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高市総理がデフレ脱却宣言に強い決意、だが……

8〜13分

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国民が経済成長の恩恵を受けられないなか、高市総理がデフレ脱却宣言に強い決意を示した。国民感情に寄り添った力強い宣言であるということは素直に評価したい。しかしながら冷静に考えるならばこのデフレ脱却宣言には問題点が多い。政府に対する物価高支援の期待が高まるが財源を捻出できない政府は徐々にこれに応じることができなくなり政治不信の原因になってしまうのだ。これを解決するためには経済学の問題と気持ちの問題を分離させる必要がある。

高市総理が予算委員会でデフレ脱却宣言への意欲を示した。「今はインフレの状態にあるが、まだデフレを脱却したとは言えない」と言っている。この答弁から推察するに高市総理は経済学的な定義ではなく国民の生活実感が改善されてこそデフレ脱却宣言が出せると考えているようだ。ある意味国民に寄り添った考え方といえる。これが現在の高市総理大臣の高い支持率を支えているのかもしれない。

しかしながらこの「国民に寄り添った気持ち」が却って仇になることもある。

安倍総理はデフレを経済学的に捉え物価の下落が問題であると考えた。そしてそれは供給側の問題であり資金(マネー)が潤沢に行き渡れば解決すると主張していた。

この政策は結果的にインフレをもたらさなかった。企業は自己資金化を進めていたため銀行を経由して企業にお金が流れなかった。このため賃金が上がらず人々の「物価も賃金も上がらないだろう」という認識が固定されてしまう。

ところが安倍総理がいなくなってから突然別の理由でインフレが起きる。新型コロナ禍後の世界的な需要拡大によって供給制約問題が健在化した。また新型コロナ対策のために世界中で発行されたマネーもインフレ加速の原因となっている。

つまり間違った仮定のもとに政策を積み重ねても問題は解決しないのである。

こうした供給制約の一例をコメ不足に見ることができる。コムギの値段が高騰するとコメが比較的に安くなった。おそらく人々は一時的にコメにシフト。ここに南海トラフ地震ショックで品不足感が強まるとコメの値段が急速に上がりだす。コメの値段は短期間で2倍になった。同時に「実は少子高齢化の影響でコメ農家が高齢化しており急激に生産性が増やせない」という事実が明らかになる。コメ農家が足りないという供給制約が明らかになったのである。

高市総理が「国民の生活に寄り添った姿勢」は評価できる。しかしながら国民生活が困窮する理由(背景や構造)が大きく異なっている。仮にこうした違いを政府の中だけで吸収することができるのであれば「経済学と政治メッセージ」が使い分けられても問題にならないだろう。

実際に高市総理はすべての答弁に自ら筆を入れる抱え込み型のマネジメントスタイルを持っている。

高市総理の抱え込み型マネジメントはすでに低い生産性を温存し頑張りだけを評価するという「昭和ど根性型」を蔓延させかねないという危険性をはらんでいる。公務員の給与は上がるようだがトップマネジメントは「閣僚給与は受け取らない」と決めたようだ。これも「お金は汚い」と考える国民には受けるのだろうが、対価ではなく誠意ばかりを求めるマインドセットにつながる。

優秀な企業経営者を集めたいならばきちんと成果を上げるマネジメントにはふさわしい対価を支払う文化を広めるべきだ。最近の傾向として「若手社員ほど管理職になりたがらない」傾向がある。面倒が増えるばかりでそれに見合った対価が得られない。ラインマネージャーがいなくなれば当然経営者になりたいという優秀な若手も減ってゆくだろう。

生産性問題を政府がすべてを統制できるのであれば抱え込みにも一つのマネジメントスタイルと言えるだろう。

しかし、政府があらゆる問題を独力で解決するのは不可能である。問題意識を政府内で共有し、それを省庁間に広げてゆく必要がある。特に霞が関の攻略は難航するだろう。人事ローテーションも進んでおらず民間を経験した「出戻り組」もまだまだ例外的存在のようだ。結果的に国益ではなく省益が優先されることになる。

さらにその向こうには各省庁に紐づけられた生産者団体がいる。彼らに状況が変わったという強いメッセージを出さなければいつまで経っても景気回復の実感は得られない。

有権者の物価高対策に対する期待の高まりも気になる。メディアも含めて成長に期待しなくなっており、当座の物価高に対して減税や各種保護を過度に期待するようになっている。高市総理は経済成長を通じて増税しなくても済むような経済状態を作るとしているが、政府がいくら頑張っても周りの理解と協力がなければその目標を実現することはできない。

結果的に「高市総理はいくら勇ましいことを言っても実際にはやってくれない」といらだちを募らせることになるだろう。

これを防ぐためにはまず「インフレ・デフレ」の定義を経済学上の定義に戻し、生活実感にはまた別のラベルを導入する必要がある。