QUORAで「心ない言葉を投げつけられたらどうするべきか」という質問があった。今日はこれについて考える。結論としては、目に見えた形で見捨ててあげるといいと思う。
最初この質問を見た時「場合によって違うから答えられないな」と思った。と同時にこういう質問をしてくる人は一般的なことではなく自分の話をしたい場合が多いのではとも感じた。要は解決策ではなく共感を求めているのだから、一般的な解決策を提示しても意味がないだろう。相互依存的な「わかってもらいたい」という感情が強い日本では文化的に許容された甘えだ。
だが、しばらく考えてみて答えが見つかった。そもそもなぜ「心ない言葉を投げつけるのだろう」と思ったのがきっかけだった。本人にはそのつもりがないが、結果的に心ない言葉になっている場合解決は簡単だ。合理的なコミュニケーションは発言の本意を相手に質すことで容易に解決するだろう。それでも理解されない場合には「個人的に取らない」ことで受け流せばよい。自分の中にある正解から抜け出せない人はたくさんいるから別に構う必要はない。
例えばお子さんが生まれなくてかわいそうねなどと言われたとしても気にする必要はない。多分その人は「子供いない=かわいそう」という世界からは抜け出せないだろうからこだわっても仕方がない。しかし「自分もなんとなくそう思っていて」気になる場合もあるだろう。だが、納得させるべきなのは他人ではなく自分だ。自分を簡単に納得させられるとも思わないが、不可能ということもない。
しかし、誤解やミスコミュニケーションではない敵意に満ちた言葉というものもある。心ない言葉を定期的に投げてくる人がいるのだ。そういう人はなぜ心ない言葉を定期的に投げてくるのは相手を屈服させることで支配したいからなのだろう。ここまでは容易に想像がつく。ではなぜ支配したいのかということが問題になる。「なぜ支配したいのか」まで考えたことがある人は意外と少ないのではないか。
支配したいということは、自分が管理していないと、その関係が壊れてなくなる可能性があり、それによって自分も壊れてしまうということだ。つまり、この支配欲求は見捨てられ不安なのだ。
見捨てられ不安はそれを持っていない人には想像しにくく共感もしにくい感情である。特に一人でも平気だと考える人は「別に他人から見捨てられても自分がなくなるわけでもないし、むしろ自分の世界に浸れるから好ましい」などと思ってしまうのだが、依存的な感情に支配されている人にとっては「大変な」事件である。自分がない人は人間関係を自分の価値だと思い込んでしまうのである。
とはいえ、心ない言葉を吐く人がすべて見捨てられ不安にさらされていると決めつけることはできない。そこでいったん冷たいそぶりをしてみると良いと思う。するとその人は急に優しくなったりするだろう。取引が始まったら、この人が見捨てられ不安を抱えていると確定して良いと思う。
ここまでくると心理学的に細かいことはわからなくても、これが虐待構造に似ているということに気がつくだろう。虐待をする人は暴力を振るったとしても自分を冷たい冷酷な人間だとは思わない。逆に自分は慈悲深い人間だと考えており、虐待した後に急に優しい態度をとったりすることがある。ところが虐待をする男性に対して「実はこの男性は私のことを愛しているんだわ」などと思うのは危険だというのもよく知られた話である。気を許すとまた暴力が始まる。つまり、虐待を繰り返す人は「人間関係というものは本来的に不安定なものであって自分でコンロトールしなければならない」と感じるのである。だが他人を完全にコントロールすることはできないので怒りが生まれる。子供という「コントロールできない存在」を抱えた時に初めてこれに気がつく母親も多い。
しかし、こう考えることもできる。見捨てられ不安というのは見捨てられるかもしれないという不安である。だからそれが確定されると「ああそんなものか」と思うかもしれない。ここは思い切って見捨ててあげるといいと思う。つまり、不安を確定してやるのである。一切関わらないことを決めてもよいのだろうが、実際には一定の線を引いてそれ以上は依存しないのが良いと思う。つまり、見捨てられたとしてもそれが世界の終わりではないことがわかると却って関係が安定するはずである。彼らが終わりのない取引に夢中になるのは不安定さが要因なのだからそれを断ち切ってやればいいのだ。感覚としてはハサミでヒモを切るような感じである。つまり、なぜ自分がその人を見捨てるに至ったかを説明する必要はない。もう関係ないことだからである。
この解決策には二つ困った点がある。見捨てられ不安を持っている人が集団を支配したい場合に誰かを指定していじめることがある。この場合ターゲットは集団でありあなた自身ではない。だから、その集団から抜けるしか解決策がない。これが学級や職場の場合などは完全にやめるわけにも行かないのですこしやっかいだ。だが、こういう人に支配されているという時点でその集団は病気になっている。できるだけ依存度を弱めてそれが終わるのを待つか次の転職先を探すなどしたほうがよいかもしれない。学校のいじめの場合クラスの外に社会を持つのが大切である。人生は長い。中学校も高校も3年我慢すれば過去のものになる。ここで命を絶つほど思いつめるべきではない。
もう一つは実は共依存的な関係ができている場合である。特に自我が発達ないまま大人になり未だに母親との関係に悩んでいるような女性にお母さんを否定するようなことを言うと「世界が終わるかのように」反応してくることがある。日本には「母子というのは親密な関係を持つべきである」という社会規範がある。その人にとっての正解がわかっているのに果たせないのが問題になってしまっている。これは解決ができない。見捨てられ依存に陥った母親のメンタリティは変えられないからである。
日本は土居健郎の甘えの構造で指摘されたように「甘え」という構造を大切にしている共依存社会なので、こうした感情から抜けられない人が多い。だが、虐待が治療できないように、共依存に陥いった関係も多分治療はできない。アルコール依存のある人はお酒があれば飲んでしまうし、人間依存の人は人間がいればしがみつく。
日本のように文脈依存が強く、自我を発達させないことが好まれる社会では「何を言っているのか」ということはそれほど重要ではない。その背後にある意図や企みについて考える必要があるように思える。心ない言葉を聞いた時にはその背後にある企みに想いを寄せることが重要なのだと思う。