三浦瑠麗が叩かれだしてからしばらくたった。自称国際政治学者なのだが、デイリーメールというイエロージャーナリズムを引き合いにして「大阪には朝鮮人のスパイがいる」とやったことが反発されているようだ。この話を見ていて日本の生産性が上がらない事情について考えた。飛躍していると思うが順序立てて説明したい。
三浦さんが叩かれるのは仕方がない。どうやら話にはそれほど根拠はなさそうな上に朝鮮系の人たちに対する差別に利用される可能性が高い。仮にこの話が事実であり日本の治安に深刻な影響があるなら別のアプローチを取るべきだった。しかし、彼女はたんにテレビで面白おかしくネタとしてこれを消費しようとした。
ただ、三浦さんのように極めて無関心に危機感を煽るネトウヨの人は多い。例えば青山さんという議員は、国会の質疑で唐突に「漂流船に乗ってくる人たちは……」と危機感を煽り始めた。彼のいた言論プロレスの流儀を国会に持ち込んでいるのだ。仮にこれが本当だったとしても大きな問題がある。なぜならばそのあと国会は北朝鮮の漂流船について対策は取らず作業を地域に丸投げした状態は今でも続いているからである。危機を煽るがかといってその対策は取らないのである。
その極致が安倍首相だ。危機感を煽るがその解決策は「北朝鮮が泣いて謝る」か「アメリカがコテンパンにやっつける」というものであり、日本が何か何かをするという選択肢は提示していない。その裏には「どうせ日本が出ていっても国際情勢には影響がない」という無力感がある。
つまり、ネトウヨの行動原理の裏にあるのは「体制に乗って好き勝手なことを言いつつ危機感を煽るが、かといって個人では何もしない」ことなのである。無力感に裏打ちされた集団無責任体制なのだ。
しかし、これはネトウヨの人たちだけが悪いというわけではない。日本の集団は個人の意見を排除してしまう。だからドメスティックな環境に育った人たちが「個人で何を言っても集団には影響を与えない」と考えてもそれほど不思議ではない。
そんな中、個人が立ち現れてくる瞬間がある。それが「責任を取らせる時」である。最近ではテレビに対するクレームが増えており「これは個人の見解です」とするところが増えてきた。三浦さんが炎上の原因を作った「ワイドナショー」でもかつては「個人の見解を話し合う」としていた。いまでもそうなのかもしれない。
だからテレビ局は個人が炎上してもその攻撃が集団に向かわない限り何もしようとはしない。そして、攻撃が集団に向いたとしても「あれは個人の見解だから」といって逃げようとする。個人の見解とは集団が責任を取らないための言い訳なのである。
同じようなことは通販番組でも見られる。「コラリッチ」という化粧品のコマーシャルに美容家のIKKOさんという人が出てくる。コラリッチは中高年が肌のハリを取り戻すために使う化粧品である。ここでIKKOさんは使用法を伝授するのだが、下に小さな文字で「個人の見解である」と出てくる。薬事法かその他の規制で効能が唄えないか、あるいは所定量よりも多くのコラリッチを使わせているのだろう。そのクレームが来ることを恐れて(あるいは当局から指摘されることを恐れて)個人の見解としているではないだろうか。
かつては日本のマネージャーは「何かあったら腹を切って集団を守る」責任者として高い給与を得ていた。しかしながら、だんだんとこの役割を保持したままフリーの人たちに覆いかぶせるようになったらしい。その時に使われる言葉が「個人の見解」なのである。
編集権や最終的なパッケージを作る権限は集団側にあるのだから「個人の見解」などというエクスキューズが成り立つはずはない。
さて、そもそも「責任を取る」とはどういうことなのだろうか。それは間違いや不具合を認めて変わってゆくということである。つまり、誰も責任をとらないということは時代から遅れても変わって行かないということを意味する。
しかしながら社会の側もこの「個人の見解です」という言い訳を受け入れている。今回のフジテレビの件でテレビ局を避難した人や国際政治学者としての三浦さんを批判した人はごく少数だった。たいていの人は「三浦さんはコンパニオンのようだ」とか「あまり美人ではない」というような人格に関する攻撃をしていた。日本のように集団と個人が親密な社会では、個人の人格を攻撃してコミュニティから追い出してしまうことが一番の制裁だから、人格攻撃に傾いてしまうのだろう。しかし、このことで却って番組の姿勢には批判が集まらず、従ってテレビ局は同じような無責任なコンテンツを垂れ流すことになる。
そもそもこうした「個人の見解です」は気に入らなかったら個人を攻撃して憂さ晴らしして良いですよいうマーカーとして使われている。攻撃したい人はこのマーカーを素直に受け入れて個人を叩く。だから集団は変わらず、この言い訳も社会的に機能してしまうのだろう。
ウェブデザイナーのところで「誰も意思決定しないからだらだらと仕事をし続ける」人たちのことを書いた。フリーや外注のデザイナーには裁量がないが、かといって誰か別の人に裁量があるわけではないという社会である。誰も責任を取らないし、そもそも取りようがない。だから何も変わらず、生産性が上がらない状態でだらだらと働き続けることになる。
こうした「責任は全て個人のものである」という社会の一番の欠点は何も変わらないということなのだと思う。そもそも個人が働きかけて何かを変えられるとは誰も思っておらず「仕方がない」と考えている。そこで「責任を取りますよ」という人が出てきて優遇される。しかし、彼らも炎上の際は叩かれる側に回ることがわかっているのでできるだけ表に出ないで、何かあれば逃げようとする。こうして無責任体制が強化されてしまうわけだ。
こうした「個人の見解社会」のもっとも最近の犠牲者は佐川元理財局長かもしれない。攻撃は個人に向かいつつあり、彼を制裁することでなんとなく「おさまった」感じがするのかもしれないのだが、佐川さん一人を社会的に制裁したとしても政府全体にはびこる無責任体質は変わらない。佐川さんにはチームの一員としての責任はあるのだろうが、かといって人格攻撃をしても何も状況は変わらないのではないだろうか。
しかしそれでも個人叩きにはそれなりの喜びがあるのだろう。こうして社会が閉塞すればするほど叩かれる個人が次から次へと出てくるということになる。