丸山穂高議員の問題に最初に着目したのはQuoraで書くネタを探していたからだった。まさかこんな大騒ぎに発展するとは思わなかった。
しかしこの対応を見ていて気分が悪くなった。理由がわからなかったので、なぜ気分が悪くなったのかということを考えてみた。そのあともいろいろ動きがあり、最終的に「戦争がいけないことだ」と道徳的に押さえつけると、やがて戦争をやりたがる人を止められなくなるだろうなと感じた。ただ「戦争はいけない」という正義に酔った人たちにこの声が届くかはわからない。
最初からこの問題は、ことの是非ではなくTwitterでは丸山さんが辞めるかどうかということが問題になっていた。普通の人たちが騒ぐのは仕方がないとして、新聞社の人もそう考えている人がいるようだ。
トンデモ発言には仰天しましたが「辞めない」という判断にはさらに驚かせられます。たとえ国会議員を続けても、議員辞職勧告決議が行われ、どこの会派からも拒絶され、官僚の協力も得られず、何もできません。何もできないのに、なぜ職にとどまるのでしょうか。 https://t.co/kpSOTC5mpT
— 小川一 (@pinpinkiri) May 14, 2019
丸山さんは政治家として現地に言っている以上政治家として弁明すべきだったし、マスコミもその弁明の場を設けるべきだった。だが、人々は「なぜ北方領土を取り返すのに戦争ができないのか」がわからないので、道徳的に騒ぐ。そしてマスコミがそれを煽るのだ。
政治家も外交官もサンフランシスコ講和条約の意味を知っている。だから、ロシアが「南クリルは戦争の結果確定した領土だ」と言っている以上先に進めないことを知っている。国連には敵国条項というものがあり、敗戦国が戦争で確定した領土を武力で奪い返すことを禁じている。敵国条項がなくても国連体制下での戦争は違法である。だから、いろいろなレベルでとにかく戦争はできない。
次に見たのはこれだった。維新丸山議員の発言をロシアメディアが取り上げています。彼の発言により北方領土問題は後退しますか?というものだった。
ここで「何が気持ち悪いのか」がわかった。この質問は結果について書いている。結果がどうなるのかということは誰にもわからないので、この問題は本質的に回答のしようがない。でも、この質問は日本人の本質をよく表現していると思う。日本人はプロセスではなく結果を重要視するのである。つまり結果さえ良ければプロセスはどうでもいいと思うのだ。
そこから小川一さんのTwitterに戻ると、ああこれも結果なのだなと思った。つまり、何か問題を起こすと「その思考のプロセス」や「影響」などについて考えることなしに「議員辞職」という結果に飛びついてしまう。こうなると途中過程はブラックボックスに置かれるので問題が解決しない。問題が解決しないからまた同じ問題が繰り返し繰り返し起こることになる。これが「パッとわかってしまう」人はこの結果重視が気持ち悪く感じるし、わからない人はいつまでも結果だけを見て騒いでいる。そしてマスコミの中にいる人たちは途中経過の重要性がわからない。
ところが話はそこで終わらなかった。当の本人が参戦してきたからである。言論弾圧だと騒いでいる。
憲政史上例を見ない、言論府が自らの首を絞める辞職勧告決議案かと。提出され審議されるなら、こちらも相応の反論や弁明を行います。ただ問題は、議運委や本会議では本人からの弁明機会の機会すら無い。その場合には、この機会にyoutube等で自ら国内外へ以下の様々な配信を。https://t.co/UJJDQgj0SW
— 丸山ほだか (@maruyamahodaka) May 15, 2019
今回は丸山さんは一人だけなのでこれを道徳で押さえつけることができるだろう。でも、それでよかったとはならない。議論の積み重ねが残らないからだ。
我々は、消費税の混乱する議論や、安倍政権下でめちゃくちゃな論理が堂々とまかり通る惨状を散々見てきたはずである。つまり「戦争をして北方領土を取り返せ」という声が丸山さん一人のものでなくなったとき「ムラが総出で心得違いをしたものを罰する」ということはできなくなってしまうのだ。日本のムラで考えたことが外で通用するとは限らないにもかかわらずそうなるのだ。
だから、今回の件は切断して終わりにすべきではなかった。日本は戦争に負けたのであり、現在の国際情勢は戦争による問題解決を一切認めていないということを周知すべきだった。
だが、我々はそれをやらなかった。日本人は個人としてプロセスを理解するのが苦手で、みんなで誰かを押さえつけることによって快感を得てしまうからだろう。だが、それは将来丸山さんのような人が大勢出てきた時、大勢の丸山さんたちを抑えられなくなることを意味している。