車のラジオから山本太郎の声が流れてきた。厳密にはテレビなのだが映像はカーナビなのでラジオに聞こえる。山本太郎は「人々の生活は苦しいままだ」というのだが、眼の前の現実はそれほど苦しそうに思えない。不思議な気分だった。ChatGPTとこの違和感について対話したのだが、興味深いところに連れてゆかれた。今は高支持率の高市政権だが負担の話をした瞬間に崩壊するだろう。長い政治不信の末に日本はいかなる政治取引も不能な国になった。
事前の予測ではかなり悲壮感が漂っていたが日銀短観は4年ぶりの好調だった。日本は成長軌道に乗りつつあるようだ。木原官房長官は「日本は再び成長トラックに乗った」と誇らしげである。アベノミクスを信奉する高市内閣は「アベノミクスは正しかった」と主張するだろう。ただし必要以上のことは言っておらずしたがって反論も出ない。
それだけに山本太郎の「政府の対策が物価高にほとんど追いついていない」という言葉が不思議だった。
「こういった情緒的な〝ポエム〟〝精神論〟は、ご勘弁いただきたいんですよ。先進国で唯一、日本だけですよ、30年の不況。コロナから立ち直る前に物価高に襲われている状態、国民と中小企業は地獄の苦しみのなかにいるんですよ。そういったなかで多くの人は力尽きる寸前というのが〝いま〟なんですよ。底力もくそもないという話なんですね」と訴えた。
れいわ・山本太郎代表 高市首相と物価高対応めぐり論戦「このままだと失われた40年になるしかない状態ですね」(東スポ)
短観では日本経済は絶好調なのだから、そもそも今の物価高は対策を必要としているのかと思ってしまう。政府が今のインフレは大変で物価高対策が必要だと言っているから皆そう思い込んでいるだけなのではないだろうか。
もちろんChatGPTに聞くまでもなくこれが、都市と地方、大企業と中小企業の乖離を示している事はわかっている。政府はこれを意図的に無視し、結果的に本当に乖離が見えなくなっているようだ。彼らは本気で「アベノミクスは成果を出しつつあると」思っているのかもしれない。つまり自己欺瞞・自己催眠の類である。
では一般の人達はどうなのだろうか。不思議な現象が起きている。東京都豊島(としま)区ではプレミアム商品券に人々が群がっているそうだ。10000円で2000円のプレミアムがつく商品券がありこれを3冊まで買えるので最大6000円の支援が得られるのだが並ばないと恩恵が受けられない。
一方でおこめ券は反発されていた。500円で440円のおこめしか買えない。政府は国民と取引をしておこめ券の値段を477円に下げてみせたが「損」をする構図には変わりはない。
これらの一連の情報をChatGPTにフィードしてみた。
ChatGPTは一般国民(いわゆる中間層)が生活の見通しに不安を持っているのは先進国(ここではOECD加盟国ということにした)ではありふれているという。ただ違いもある。日本人は抵抗しない。さらに周りの人が得をしている制度があると「それを利用しないのは損である」と考えるのだという。そもそも政府に対して違和感を訴える行動もリスクであり損失だと考えてしまうのかもしれない。
つまり大企業・東京と中小企業・地方の乖離が激しくなっても誰も騒がず「政情不安が起きない」ことになる。と同時に政府が言っている「いわゆる経済政策」は実は「他人と比べて自分だけが損をしない」場合にのみ受け入れられるということになるだろう。制度的恩恵なのだから特に誰かに感謝するという筋合いのものではない。自民党は少ないコストで政権を維持するための取引だと考えるかもしれないが実は取引は成立していない。
ではプレミアム商品券に並ぶ人たちとはどんな人達なのか。たどり着いた答えは静かな離反者だった。政治には期待しない。眼の前にある制度的チャンスは得がある限りは選択的に採用する。しかし得がなければ静かにいなくなる。騒いでも単に疲れるだけ。つまり「政治に対する抗議はコスパが悪い」と諦めている・学習している・理解しているということになる。
ChatGPTは「政治が風景化・インフラ化しているのだからそれが壊れたときに揺れるのではないか」との仮説を立てた。しかしこれは正しくない。この秋に「アーバンベア(都市に降りてくるクマ)」が暴れ回った。たしかにメディアは騒いだが抜本的な対策が取られることはなく、「なぜ地方は荒廃した」と政治に抗議する人もいなかった。結局、受け入れるために騒いでいるだけだ。もう地方都市では安心して暮らせないが「それは仕方がない」と諦めてしまったのだ。この先、いくつもの橋が壊れ下水道が破裂しても「仕方ない」と受け入れるだろう。
となると、自然と「政治が追い詰められるようなことはほとんど起きない」ことになる。とは言え一般有権者は政治に何も期待していない。もらえるものがあればもらう。もらえるものがなくなっても怒らない。だが静かにいなくなる。
そう考えると「自民党からの離反」はすでに起きている。人々は国民民主党、参政党、維新などに「期待」しているように見えたのだが、実は期待しているわけではない。だから表立った支持を表明することはないし「あ、この政党はもう我々に得をさせてくれないんだな」と思った瞬間に音もなくスーッといなくなってしまう。
ここから考えると「政党がなにかの取引をする」という行動自体が成り立たなくなっていることがわかる。自民党のように政権に居座るためのコストを最小化する戦略も無効だし、別の取引を持ち出して支持を獲得しようとする野党の戦略も実は何も意味を持たない。
いかなる取引も成り立たない政治スペースで最も危険なのは「構造化と可視化」である。コストが明確になった瞬間に名指しされた有権者が離反してしまうからだ。
これは一体何なのかと考えた。
それはおそらく「諦め」なのだろうが、日本社会はこれを諦念・悟りと考える傾向がある。アメリカ製AIであるChatGPTは「英語では諦念・悟りをポジティブに考える文化がない」としつつ、扇動できない・恐怖でも動かない・希望でも釣れないという政治市場から脱出した消費者であると結論づけた。残念だが反論はない。

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