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民主主義が多数決という暴力に変わる時

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高度経済成長期の人も実はそれほど公共や政治のことを語らなかった。若者は選挙に行かない・政治に興味がないとして「ポリティカルアパシー」などと言われていた。民主主義が日本に導入された時期と比べて高度経済成長期の人たちが政治に興味を持たなかったのは、終身雇用と年金制度が盤石だと考えられていたからだったのではないか。日本は東洋随一の先進国でありライバルはいなかった。すでに周辺国より勝っていて、いまや戦争で負けた国に挑もうとしていた。うまくいっているのだから、あえて新しいシステムを作る必要はなかったのである。

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こうした「平和ボケ」な状況に、大人たちにはそれなりの危機感があったのだろう。ウルトラマンのように自衛隊と米軍を模したようなヒーローものも作られたし、川内康範の『愛の戦士レインボーマン』や『正義のシンボル コンドールマン』のように仏教的・東洋的な哲学の民間理解が原型になったヒーロー物もあった。当時のヒーローものには世相が入っている。

川内作品は戦争の悲惨さや強欲の非道徳性などを「子供向けに」解釈したものだ。彼らはそれを正義と呼んでいた。高度経済成長期の正義の理解は印象の寄せ集めであり学術的に体系化されたものではなかったのだが、それで事足りていたともいえる。ヒーローものは「正義に目覚めた孤独な青年」が「一部の悪と戦い」「一般庶民を守る」という体裁になっている。一般庶民はサイレントマジョリティとして描かれているのである。

いずれにせよ当時の子供はこうしたメッセージを咀嚼することなく大人になった。例えばヒーローものはおもちゃを売るために集団化した。さらに、戦いの目的は成長になった。成長と言っても日本の場合はレベルアップのことを成長と言っている。ゲームでスキルが上がって行くようなイメージである。現在生き残っている日本のヒーローものには統合や変容という内面の成長を描いたものはない。とにかく強く・大きく・うまくなることが求められる。日本人は経済成長をそのようなものだと認識していたのだろう。

いつごろから人々が政治や公共について語り出したのかはよくわからないのだが、いまTwitterを見ると政治的な議論で溢れている。ある意味日本人はかつてより政治や公共について話すようになった。しかしそれはSNSの中の話だけである。普段の生活では誰も政治については語らない。それはいままで以上に「厄介ごと」と考えられている。日本人は集団に紛れてしか政治を語らない。

ぽっかりと日常の中にだけ政治がないのだが、お茶の間のテレビにもスマホの中にも政治が溢れている。そしてその政治というのは実は昭和の高度経済成長期の残り香なのである。

SNSを支配するのは怒りに支配された人たちである。彼ら中流層にはかつてのような約束されている未来はないからヒーローのように成長することができない。こうした人たちの一部が「嫌韓」に流れていることは間違いがないと思う。強くなるためには敵が必要だからである。SNSを支えるのは、あるいは定年退職したかつての真面目なサラリーマンかもしれないし、毎日黙って荷物を運んでいる現役のドライバーたちかもしれない。

ところが彼らの敵には実態がなく、したがって勝利の感覚は得られない。そうなるとそのエネルギーはどこに向かうのか。これが恐ろしい。最近トリチウム水をめぐる議論を観察した。

こういう話である。福島原発の処理は進まない。山から水が流れてきた。貯めてみた。溢れてきた。でも海にいま流すと非難されそうだ。漁民は怒っているし韓国は騒いでいる。だからとにかく貯めて、一生面名対策を考えたフリをしよう。うまくいかないだろうがとりあえず土を凍らせてみた。やっぱりダメだった。やっぱりダメみたいです。

誰も責任を取らない日本の縮図がここにある。

ここに明確な悪を求める人たちもいる。裁判では「いろいろ規制をしていたら原発など作れなくなる」と言っていた。司法は自分たちの判決がかろうじて動いている社会の仕組みを止めてしまうのを恐れている。原発が全部止まって電気が不足すれば裁判所が非難されるからだ。多分司法は「国民は理性的にこの問題が解決できる」とは思っていないのだろう。だが、実際に人々が司法に求めているのは「とにかく悪者を作ってその人を断罪すること」なのである。人々は悪を求めているのだ。

だがそれよりひどい人たちもいる。司法は有罪判決を出さなかった。政権が正義に決まっているのだから、誰も責任を取らずとりあえず海に撒き散らすのが正義なのだと言い出す人が出てきた。彼らはつまり正義を求めて暴走する人こそが少数派であり悪であると言い始めた。人々は問題解決ができないヒーローを捉えて悪の組織に売り渡し「自分たちが正義なのだ」と叫んでいる。ヒーローは孤独な一人かあるいはチームであり一般庶民は多数だ。多数決をすればヒーローは負けてしまうのである。

悪夢のようなヒーローものの完成である。

かつてヒーローものを見ていて素直に喜んでいた子供達は正義について真面目に考える時間を持たなかったし持たせてもらえなかった。こうして人々はダークサイドに堕ちてゆくのである。もはや何が正義かなどどうでもいい。とにかくどうにかして勝てればいいのだ。

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