オルタナティブ・ファクトという言葉がある。破綻を隠蔽するために、権力者が事実を書き換えてしまうことを指す。このオルタナティブ・ファクトによって、アメリカの公衆衛生は危機に瀕している。公衆衛生概念が発達した日本から見ると、信じられない光景である。これを他山の石と見るか、対岸の火事と見るかは、人によって意見が異なるだろう。
アメリカ合衆国では、徹底したワクチン接種により、2000年にはしかの排除宣言が出された。ところが今期は、すでに24州で910件の流行が確認されている。なぜこんな事態になったのか。日本と比較すると、その深刻さがよく分かる。
日本は第二次世界大戦で国家の公衆衛生インフラが破壊された。その後、GHQは日本統治の一環として、住民参加による公衆衛生インフラの再興に尽力した。テレビがない時代には、民主主義の広報を目的とした「ナトコ映画」と呼ばれる一連の映画が制作された。
ナトコ映画の一つ「腰のまがる話」は、現在の長野県・佐久総合病院の設立秘話を扱っている。信州の農村で、女性たちが公衆衛生の改善に立ち上がるというストーリーだ。公衆衛生に無関心で加持祈祷に頼る男性たちを説得し、村の農業協同組合に診療所を設けた。民主化の過程で、学校給食にも食育の知識が取り入れられ、日本の平均的な栄養学知識は比較的高い水準に達した。
また、技術官僚によって満州で基礎が作られ、戦時体制を支えた「1940年体制」のもとで、国民皆保険制度も整備されていった。
GHQが持ち込んだのは当時のアメリカの先進的な公衆衛生の知識だった。つまり当時のアメリカの公衆衛生インフラは日本よりも進んでいた。その後長い間、アメリカの公衆衛生インフラは高い水準を保ち続けていたのだが、いくつかの理由で機能不全を起こしている。
機能不全の要因は、「過度の市場主義への依存」「公衆衛生の政治的武器化」「制度疲労」などが複合的に重なった結果である。特に、本来は市場の失敗を補正する役割を担うべき政治が、かえって問題を複雑化させている点は深刻だ。
健康保険は市場に委ねられ、医療格差が大きい。また、栄養学の理解も極端な二極化が進んでいる。意識の高い層の健康観は、もはや信仰のように研ぎ澄まされている。その一方で、健康に対する意識が極端に低い人々も大勢いる。国家が「栄養について一定の考え方を押し付ける」ことは、自由の侵害とみなされやすい。
K字経済と呼ばれる格差が拡大する中で、富裕層は豊富な知識を持ち、高度先進医療にもアクセスできる。一方で、栄養や健康についての知識が乏しく、高額化する医療制度から排除されてしまった人々も多い。
そうした人々が頼ったのが、「MAHA(Make America Healthy Again/アメリカを再び健康に)」というスローガン。運動体というより「スローガン的トレンド」と言って良い。アメリカの公衆衛生が複合的機能不全を起こす中で様々な考えを持つ人達が「あたかも一つのパッケージ」のようにまとめられている。
MAHAにとって不運だったのは、これがK字型格差の拡大の中で、政治的な集票装置として利用された点だろう。そこに、エスタブリッシュメントやアカデミズムへの反発が混ぜ込まれていった。結果的に彼らのヒーローとなったのが、ロバート・ケネディ Jr.健康福祉長官である。
彼の思想は一貫しているとは言いがたいが、これまでの発言や行動を見る限り、ワクチンや公衆衛生政策に強い不信を抱き、「自然な生活を送っていれば人工的な医療介入は不要だ」と考えているように映る。発言の揺れも大きく、アメリカの公衆衛生に責任を持つ立場としては不安定さが目立つ。
日本であれば、「それは乱暴な考え方だ」という反論が出るだろう。アメリカでも医療専門家たちから強い批判を受けている。しかし、知識格差が大きい(アメリカ流に言えば「個人の自由が最大限に守られている」)社会では、専門家に憎悪を向ける人々も少なくない。
では、メディアはこの状況にどう対応しているのか。日本に「マスゴミ批判」があるように、アメリカ合衆国にもメディア不信は根強い。そもそも、ワクチン政策の変更とはしかの流行を直接結びつける決定的な証拠は存在しない。証拠が乏しいまま報道すれば、政府から訴えられる可能性もある。
そのため、ABC Newsは、次の三つの「事実」を並列的に伝えるにとどめていた。
- はしかが24州で流行し、少なくとも910例が確認された。
- オズ博士が、今からでも遅くないのでワクチンを接種するよう呼びかけた。
- ロバート・ケネディJr長官が、過去の薬物(コカイン)使用について「バイ菌なんて怖くない」と語った。
これをどう受け取るかは視聴者次第だ、と事実上丸投げしている。視聴者から十分な信頼を得られていない以上、それ以上踏み込めないのである。
ロバート・ケネディJr長官のコカインの話は、意味が分かりにくい。かつて薬物を使用していたが、それを克服し、自然で健康的な生活を送るようになったため、病気とは無縁だと誇示しているのである。
メディアが読み取らせたいメッセージは、「健康的な生活を送る自分のような強い人間には、ワクチンのような人工的なものは不要だ」という自己誇示だろう。そして、それを国民にも事実上強要した結果、はしかの流行が起きている。
ドナルド・トランプ大統領は、気候変動はオバマ政権やバイデン政権による詐欺だと主張し、排ガス規制の根拠となる行政判断を一方的に撤廃した。
昭和を生きた経験のある日本人なら、かつての高度経済成長期のような大気汚染が、再びアメリカで問題になることを容易に想像できるだろう。しかし、公衆衛生の基本的理解というインフラが崩壊した社会では、それを科学的に証明し、警告することすら難しくなっている。
日本人が持つ、平均的に高い公衆衛生意識と栄養学の知識が、いかに貴重なものであるかを改めて実感させられる。戦後アメリカ合衆国から持ち込まれた素材をうまく管理し今の緻密な体系に昇華させている。

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