の企画で、SMAPの5人がテレビ朝日に新入社員として入社した。そこで中居正広さんはスポーツ記者として研修を受ける。中居さんはスポーツに詳しいはずだが、初の仕事で「大惨敗」してしまう。
今回のテーマで考えたいのは、日本の終身雇用制度の特徴だ。この制度が多様な視点を排除仕手いることが分かる。直ちに問題はないが、徐々に中で働いている人を追い込んでいるのではないかと思う。
中居さんの唯一の誤りは「自分の目線」や「過去の経験」を取材現場に持ち込めなかったということだ。もともと「スポーツに詳しい」という自己認識があり、これが結果的に「軋轢」をうんだものと思われる。その背景には新入社員を巡る思い込みがある。新入社員といえば、大学を卒業した人の事で職業的な経験がないと見なされるのだ。だから「途中入社組」である中居さんの過去の経験は全く活かされないばかりか、社内的な軋轢のもとになる。
新入社員としての中居さんは、まず1日研修を受ける。専門職である記者には、映像で説明できるものは文字にしてはいけない、要点だけをまとめなければならないなどの基本的な知識があるようだ。知っている素材で記事を作るがやり直しを命じられる。その後、実際に編集作業してみるが「こだわり」があり、やはり要点がずれているようである。ここまでの研修には問題がない。基本的な知識を提示し、これに経験のフィードバックを与える事で、知識をより確かなものにしてゆくのだ。
その後に問題が待ち構えている。取材現場は、学校の先輩後輩がはじめて対戦する注目の試合だ。30秒と言われていたのだが、突然1分に伸ばされる。すると構成を最初からやり直さざるを得なくなる。実際に編集してみるものの、どうもマネージャに気に入ってもらえない。そのうち、指導教官役の先輩とデスクたちが、頭越しに話を始めた。「手を引いたほうがいい」と中居さんは考えはじめる。
憶測でしかないが、背景には、バラエティ部門とスポーツ部門の軋轢があったものと思われる。バラエティ番組の企画として中居さんが入ってくることに敵意があったのだろう。今回の他部署がバラエティの人たちと協業関係にあるのに比べると、スポーツ部門だけが競合部門に当たる。新卒で入った人たちは、配属先の文化を強く受け継ぐ。ここにローテーションがないと、そのまま「タコツボ化」してしまう可能性がある。
テレビ朝日の「スゴイ」ところは、この軋轢をそのまま生放送に乗せてしまったところだ。
ところが「タコツボ化」には別の問題もあるようだ。スポーツ側の人間には「お互いに分かるが、他人には説明ができない」知識の伝達があった。これもVTRの中で、バラエティ側の人間が「整理して伝えてあげてほしい」と懇願するのを「時間がないから」といって無視するスポーツ側人たちの発言が出てくる。同じテレビ局のスタッフでも「スポーツの人たちが何を望んでいるのか」分からなかったのだろう。
ここに「時間がない」という制約が加わる。過去に集積された「これがスポーツニュースである」という形に対して議論する時間がない。このようにして長い時間をかけて「言葉にはできないものの、お互いに感じ合う事ができる」知識が共有される。これを「暗黙知」と呼ぶ。人材に流動性がない職場では、ある程度の時間をかけて暗黙知を伝えることができる。ジョブトレーニングを通じて慣行的に教育プログラムができあがっているからだ。
中居さんは、スポーツ報道については素人かもしれないが、過去にいくつかのスポーツ番組に携わっている。また個人的にも野球が好きなようである。だから、中居さんに欠落しているのは、専門的なスポーツの知識でも、番組を作るための知識でもない。「口に出しては説明できないが、お互いに響き合う」がコミュニケーション不全をうんでいる。つまり、暗黙的な知識共有には、外部の異なった経験を持った人たちと情報共有ができないという問題がある。
普通の企業であればよさそうだが、テレビ局には特殊な事情がある。それは視聴者が「外部」であるという事実だ。つまり「1人の具体的なヨソモノ」に対して説明できないことを、複数のヨソモノである視聴者に説明できるはずがないのだ。ここで視聴者が排除されないのは、たまたま合っているのか、視聴者が慣れているかのどちらかなのだろう。
この問題を分かりやすくするために、政治部で同じ事が起きた場合について考えてみたい。政治部の記者たちは、長年の取材を通じてお互いに「暗黙的な知識を共有し、分かり合っている」はずだ。そこにヨソモノが入ってきても「それは、形になっていないから」といって排除されてしまう。記者たちは時間に追われいて振り返りの時間がない。
政治記者たちは、職業的な経験がないまま政治記者として育成される。職業的経験とは、公共に携わる経験(つまり、政治を必要としている人たちとの関わり)や経済の実態(別の会社勤め)だ。代わりに彼らは政治家たちとの間に親密な関係を作る。だから、政策は分からないが、政局(政治家の人間関係や勢力図)はよく理解できるのである。
政治記者たちは政局報道に慣れている。だから視聴者にも、こちらのほうが「本物っぽく」見えてしまうはずだ。もともと好きだったということもあるのだろうが、普段から見ているうちにそれにならされてしまったという側面があるはずだ。この流れを変革する事ができるのは、別の職業経験を持った人たちだけだろう。
ここで中居さんが「自分で考えるのをやめてしまった」ことを重ね合わせると、テレビ朝日がこれを放送したのはとても「勇気があった」ことが分かる。バラエティなのだから「適当に花を持たせる」形であしらっても良かったはずである。
これができなかったのはなぜなのだろう。それは、現場を預かるマネージャたちが差別化の材料を持っていないからだと考えられる。彼らが持っているのは「長年の経験で作られた暗黙的知識ネットワーク上のポジション」だけなのである。だから、彼らは、潜在的に多様な視点を認めることはできない。それは自分たちの価値をおとしめるからだ。
日本のサービス産業はこのように「持ち運びができない知識」を持った専門性が高い人たちと、「マニュアル化(形式化)できる」単純労働者に二極化されているようだ。専門性が高い人たちがこの「暗黙的な知識のネットワーク」から弾き出されてしまうと、あとはまた長い時間をかけて暗黙的な知識を学び直すか、単純知識のネットワークに甘んじるかという極端な選択を迫られることになる。
このまま労働の流動化が進めば、こうした問題はますます顕在化するはずである。と、同時にこうした移動は多くの労働者が「単純なマニュアル労働」しかできなくなるということを意味する。
これを克服するためには、知識がどのように伝達されうるかということを学び直す必要がある。『ナレッジ・マネジメント (ハーバード・ビジネス・レビュー・ブックス)』のような知識の理解は、少なくとも経営者にとっては必要な知識になるだろう。