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強いリーダーを望まない日本人

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カルロス・ゴーン容疑者が逮捕されてしばらくたった。テレビでは人民裁判的に「腐敗して堕ちた」英雄像が作られている。この経緯を見ていると面白いことがわかる。

ゴーン容疑者が「救った」当時の日産は、赤字が出ることがわかっている車の開発を止められなかったという。あえて開発を止めて悪者にはなりたくないが、責任もとりたくないの。誰もリーダーシップを取らない会社だったわけだ。そして結果が出るとお互いに指をさしあって口々に相手を非難し始めるという状態になっていた。担当という意味の責任はなく、結果責任をめぐって指の差し合いをしていたということである意味現在のTwitterに似ている。業績が落ちても不思議ではないし、NECのように同じような状況に陥った大企業は珍しくない。

ところがゴーン容疑者が救ったはずのメンタリティは20年弱もの間それほど変わっていなかったようだ。朝日新聞の記事では「巧妙でわからないように隠蔽していた」ということになっているが、彼らが事前に空港に張り込めたことからみて、これが検察の意図に沿った筋書きなのかもしれないと思う。フランス政府との駆け引きになっていたことからすでに政治問題化していたのかもしれない。

額があまりにも多いことから、取締役たちはみな知らないふりをしていたのではないかと思う。ただ、彼らはそんなことは別にどうでもいいことだと思っていたのではないだろうか。自分たちの領域から収奪されたのならそれは問題だが、そもそも配分前の利益なのだから「まだ誰のものでもない」。つまり、村を生きているに日本人には自分には「まだ」関係がない金だったのである。日本には公共という概念がなく村があるだけなので、会社という公共のためにリスクをとって状況を変えようという人は恐らくいなかったのだろう。

つまり、ゴーン容疑者が救った頃の日産に日産という会社がなかったと同じように、今の日産にも日産という会社はない。日産は単なる巨大なセクションの集合体なのだ。

面白いのは、20年弱の間に経営陣が入れ替わっているということである。さらに彼らはゴーン容疑者に取り立てられたものたちであり、当時の文化を引き継いでいるわけではなさそうである。にもかかわらず同じようなメンタリティが見られるところをみると、これが日本人かあるいはこの会社に特徴的な文化だったということになる。日本の文化の背景にある村社会がいかに強力なものかがわかる。

ゴーン容疑者はフランス大統領からのプレッシャーを受けて「不可逆的な統合」に乗り出していたという話がある。つまり「このままでは永遠に植民地化されてしまうぞ」ということがわかってからはじめて内部で慌てる人が出てきたか、彼らの責任は司法取引で問わないことにするから協力しろという外部からの働きかけがあったのだろう。つまり、自分たちの村が危ないと考えてはじめて村のリーダーたちはお互いに協力することにしたのではないだろうか。この場合には誰かに責任を押し付けてその人を生贄のように非難する臨時同盟が作られる。ワイドショーでおなじみの光景である。危機が去ればまた村の共同統治のような形に戻るのかもしれない。

いずれにせよ、逮捕されてから西川社長が「ゴーン容疑者は許しがたい」というところまでの流れがスムーズだったことから、政府・検察・マスコミ・日産社内にまで意思統一が図られていたことがわかる。当然ルノーの介入が予想されていたわけだから、彼らが動き出す時間を与えないことが極めて重要だったわけである。誰に習ったわけでもないのだろうが、村という集団民主的統治方法はかなり根強く日本に生きている。ただ、この集団民主主義は誰も全体への責任は取らない。

このことから、日産にDNAのように残っている誰も責任をとりたがらない気風が復活することは間違いがないのだが、集団で責任を押し付け合い最終的に誰も意思決定しないという意味では典型的な日本企業のあり方であり、何も日産だけが特別というわけではないだろう。こうして消滅しつつある大企業は他にもある。次に買われる時の飼い主はあるいは中国か台湾の企業なのかもしれない。

自民党にも同じような構造が見られる。各派閥が形式的には私物化を進める官邸には逆らわないが、かといって積極的に総理の政策にコミットしない。安倍首相の自民党支配が後何年続くのかはわからないが、外部からの介入やそれなりの危機がない限り、日本人は改革をせずに「強いリーダーにお付き合いしよう」と考えるわけである。そして、何かがあったときには、これまでの経緯とは全く関係なくバッサリと切ってしまうのだ。一部のネトウヨ議員を除いて安倍首相に味方する人はいないはずである。

このように日本で「一見強い」リーダーが出てきてもそれは実質的に強いリーダーとは言えない。日本はその意味では強いリーダーのもとに集団が協力するという主義の社会ではないのである。だが「自分たちの領域が支配されるかもしれない」となると一気に文脈が変わる。今までとは態度が一変してしまうことになる。

ゴーン容疑者は取締役会を支配することで企業を支配していたつもりでいたのかもしれないが、村の集合体である日本にとって一番大切なのは実は実働部隊だ。自民党で言えば、各利益団体とか地域の選挙区などがそれにあたる。権限の割り振りという西洋流のものの見方をしていたゴーン容疑者はそこを読み違えたのだろう。普段の日本人のリーダーはあえて均衡を崩すことは考えない。ところが村が理解できないゴーン容疑者は「意思決定をしているのは取締役会であるから、当然取締役を掌握すれば上から企業が抑えられるはず」と思い込んでいたのではないだろうか。

歴史ヒストリアで鳥羽伏見の戦いの回を見た。外から迎えられた徳川慶喜がしぶしぶ戦いを承認するが、途中で逃げてしまうという回である。慶喜には子飼いの部下がいたわけでもなかっただろうし、家臣たちにもそれほどの信頼も置いていなかったようだ。彼が現場を掌握できず油断した部下たちを引き締めることもできなかったのは当然のことである。結果的に徳川慶喜は逃亡し幕府は滅亡したが徳川慶喜自身はその後も生き続けた。

また、昭和天皇も、なし崩し的に大陸に進出して責任を取らない部下たちを掌握できなかった。昭和天皇も直属の軍隊や領地を持っていたわけではなく、単に祭り上げられる存在だった。

日本人は仲裁のために調停者としての権威を祭り上げたがるが、強いリーダーを置きたがらない。一見強いリーダーが出てきたとしても村には手出しできないし、手出しをすれば放逐されてしまう。だから中からトップダウンで改革するのがとても難しいのである。

皮肉なことに安倍首相は日本人なのでこうした村の仕組みがなんとなくわかっているのだろう。彼が実際に自分でやりたいことを始めた時、あるいは彼が去ってこれまで先送りしていた問題が全て表面化してくる2020年ごろには日本は大変なことになるのかもしれない。憲法の問題は進展していないので、このまま問題が先送りされオリンピックの後にはかなり大変なことが起こるかもしれない。これまで隠していた問題が次々と浮上するからだ。この時安倍首相を形式的に祭り上げ、あるいは下ろす時に同盟を組むことになる村長たちは自分たちで責任を取るために同盟できるだろうか。

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