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うちわで盛り上げれば盛り上がるほどリベラルは衰退し、安倍政権は続く

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野党がだらしないから安倍政権は続く。このフレーズに怒る人は多いが、一歩進んで何がだらしないのかを考える人はいない。

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統一地方選挙が始まった。面白い素材なので、近所の議員事務所を訪れたり、電話で取材をしてみた。結局、日本の選挙は「地縁・血縁」なのだということがよくわかった。そうなるとまだまだ安倍政権は続きそうだなあという虚しい感想を持った。だが、実際の情勢を観察するとそのだらしなさには様々な要因があることがわかる。そしてそれをまとめる概念が「社会・公共の不在」である。

県議会選挙では候補者が定数しか立たなかった。東京近郊の政令指定都市なのだが実はほぼ無風になっている。一方、市議会議員選挙では2000人ちょっとを集めると議員になれるので候補が乱立している。

市内には小西洋之という参議院議員がいる。この人は統一地方選挙のことは一切無視して「令和という元号がなぜ立憲主義に反するのか」というようなことをつぶやき続けていた。反安倍の風さえ起きればまたかつての勢いが盛り上がると思っているのだろう。確かに失われたという感情を持つ人たちを煽るは有効な手法なのだが、そのためには「強い側に立っている」という自己認識が必要だ。だから、被害者感情の強いリベラルを煽っても風にならないのである。

立憲民主党は新人を立てたようだが、連絡先もわからなければ事務所がどこにあるのかもわからない。ワタナベエンターティンメントの学校に通っていたようなのでお笑いタレントになるのをやめて政治家になることを決めたらしい。一応県連に電話してみたが「折り込みチラシを読んでくれ」というばかりで特に推薦コメントは得られなかった。他人に向けてどうしてでもこの人を市政に送り出したいなどという情熱はなさそうである。選挙期間中なのにスマートというかドライな反応である。いろいろ考えて本社のマーケティング部の人に似ているなと思った。

現職議員の一人は国会議員の系列では国民民主党系に入ったようだ。衆議院に比例復活した人がいるのである。今回無投票になった県議会議員と合わせて国民民主党は系列化が進んでいる。野田佳彦も表向きは「どちらも応援できる」と言っているが、実質こちらの応援に入っているようである。勢いがついた方に乗るのだろう。この議員は家族がスタッフになっていて「自治会などとのつながりも強いのでぜひ投票してほしい」と熱心に頼まれた。普段だと「そんなしがらみでは入れられない」などと思うのだが、立憲民主党にあまりやる気がないのでこれが新鮮に映ってしまう。実際に自治会と協力して防犯カメラを地域に入れるのに尽力したということも知っているので候補としては残りやすいのだ。もう一度選挙カーに乗っているところで会ったのだが顔を覚えてもらっていた。家族は生活もかかっており普段から活動している様子も知っているわけだから一番熱心だ。日本では血縁でできた家産共同体だけが唯一信頼できる集団なのだろう。

そして市民ネットという主婦の集まりがある。ここが最悪だった。選挙活動には興味がありそうだが、選挙にも政治にも興味がない。

ちば市民ネットワークの説明は今回も全く要領を得なかった。主婦のうちわの集まりなので居場所ができただけで満足してしまっているらしい。政策的な話は何一つ通じなかった。改めて市の市民ネット本部に連絡をするときちんと説明をしてもらえたので、団体自体が政治的にデタラメというわけではないようだが、その活動が末端まで届かない。

主婦のサークルなので当然政治的なことはわからないし、他人に対して何かを説明するということは難しい。まあ、ここまではわかる。「市議会ではたしか何かを反対したと思う」というのだが「それは何か?」と聞くと答えられなかった。資料を引っ張り出して「ああ、マイナンバーだ」という。

これまでこのブログでは日本人が正解を覚えるとそれに満足してそれ以上考えないということを観察してきた。この主婦も自分たちの居場所でマイナンバー反対という正解を覚えてしまい、それで「政治に詳しくなった」と満足している。でもそれ以上の「面倒なこと」は考えたくないので、他人の説得まではできない。結局、有権者に相手にされなくなった社会党系のおじいさんたちのカモになってしまうのである。

不思議なことに共産党はかっこ悪いと思っているようで「結局共産党と一緒ですよね」というと露骨に嫌な顔をした。多分、自分たちがリベラルのどのポジションにいるのかよくわかっていないのだろう。

日本人は集団で競う運動会には熱心に参加するが、政策やイデオロギーといったものには一切反応しない。極めて強い集団への同調意識があるのだが、それが認識されないという不思議がある。

このため、立憲民主党のように「脱しがらみ」を掲げるとドライな人だけが集まり「きれいに」政治に勝とうとする。こちらはマーケティングコミュニケーションの本部のような形態になる。だがお金がないのでCMが打てないから認知が広がらない。実際には小売店で泥臭いマーケティング活動をしている人がいるのだが、マーコム本部からはそういう姿勢は見えない。そして実際にものを売るのはマーコムではなくお店なのだということも彼らはきっと忘れている。泥臭いのは嫌なのだろう。これが立憲民主党が「何かいいこと言っているのに全く存在感が見えてこない」理由になっている。

そうなると残るのは利権を維持するための産業共同体とか、家族でやっている職業議員だけということになる。特に家族経営だと議員家族は必死になるので「是が非でも勝ってもらいたい」ということになる。そして「まあ、いつも先生にはお世話になっているから」ということで入れる人が出てくるのだ。というより他に選択肢がないのである。

継続的に経過観測していなければきっと「しがらみだらけの地縁血縁選挙は日本をダメにする」などと知ったようなことを書いたと思うのだが、実際にはそれ以上に信頼できる集団が作れないのだから、真剣に考えれば考えるほどしがらみで票を入れざるを得なくなるという風土がある。

今回「候補者の人となりが知りたい」とどこでも変人扱いされた。日本では組織(つまり何らかの利益関係)や地縁・血縁のない人は「赤の他人」である。赤の他人が何のメリットもないのに他人に協力しようということが全く想定されていない。もしかしたら「情勢を伺うためのスパイ」と思われたのかもしれない。それくらい個人は軽視される。

日本には公共も社会もないというといろいろ言ってくる人は人は多い。言葉としては成立しているので、多分裏に何か深い哲学があると思い込むのだろう。だが、実際にはそんなに難しいことを言っているわけではない。本当にそんなものは日本には存在しない。あるのはしがらみで結びついた集団と赤の他人の集合体だけなのである。ゆえに市民が支える政党などが成り立つはずもない。こうなると政治を支えるのは、宗教化した集団(共産党と公明党)、ネトウヨ的な憎悪(自民党の一部)、利益集団(自民党と国民民主)、地縁・血縁(自民党と国民民主)だけということになる。

自民党は公共を作りたがっているが。彼らの公共は特定の利益団体に赤の他人(無党派の有権者のこと)を奉仕させることと、赤の他人が自分たちに迷惑をかけないように勝手に何とかしてくれるという社会だ。彼らはこれを「公共」と言っている。なので彼らが作るビジョンは令和という「梅の花がきれいだね」くらいのものである。が、利権には鋭敏に反応する。これは集団の勝ち負けに大きく関係するからだ。

日本には社会がないから包摂社会などという言葉を使って選挙をやっても勝てない。社会がない以上それが何かを包摂したりしないのである。実に簡単な話なのだ。だが、それではこれ以上の発展は望めないばかりか社会の私物化はますます進むだろう。

なかなか出口がないようにも見えるのだが、少なくとも問題点そのものがわからないよりはマシである。あとは「これじゃまずい」と思えばいいので、地方選挙は身近なので時間をとって話を聞いてみるといいと思う。

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