Facebookのコメントで「日本が日本型ポピュリズム(衆愚政治と表現されていた)に走るのは結局自民党のせいなのではないか」というようなコメントをいただき「お互い様」だと返答した。両手を合わせて音が鳴った時「右手の音か左手の音なのか」ということを考えるようなものである。
だがそこで「いや待てよ」と考えなおした。これではオープンドアにしている意味がないからだ。そこで国民はそれほど悪くないが自民党が悪いと言える事例がないかと考えてみた。しばらくTwitterを巡回していて思いついたのは災害基本対策法と憲法の緊急事態条項の問題点である。今回の安倍政権の対応には問題があるのだが、その問題の根底には二つの異なる価値観にバインドされている自民党の悩みがあるように思える。自民党は村落社会的な現実と西洋流のリーダーシップという幻想の間で揺れているのである。自分たちの村落性を超克できないからこそスーパーマンのよいなリーダーに憧れるのかもしれない。
災害対策の基本理念は地方自治体が情報を集めて中央に決済を委ねるというものだ。地方が自由裁量で使える自主財源はなく必要な支援はその都度国から受け取る。そもそもこの図式が間違っていると思うのだが、個人的な意見なので脇に置いておく。
必要な情報は地方が持っているが中央が意思決定を行うので報告が欠かせない。国は基本的には決済権限と予算を手放したくないし、官僚は省庁の権限を守りたいと考えているので様々な試行錯誤が行われている。だが「権限の整理」は避けて通るので、災害対策基本法は何か災害が起こるたびに「想定外だった」という議論が起こり頻繁に見直しが入っている。
法案を見ていても細かな見直し論ばかりで基本的な絵が見えない。そこでいろいろ検索したところジセダイ総研というサイトが国の災害対策についてまとめた文章を見つけた。ジセダイ総研によると、各省庁の縦割りで実行されていた災害対応を内閣府に集約しようとしているようだ。ここにも日本型集落がある。各自治体も集落なのだが、実は政府もいろいろな省庁が集落を形成しているのである。日本人は協力せず動かないための議論をする。だから、緊急時にはこの議論そのものを失くしてしまおうと考えたのだろう。
アメリカのFEMAが着想の元になっているという。これはこれでなんとなく良さそうな政策に見える。だが、批判的に見てゆくとちょっと違った図式が見えてくる。
最初に「情報が上がらなくなったらどうするのだろう」というようなことを考えたのだが、これはそれなりに試行錯誤が続いているようだ。もともとは市町村がボトムアップで情報を都道府県に上げて行きその要望を県知事から国に吸い上げるという図式だったようだが、今では都道府県が積極的に情報を取りに行くように見直しが行われているという。
ここで「では中央が破壊されたりやる気がなかったりしたらどうなるのだろう」という疑問が湧く。つまり、中央の丸がなくなると有機的な結びつきが失われてしまい、スキームが破綻する。
今回安倍首相が私邸に引きこもったのは、やる気がないか、安倍首相が深刻な足の問題を抱えているか、フランスで力強いリーダーの一人として軍事パレードに参加することで頭がいっぱいになっていたのかのどれかだが、いずれにせよ豪雨災害のことなど何も考えていなかった。所詮は他人事だからだ。
安倍首相はこの点では批判されるべきだ。しかし、イライラするようなごまかしばかりするので、批判してもこちらが疲れるだけである。近隣自治体が有機的に連携するような仕組みを作れば良い。
市町村と都道府県でピラミッド型の絵を描いた人にはわからないかもしれないが、このようなネットワーク型の絵を描いた人は、お互いの線を結べば冗長性が保たれて「より強い社会が作れる」ということに気がつくはずである。
これまでの観察結果をを踏まえると、ピア(同僚)同士では協力しない日本人の特性が懸念される。しかし、さすがに災害の多い国なので「困ったときはお互い様」というような生活習慣も根付いている。これを制度化してやればよいということになる。
だが、自民党政権は多分自分たちを中心にしたピラミッドを想定しているのであろう。権限は手放したくないので自治体に決済権限を渡して相互連携するような仕組みの構築にはあまり積極的ではなさそうである。世耕弘成さんは「国がわざわざ地方自治体に電話してやってエアコンを設置している」と盛んに宣伝している。地方自治体は自分たちの財源でまともな避難所を作ることができないのは大きな問題だし、経済産業大臣が「エアコンを配るのが経済産業省の大きな仕事である」と誤認しているという点も問題だ。だが、実際に被害を受けていない世耕さんにとって災害というのはこの程度のことなのかもしれない。首相にはやる気がなく、その配下の大臣は未だに自分が広報担当者だと思い込んでいる。
次に中央の丸は本当に機能しているのかという問題がある。ついに安倍政権は今期水道法を改正するのを諦めたようだ。自治体同士の利権調整もできず、私企業に頼ろうとしたもののこれにすら失敗してしまったということである。村落集団に支えられた政権は村落の問題を解決することができないしその意欲もない。
霞ヶ関の村落性の問題はジセダイ総研にも書かれている。内閣府は実働部隊も機材も持っていない。つまり実態は各省庁の寄せ集めである。力強いリーダーシップを発揮する意思はなく、省庁も権限と人を手放さない。さらに、利権を持っていない内閣府も当事者意識を持ち得ない。日本人は自分の利害が絡まない事象には基本的に冷淡だからだ。
自民党政権(安倍政権と言い換えても良いが)はこれまでの経緯から内閣府に権限を集めてきたが、所詮はよその村の出来事なので当事者意識は極めて薄い。いろいろ言われるが所詮は他人事である。気象庁は警告を出していたが、安倍首相は酒盛りをして公明党にも批判された。「西日本の災害であり東京にはこなくてよかった」くらいに思っていたのかもしれない。別の幹部は「こんなことになるとは思わなかった」とのほほんと語り、東京が地盤のある政治家は七夕の夜だから雨が止むようにお祈りしよういって顰蹙を買った。
彼らが権限と情報を中央に集めたかったのはもともと日本人が村落間の協力を拒みまとまらないからなのだと思う。つまり「お互いに言い合いばかりしておりちっとも協力しないから自分たちが出て行ってまとめてやる」と思っているのだろう。だが、実際には永田町も霞ヶ関も自分たちを一つの村落だと考えているので、中央集権にはならず、結果的に機能不全を起こしてしまうのである。
だが、実際に災害が起こると安倍首相は何をしていいのかわからなかったようだ。適宜処理するようにと言い残すと私邸に引きこもって問題から逃げてしまった。さらに被災地にも興味が持てなかったようで1時間ほど倉敷に滞在しマスコミに画をとらせただけで帰ってしまった。周囲の人たちは「エアコンがついたのはリーダーシップだ」とか「コンビニに物資が届いたのは安倍首相のおかげである」などと主張して有権者に冷笑される始末である。
政府のプッシュ型支援物資輸送の成果です。自衛隊がコンビニ商品をトラック輸送したのは初めてだと思います。安倍総理のリーダーシップです。全ては被災者のために! https://t.co/Cv1Q6k9bG1
— 佐藤まさひさ(正久) (@SatoMasahisa) 2018年7月13日
安倍首相は何かあったときに決めることができる権限は欲しかったが、実際には何もしたくなかった。このような人が「大地震が起きたときに強力な権限が欲しい」と言っており、憲法改正を目指している。独裁するつもりだろうという人もいるかもしれないが、実際には当事者意識を持たず何もやらないままで地方がバラバラに対応することを余儀なくされるというようなことが起こるだろう。とはいえ菅直人元首相のように力強いリーダーシップを発揮しても、やはり日本人はどこか冷めた目で「あいつ何言ってるんだ」としか思わない。そもそも強いリーダーシップなど日本にはありえないのだ。
安倍政権はフランスで軍隊を睥睨したいと考えてはいるが、地方が苦境にある時に共に戦おうという真のリーダーシップは持っていない。これは彼が考えている「力強いリーダー像」が幻想によって形作られているということをよく表していると思う。
安倍政権は平時には強いスーパーマンのようなリーダー像を夢想しながら、実際には共感も持てず、何をしていいか確信も持てないという中学生の妄想のようなマインドセットを持っていると言って良いのではないだろうか。