モジタバ師に負傷報道が出ている。実際、いまだ公の場には出てきていない。合理的に考えるならば、負傷して動けないが、他の勢力が出てくる前にモジタバ新体制を確実なものにしておきたかった、と考えるのが自然だ。
しかし、ペルシャ化したイスラム教であるシーア派には、第十二代イマームが「神によって隠された」という伝承がある。それが「ムハンマド・アル=マフディー」の伝承だ。
シーア派の伝統によれば、神には独自の計画がある。最終的な救済を準備している。しかしその計画の前には最終戦争が起きるとされている。来たるべき最終戦争に備えて、ムハンマド・アル=マフディーは準備を整えている。
この伝承は合理的に解釈することもできる。カトリック世界が「聖霊」という概念を導入しローマ教皇の権威を確かなものにしたのと同様、シーア派のイスラム教徒たちは、アラブ人が支配していたイスラム教を「ペルシャ化」することで指導部の権威化を図った、という説明である。
しかしながら、そもそもなぜキリスト教徒がハルマゲドン神話を持ち、シーア派イスラム教徒が最終戦争神話を持っているのかが理解できない。
民族の十字路として度々戦乱の舞台となってきた中東地域では、「侵略戦争」こそが常態だった。この混乱を終わらせるのは「決定的な戦争」であり、そのためには絶対的な権威こそが重要だと考えられてきた。つまり、戦争こそがデフォルトだという考え方がある。
終末戦争論を説明する思想家の一人に、ルネ・ジラール(René Girard)がいる。彼は二度の世界大戦で疲弊したヨーロッパと、第二次世界大戦という巨大な暴力の後にアメリカ合衆国中心の平和(パックス・アメリカーナ)が成立した戦後世界を経験している。
ジラールは、人々の欲望が互いに模倣されることで社会に緊張が生まれ、その緊張を収めるために共同体が「犠牲(スケープゴート)」を作り出すと考えた。そして、その犠牲のメカニズムが神話や宗教の形で語り継がれてきたと論じた。
この視点から見ると、終末戦争の神話もまた、社会の混乱を最終的な暴力によって終わらせるという想像力の表れと解釈できる。つまり、混乱を前提とする社会では、人々が「平和」そのものよりも、秩序を回復させる決定的な暴力を救済として期待することがある、という構図をジラールは理論化したのである。
シーア派の伝統では、このとき「イーサー」が同時に復活するとされている。キリスト教では神と一体とされる「イエス・キリスト」だが、シーア派の伝統では、偽の救世主(ダッジャール)を倒し「正しい信仰を確立する」存在として位置づけられている。つまり彼らは、キリスト教徒は騙されており、目覚めさせるためには最終戦争が必要だと考えているのだ。
奇妙なことに、こうした救済神話は、絶え間ない経済競争に疲れ果てたアメリカ合衆国でも広がっている。それが福音派の理論である。福音派の理論に基づけば、自分たちが最終的に勝利する前に世界は大混乱に陥ることになっている。しかし、自分たちはすでに約束の地に避難しており、この混乱から逃れることができる。
これが携挙(Rapture)である。つまり「よその地域」で混乱が広がれば広がるほど、「天国が近い」ということになる。相対的に自分たちの優位性が証明されるからである。
このとき、「旧約聖書」に登場するキュロス二世(サイラス)の事例が引き合いに出される。ユダヤ人をバビロン捕囚から解放した人物だが、キュロス二世はユダヤ教徒ではなかった。解放者であれば、ユダヤ教徒であろうとなかろうと特に問題ではない、というのが福音派の考え方である。
つまりトランプ大統領は聖人でなくても構わない、暴れれば暴れるほど「望ましい」という結果になる。ただしトランプ大統領は自分たちの領域を汚すべきではない。彼らの携挙神話が損なわれてしまう。
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