9,100人と考えAIとも議論する、変化する国際情勢とあいも変わらずの日本の行方


憲法9条原理主義が崩壊し、日本がようやく「軍隊のある普通の国」への意欲を示す

9〜14分

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選挙キャンペーン中、憲法改正への言及を避けていた高市総理が、ようやく「普通の国」になろうと発言した。しかし、この「普通の国」が何を意味するのかは明確ではない。ただ、憲法9条原理主義が崩壊しつつあること自体は、日本にとって大きな一歩である。次に崩れるのは、思考停止的な保守思想だろう。

まず、「憲法9条原理主義」とは何かを定義しておこう。これは、「憲法9条さえあれば日本の安全保障は盤石である」という考え方である。憲法をお守りや守護神のように位置づけ、9条に言及する者をすべて「日本を戦争に導く悪魔」とみなす信仰とセットになっている。

しかし、ロシアによるウクライナ侵攻など、世界の不安定化を目の当たりにした日本人は、これまでの「憲法9条さえあれば戦争を回避できる」という考え方に疑問を抱き始めている。

読売新聞の世論調査結果は、この変化をよく示している。憲法9条1項(戦争放棄)の維持には約8割が賛成している一方で、戦力不保持については賛否が割れている。自民党は現在、「条文は維持したまま、自衛隊を明記する」という案を提示しているが、これについても意見は拮抗している。

今回の衆議院選挙で、自民党が改憲発議に必要な3分の2以上の議席を確保したことで、高市総理も改憲議論に踏み込まざるを得なくなった。

立憲民主党の野田佳彦代表は、党内の「憲法9条原理主義者」を弱体化させるため、中道路線を強調し、公明党との連携を模索した可能性がある。しかし結果として、従来の支持層は離反し、党勢は大きく後退した。党内闘争を優先した結果、政党そのものを傷つけてしまったと言える。

また、連合の支援をめぐり野田佳彦氏と競合関係にある玉木雄一郎氏も、この流れを読み取り、「戦争を避けるためにも9条改定が必要」と訴えた。形式上はリベラル層への呼びかけとなっている。

さらに、AIエンジニア出身のチームみらい・安野代表も、「仕様書=憲法」に書かれていない機能が実装されているのは不自然だ、という趣旨の発信を行っている。

このように、憲法改正をめぐる議論は着実に前進している。しかし、ここには2つの重要な視点が欠けている。

1つ目は「リスク」である。

現在の議論は、「ウクライナのような被害国にならないために改憲が必要だ」という認識に基づいている。しかし、「普通の国」になるということは、戦争や紛争において自国民の死者が発生する可能性を受け入れることでもある。また、外交交渉に失敗すれば、攻撃対象となるリスクも高まる。

政治家たちは改憲のメリットを強調することに注力するあまり、十分なリスク評価にまで踏み込んでいない。

2つ目は「契約概念」である。

アメリカの政治状況を見ると、無条件同盟維持派が後退し、「契約重視派」が台頭する可能性は高い。将来的には、同盟関係についても定期的にコストとベネフィットの説明が求められるだろう。

これは、年次株主総会に向けて決算書を準備する作業に近い。しかし現在の日本には、「憲法9条と日米同盟はアメリカとの契約書である」という発想がほとんど存在しない。

この2つの視点の欠落は、今後の改憲議論に大きな影を落とすだろう。日本政治はこれまで、難しい意思決定を避け、「テクニカルな政治論」に逃げ込む傾向が強かった。結果として、「威勢の良い発言はあるが、何も決まらない」という状況が繰り返されてきた。

逆に、深刻な安全保障危機が発生すれば、過去の経験にすがる形で、慌てて改憲に踏み切る可能性もある。しかし、それは覚悟を伴った意思決定ではなく、運用面で大きな問題を残すだろう。

冒頭で述べたように、憲法9条原理主義が崩壊すれば、次に試されるのは思考停止的な保守である。

これまで保守派は、9条原理主義者を「お花畑」と批判することで、自らの理論構築を先送りしてきた。その間、世界で進む構造的変化を直視してこなかった。

ミュンヘン安全保障報告書が指摘するように、現在の世界は、既存の国際秩序が大きく揺らぐ時代に入っている。にもかかわらず、多くの保守派はいまだに「アメリカの庇護は永続する」「憲法に自衛隊を書き込めば問題は解決する」と考えている可能性がある。

対立する「お花畑」が消滅した今、次に問われるのは、彼ら自身のリアリティなのである。

本来であれば、今回の議論は国家戦略論として位置づけ、将来シナリオを分析すべきテーマである。しかし、本稿で述べてきたように、日本の安全保障政策はこれまで、憲法9条を神のように崇めるか、あるいはアメリカ合衆国を守護神として、大統領が代わるたびに参拝を繰り返すかという、「宗教問題」として扱われてきた。

このような状況下では、冷静な国家戦略議論が成立する余地はほとんどない。現在、その信仰の一つがようやく崩れ去ろうとしている段階にあり、今の日本にとって本格的な国家戦略論は、まだ時期尚早なのかもしれない。

その意味では、日本はようやく「普通の国」になる一歩手前まで前進したと評価することもできるだろう。

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