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備蓄米は日本人に受け入れられるのか 減反の歴史

9〜14分

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コメ不足についてはブログとQuoraでそれぞれ書いている。Quoraで参加者と話をしていると「消費者が古米を食べないと言う決めつけはいかがなものか」と指摘する人がいる。世代間で「古米に対するイメージが違うのだ」と気がついた。いずれにせよ国民的に関心のある話題のようで多くのコメントをいただいた。

ポイントは世代間の対話の重要性だ。これは、異なる世代の人と対話をしない限り得られない視点だろう。SNSはエコーチェインバーになると言った人がいるが、それは必ずしも正しくないことがわかる。

戦後の日本は飢餓と貧困から始まった。国民は食うのに精一杯でコメの味にこだわっている余裕などなかった。ところが戦後復興が進むとこの飢餓状態はやがて解消される。この時代は国が責任を持って国民を食べさせなければならないという意識がありコメは国が買い取っていた。次第にコメが余るようになると政府は古いコメを古古米・古古古米などと呼ぶようになってゆく。

国会データベースで検索すると古米という言葉はあったようだが、古古米と言う言葉が本格的に使われたのは昭和43年以降である。古米も余っているのに古古米になると更に値下げが必要になり「数百億円の損出が出る」と言っている。持ち越し米という言葉が使われ「持ち越しが増えれば増えるほど国庫に損害がある」などと問題視されていた。農林水産省は小泉農水大臣に「減価償却」と説明したようだが昔からそういう考え方はあったということだ。

それでもコメは余り続けたためついに農家に「コメはもう作るな」と命令した。これが減反政策だ。減反政策と言う言葉はもともとコメ以外の作物の調整に使われていた一般用語だった。専売公社の減反政策と言う用語が使われており葉たばこの減反の意味で用いられていたようだ。コメの減反の話題が出てきたのは昭和45年の議論だ。

つまり昭和を知っている人たちの中には「古米を実際に食べたことがある人」が大勢いる。Quoraでは新米を初めて食べて「世の中にはこんなに美味いコメがあるのか」と感じたという人のコメントが書き込まれている。

さて、一部のメディアは備蓄米の弁護団のようになっている。

恵俊彰氏は「備蓄米という新しいブランドが!」と口走っていた。備蓄米を擁護する動機は2つある用に感じる。一つは玉川徹氏のように「既得権益」と戦っているという自己認識を持つ人達。彼らは小泉進次郎大臣に農林水産省と戦って欲しがっている。

もう1つは政治報道の衰退に危機感を持つ人達だ。小泉進次郎氏のような血統の良いスターが必要だと考えているのだろう。田崎史郎氏を積極的に起用したキャンペーンを行っているようにさえ見える。

しかし彼らは実は古米・古古米を実際に知っている(かもしれない)最後の年代で、なおかつ平成の米騒動で外米が投げ売りされていた事も知っている。外米(ガイマイ)と言っても読み方さえわからないという人がいるだろう。戦後の窮乏期にはその場しのぎのような扱いだった。だから平成では見向きもされず投げ売りされていたのである。

だからこそブランド米と備蓄米が並べて売られて比較された時点で負けなのだなどと言いだす人が出てくる。

一方でそもそも古米に対する悪いイメージを持たない人は「2024年産に関しては言われなければわからない」と指摘する。保存技術が向上したことで味がそれほど落ちていない可能性があるのだという。

ただ「ブランド米じゃなくてもいいや」と考える人が出てくると農林水産省の「トライアングル」は大いに慌てるだろう。そこで農林水産省は「減価償却」で安く出せるからと言う理由で小泉大臣をもっと古いコメに誘導した。できるだけ備蓄米に良い印象を持たせたくないと言う人たちもいるのだ。

アベノミクスで日本にスタグフレーションが起きたこともあり「安いコメ」の需要が高まっている。コンビニなどで「備蓄米」というブランド米が売られるようになると却って人気が高まるかもしれない。炊きたての白くて甘いご飯にこだわらない人(例えばチャーハンやカレーなど)では却って新米の味は邪魔になる。寿司屋のためにわざと古米を残していると「原宿で唯一の米屋」も言っている。

ブランド米の需要が高齢者に偏り困窮する現役世代が備蓄米と言う政府放出米か小麦に流れるというシナリオだがそれはまさしく高度経済成長期の真の終焉ということになる。

楽天市場は「落胆市場」に変わったが、ドン・キホーテ、ファミリーマート、ラインヤフー、アイリスオーヤマなどのネット、コンビニ、新規産業が流通に名乗りを上げておりそれなりに新規顧客を獲得する可能性がある。「何だコメってこんなものなのか」と考える人も出てくるかもしれない。そもそも「あのまずいコメ」から脱却した経験もなければ、ブランド米のありがたみも知らない人たちだ。

もう新米が食べたいとゼイタクは言いませんということになる。足りぬ足りぬは工夫が足りぬ。チャーハンにして食べればいいではないかということになる。ただ結果的にブランド米の将来には暗雲が立ち込め結果的に市場価格が下がり、なおかつ離農が進むことになる。

減反から始まった自民党政権の米農家破壊作戦がさらに一歩前進することになるのかもしれないが、理論構築能力がない日本の保守と農村は変わらず自民党を支援し続けるのではないかと感じる。ここは「貧しくなる日本」を受け入れる努力をすべきなのかもしれない。

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Comments

“備蓄米は日本人に受け入れられるのか 減反の歴史” への2件のフィードバック

  1. 細長の野望のアバター
    細長の野望

    たしかに私も古米を食べた経験がなく(古古古米なんて絶対にないと思う)実際のところ味がどんなのかは知らないですね。思いのほか美味しく頂けるのか、それとも噂通り不味いのかが気になりますね。
    今回の備蓄米放出が「暫定的」なものになるのか、それともガソリン税のように暫定という名の常時になってしまうのか分からないですね。今回の処置がその場しのぎどころか、未来を食いつぶす可能性があるのは私もそう感じます。結局のところ、日本の農業を改革が必須なのでしょうが、その議論を政治家や行政、JAや農家たちが根気よくできる環境とは思えないですね。

    1. 玉木雄一郎さんの1年経てば餌になる発言と過去の発言の整合性が問題視されているようですね。確かに農水省は余剰のコメを買い上げて「もう餌にするしかないクズ米なんですよ」と宣伝してきた歴史がある。ま、このあたりは実際に食べ比べてみればいいんじゃないですかね。これだけテレビで宣伝しているわけですから「一度は食べてみたい」という奇特な人が出てくるかもしれません。ファミマの1キロ米はお茶碗12〜13杯くらいだそうですから冒険もしやすい。