東京新聞が河井克行夫妻逮捕について面白いルポを書いている。これを見ると日本人が民主主義という建前と村の風習の間のつじつまを合わせることができなくなっていることがわかる。この結果日本人は「反省できないから前に進めない」という状態に陥っているのではないかと思った。
まず、法務省・検察庁だが「自分たちが検事総長を推挙している」という建前を守るために自分たちから黒川検事長を推挙したことになっている。さらに、国民からの非難が集まると政治から独立しているということを見せようとした。だから河井夫妻を追い込むことに夢中になっていったわけで、結局は政治にとらわれているのである。
日本の組織というのは自己の正当化のためにはなんでもやりかねないということがわかる。
その無節操ぶりがわかるのが録画の使い方である。もともとプロセスの透明化のために始まったはずなのだが実際にはリハーサルをして演出までつけていたようだ。全く逆の効果を生んでいる。
だが、おそらく集団防衛を図りたい検察にとってそれは自然なことだったのだろう。自分たちを正当化するために飾り立てておきたいと考えるのが日本人なのだ。そうした正当化は個人ではなく集団で起きる。個人は大人しいが集団はなりふり構わないというのが日本人である。
では、法務省・検察庁だけが悪いのかということになるのだがそうではない。70万円をもらって「正当な対価だが何かいけんかったかのう」という選挙ボランティアの話や、検察にふりつけられて証言はしたものの「本当は言いたいことがあった」と被害者意識を募らせる議員の話なども出てくる。おそらく彼らは選挙のたびにお金が動くことに慣れていてうすうすは「遅れているなあ」と感じていたのだろう。
だが彼らは集団で行動し個人として反省しなかった。ところが今回の件で個人として引き立てられ実名でビデオを撮られてしまった。集団から切り離された個人という心もとなさが「憤り」となって現れる。ネットの匿名性を笑う人がいるが、個人で情報発信しない日本人は誰もネットの匿名性を笑えない。あれもひ弱な個人が集団になって相手に襲いかかるという集団現象だ。
例えて言えば、普段はおとなしく道を歩いているドライバーが豹変するようなものである。乱暴な運転をする車の運転席を見るとよくわかる。たいてい気弱そうなドライバーと目があう。何かに守られているという感覚が普段の心理状態の反動に結びつく。そこから引き剥がして「個人として語らせる」ことが日本では刑罰になってしまうのである。
記事に出てくる議員さんは自己弁護がしたかったのだろうがメンツを守ろうとする検察に無理やり自供させられたと感じているようだ。被害者意識を募らせる彼らが反省することはあるまい。
この「逮捕されるかもしれないから検察の言うままに話したがありのままに話したかった」という議員の言葉はかなり重要だろう。彼らは選挙でお金が動くという状況を知っているし、それが他人に見られると恥ずかしいということもわかっている。だが、その状況を変えられないことも知っている。だからこそ言葉で飾り立てなければならない。つまり彼らの言う「ありのまま」というのは虚飾の言葉であり本来とは全く反対の意味を持っている。そしてそのねじれた感情を彼らは解決できない。それを自己内省によって整理し相手に説明するという技術をそもそも日本人は持てないでいるからだ。
そもそも政党助成金はリクルート事件を背景にして起きた金権政治バッシングに対応して生まれた制度だ。つまり裏金をなくして税金から支出すれば透明化が図れるだろうという見込みがあった。今は2020年だが25年以上たってもまだ政治家たちの意識は全く変わっていない。それどころか「政党に支出された金だから何に使ってもいいのだ」ということになり当初の目的とは全く違った使い方がされている。
反省しない地方組織は自民党を内部から狂わせている。安倍総理は「敵基地攻撃能力を」と吠えているのだが公明党の山口幹事長が反対している。もし自民党が真剣に「日本は敵基地攻撃能力を持つべきだ」と考えるなら公明党と離縁してでも国民に信を問えばいい。覚悟が認められれば国民も納得するだろう。だが、自民党はそうしない。地方組織は内向き化しているので、公明党に選挙で依存しているからである。願望をだけを撒き散らしながら何もやらないというのは最悪の選択肢である。そうして言葉だけがエスカレートする。
おそらく背景にあるのは、日本人が持っている傷つきやすい自尊心である。公明党も公明党で「なぜ敵基地攻撃能力を持ってはいけないのか」という理論武装ができない。「政府の長年の考え方を基本に、慎重に議論していきたい」と強調。「日本政府は理論上、能力の保有は憲法上許されているが、現実的な保有は政策判断としてしないという一貫した態度を取ってきた」と言っている。要するに一貫して何も決めてこなかったと認めてしまっているのである。
私たちが前に進むためにはまず個人として問題と向き合い反省しなければならない。だが、この件だけを見ても誰もそうしようとはしない。集団の中に閉じこもり安全圏から相手を攻撃するばかりである。背景には劣等感がありその劣等感を集団で隠蔽するために右往左往しているという様子がよくわかる。それは変わらなければならないということがわかっているのに一向に変わることができなかったという焦りと恥の意識であろう。
こうした恥の意識を他者攻撃によって埋め合わせることは決してできない。だからSNSの他者攻撃は激しくなってゆくのだろう。
このニュースを見ていると「我々は何一つ変えることができなかった」ということだけがわかる。しかし、このままでいいのだろうかと思う。このままでは何も変わらないという現実を受け入れて一歩でも足を踏み出す時期に来ているのではないだろうか。