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AIで可視化された「支配したがる日本人」
QuoraでAIの使い方を観察したところ次のような特徴が見つかった。自分の好きにやりたいようでいて依存しているイロジカルな態度が見受けられた。
- 人間関係を力関係(支配・被支配)で見ている
- しかし、意思決定を相手に丸投げしている
- 説明しなくても自分の欲求が通ることを期待する
- 相手の事情には無関心
更に日本人は主語を持たず「私」を意識しない特性がある。イロジカルで私が固定されない。社会は「それぞれの私」を活かすための装置なのだから、私が固定されなければ新しい社会は再構成できないし、今の社会を再構築することもできない。
実はこの4要素で政治が説明できる
この4要素は日本の保守に重なる
これを眺めていたところ「日本の保守と言われる人たちに心象に合致する」と気づいた。
- 高市総理を支持する人は人間関係や国際関係を支配・被支配で見ている。
- しかし「自分自身の意思」があるわけではなく、どの様になりたいのかというビジョンを国家や政党に丸投げしている。
- しかしながらその期待を説明せずに相手が汲み取ってくれることを期待している。
- さらに自分が対応している人達の事情(=他者の人権)には無関心である。
実はこの4要素でMAGAも説明できる
ところがトランプ大統領の言動がこのパターンに当てはまることがわかった。グリーンランドに関しての発言だ。
- 人間関係や国際関係を支配・被支配の関係で見ている。
- そこでグリーンランドが欲しいと主張するのだが、どうやって手に入れたいのかについては相手がは話をまとめてくれることを待っている。
- さらに自分は欲しい欲しいと大声で主張するばかりで、なぜ欲しいのかは説明しない。
- 相手がどう思うかについては全く考えない。
ここから「対等な他者を前提にした社会的思考」が成熟していないということが分かるが、日本とアメリカには違いもある。日本は私が希薄な文化だがアメリカは私が極めて強い。
つまり私には違いがあるが結果的に同じような「幼稚」な社会が作られている。
4要素を無理なく説明できるピアジェやエリクソンなどの発達心理学
こうした自己中心的な自己はピアジェやエリクソンによって説明できる。ピアジェは2〜7歳ごろの状態を「前操作期」と言っている。世界は自分中心に回っており他者視点が取れない。またエリクソンも幼児期・就学前・学童期の「自己中心的な自己」が青年期に同一性を獲得してゆく段階を研究している。
未成熟な人たちが憎むものを列記するとそれがそのままリベラルの定義に当てまることに驚かされる。だから「岸田文雄や石破茂のような穏健な保守」から「本来の左派」までが全て排除すべきリベラルに見えてしまうのである。アメリカではこうした憎悪がリベラルではなくエスタブリッシュメントに向かう。
- 人間関係を対等なものとしてみる
- 国民が主体的な主権者であることを要求する
- 自分の欲求は主体的に説明しなければならない
- 相手の事情に関心を示す必要がある
発達心理学を導入するとリベラルやWOKE(意識高い系)の幼児性の一部も統合が可能
一方でリベラルを自認する人たちの独特な攻撃性もエリクソンの発達段階で説明できてしまう。依存の裏返しとして権威を激しく攻撃しているが、それは「保護者の存在」を前提としている。日本のリベラル運動は例えば「反アベ」のような態度を取る。このアンチがなくなるとそもそも運動体として成り立たなくなてしまう。そして、この依存の裏返しとしての攻撃性でアメリカの「意識高い系」と呼ばれる人たちを説明することも可能なのである。
幼児性リベラルに埋没する「まともな人々」
もちろんアメリカの「意識高い系」と呼ばれる人々の中には、成熟したリベラルも存在する。彼らは格差や不平等を「社会の不具合(バグ)」として捉え、それが暴動や経済破綻といった形で顕在化する前に、制度的な「予防(メンテナンス)」を行おうとする。彼らにとっての目的は「勝利」ではなく、「持続可能な社会の運営」である。しかし、運動型のノイズが大きい社会では、このような成熟したリベラルは、永遠の反抗期にある人々と同一視されやすく、日本においても、また日本から見たアメリカにおいても、その区別は容易ではない。
幼児性民主主義に疲弊する大人たち
社会はこうした未成熟な政治に対してどちらも「未成熟差を前提にした対応」をしてきた。日本社会は未成熟な提案を繰り返す政府を官僚や税の専門家(インナー)などがあやしてきた。これはアメリカも実は同じである。エスタブリッシュメントや専門家などが未成熟な政治のわがままを吸収するバッファの役割を果たしてきたのである。
自己を磨く機会が失われ「剥き出しの自己」が増えた
なぜこのような人々が多数あらわれたのかを考えるのは興味深い。エリクソンの発達心理学から考えるならば、自己は社会の中で磨かれると考えるべきだ。つまり社会装置が徐々に壊れることで社会に統合されない「剥き出しの自己」が増えていったものと考えられる。
自己責任社会に疲弊した孤独な群衆をすくい取った福音主義
アメリカは1950年代の「孤独な群衆」の時代から、社会的な訓練が十分でない「剥き出しな自己」が多く存在したものと想像できる。これが1970年代から露出し始める。さらに1980年の新自由主義の時代に「経済的な成功=個人の価値」という結びつきが作られた。
この不安を吸着し自己を守る鎧としての役割をになったのがMAGAの母体になった福音派だ。もともと民主的に聖書を研究する共同体だったが、カリスマと呼ばれる人たちに傾倒する人々も増えていった。これが自立しているようで自立しない人々の欲求を肥大させるための装置になった。そしてこの共同体はSNSの登場で可視化されることになる。
共同体(自己を磨く機会)が徐々に崩壊した日本
日本は血縁、地縁、終身雇用などが徐々に崩れた。これまで社会的スキルが十分でなくてもそれなりにやってゆくことができていた人たちを守るものがなくなった。ここで人々は「社会に対して剥き出しの自己」になったがその新しい社会に対応できる新しい自己を確立できなかった。そもそも「私」という固定した視点を持ちにくいうえに、自己表現を抑制するため「対立を通じて自己を磨く」機会に乏しいからである。
しかし日本にはアメリカのような「剥き出しの自己」を吸着する装置もなければ可視化する装置もなかった。ただSNSの台頭とハラスメントの増加でほのめかされてきただけだったのだ。
AIによって始めて可視化された「剥き出しの自己」
ところがAIの登場によって「どうAIを使うか」と語る人が出てきた。AIは単なる道具であるため、粗雑に扱っても罪悪感を抱きにくい。ここで始めて自分がいかに支配的な人間なのかを周囲に誇示する人達が出てきた。細かく観察すると「かわいがること」が支配になっている人達もいる。ここで始めてSNSで可視化されなかった「剥き出しの自己」の真相が明らかになったのである。
幼児性民主主義はどのように崩壊するのか
ではこの構造は持続可能なのだろうか。そうは思えない。AIやSNSが崩壊速度を早めてゆくからである。
アメリカ社会は自我の崩壊に耐えられないだろう
第一に、SNSとAIは剥き出しの自己の欲求を増幅する装置になっている。トランプ大統領のアメリカは外に拡張しかつての同盟国との間に軋轢が広がっている。ヨーロッパが大人のフリをしてアメリカを宥めれば宥めるほど、アメリカ合衆国は泣き喚けば何でも手に入ると思うようになるだろう。
日本は調整コストが生産性を破壊する
しかしながら日本の壊れ方はこれとは少し異なっている。可視化されない「剥き出しな自己」によって「ハラスメント」の数が増えている。これは社会が調整機能を失いつつあることを示している。そしてこのハラスメントの増加により「責任を引き受けるべき人」が責任を引き受けることを拒否するようになった。今後日本の社会調整機能コストはどんどん跳ね上がってゆくはずである。現在のAIはユーザーに主体性を求めるがローカライズが進むと「受け止めてくれるAI」が増えるはずだ。優しくない社会に疲れた人々は受け止めてくれるAIに依存するようになってゆくだろう。
まずは違和感を「感じる」ところから始めるしかない
おそらく今後我々の社会は剥き出しの自己同士が激しくぶつかり合う「万人闘争」と「引きこもり」が共存するかなり厄介な時代に入るだろう。ストレスレベルが一段上がった状態で解決策を模索することになる。
アメリカの普通の人々はとにかく「運動型のノイズが大きい社会」に疲弊し政治的な言動から遠ざかりつつある。一方で日本の普通の人々は薄々は状況に気づきつつも、なぜ対話が成り立たないのかを説明できずにいる。
「兆候」としてなぜ対話が成り立たなくなったのかを探し始める人達が出てきた
このためAIの台頭で対話が成り立たなくなったという文章を読みたがる人も増えていると感じる。薄っすらと感じている違和感に対して「自分のせいではなかった」「社会が歪んでいた」と安心したい人も実は多いのではないか。
普段のQuoraやXでの「政治議論」を見ていると、おそらく一気に社会変革を目指すのは難しいのではないかと思う。まずは「少なくとも自分がおかしいのではなかった」と発見する人を増やしてゆき、徐々にまだ名前のないこの状態の意味を見つめるところから始めるべきではないか。実務的な議論を見る限り、ゆっくり一歩一歩進むしかないと感じる。我々の社会はそれほど傷んでいる。

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