先日ブログとQuoraで万博について書き、給料がいつまでも上がらない理由について「マインドセットの問題である」と言う筋書きにした。
おそらくブログでも(コメントはしないまでも)「いやなんだかなあ」と思った人が多かったのだろうし、Quoraでも「国民意識のせいだと開き直られると釈然としない」というコメントが付いた。「開き直る」という表現から反発していることがうかがえる。
おそらくこれがいつまでもデフレ状態が終わらず給料も増えない理由だろう。万博問題でも触れたように「とにかく持ち出しを嫌う」傾向が定着しきっている。このため「まずあなたが変わらなければ」と言われると無条件に反発してしまうのだ。
1991年までに社会人になった人たちは高度経済成長型の企業環境を知っており、徐々に自己責任型に移行してきたとわかっている。つまり日本人が自ら檻を作って自分たちを閉じ込めてきたという自覚がある。
バブルが崩壊すると金融機関は一気に不良債権の回収を急ぎ「貸し剥がし」をはじめる。この結果、企業は金融機関に依存できなくなり本業の生産性を向上させる必要が出てきた。とはいえ社会全体が不況状態にあるため業績を伸ばすことはできない。このため日本では「リストラ=構造改革」が「人件費削減」の同義語として定着した。また社会が不安定化すると「脱社畜」を目指したフリーターは軽薄さと不安定さの同義語として語られるようになった。
日本人はこの過程で「コスパ・タイパ」志向を強めてゆき「自分に明確にベネフィット=トクがある」と理解しない限り積極的に行動しなくなった。「規定ルートを外れると復活の道がない」という自己責任型社会に適応するためにはこの道しかない。つまり自らを「家畜化」し檻の中に閉じ込めてしまうしかなかった。
「こうでなかった状況」を知っている人はそこから抜け出せると考えるが「こうでない状況」を知らない人はそこから脱却できるとは感じない。それを指摘されるとむしろ怒りを覚えてしまう。
一人で書いていると気が付きにくいが対話をすると意識のズレがよく分かる。
ナザレのイエスはユダヤの人たちに「民族主義に凝り固まった価値観から脱却しろ」と説いた。しかし周りの人々からは理解されずむしろ危険思想として迫害されるだけだった。今では当たり前の人権主義も当時の人達から見れば絵空事に過ぎない。これを理解したのはごく少数の「狭き門」をくぐることができた人たちだけだった。
これを奴隷に例えればおそらく当事者は更に激しく反発するはずだが、わかりやすいので話を進めてみたい。
自由民代表として奴隷に対して「なぜあなたは辛い労働を繰り返しているのですか?」と聞いてみればいい。「それが当たり前だからだ」と答えるだろう。奴隷に対して「そうは言ってもあなたは鎖につながれているわけでもないし逃げようと思えばすぐに逃げられるではないですか?」と畳み掛ける。
奴隷は「出ていったとして食べて行ける保証がどこにある?」と答えるだろう。中にはデタラメを言うなと怒鳴りだす人もいるだろう。騙されて連れてゆかれると誤解されるのが関の山というものだ。
かつて自由民として暮らし鎖につながれた経験がある人はそれでも逃げ出そうと思うかもしれない。が奴隷として生まれた人はおそらく逃げ出そうとは考えないだろう。
このため当事者ほど「制度や社会風土の改革」を求める傾向がある。制度が整って安心だとわかれば「メリットとデメリットを総合判断したうえで」乗っても良いと考える。
この奴隷の事例は極めてわかりやすい。
奴隷でいる限り日々の食べ物は保証されている。ところが一旦「自由民」になると明日からの暮らしは自分で立ててゆかなければならない。自由とはなにの保証もないことであり「だったら奴隷状態でも構わないではないか」と考えてしまうのだ。
奴隷ばかりの経済が成り立つのは「右から左に何かを流せば儲かる」からである。あとは投入する労働量の問題。ところが現在の成長産業はそうではない。IT産業などがわかりやすいが一人ひとりの創意工夫の蓄積が企業価値でありこれを増やしてゆくことが企業成長だ。
この極めてわかりやすい事例がフジテレビである。
フジテレビは日枝久氏という強烈なカリスマがいて「楽しくなければテレビではない」という価値観のもとフジテレビなどのメディア企業を運営していた。しかし、この過程で「考えながら企業価値を上げてゆく」人材が育たなくなってゆく。最終的に社長になった港浩一氏は「お笑い番組制作」しか知らない。誰かの指示なしに自分の頭で何が良いか何が悪いかを考えることができないのだから、コンプライアンスなど理解できるはずもなく、結果として大規模なスポンサー離れにつながった。
第一に「奴隷のマインドセットは変わらない」のだからこの先も日本が社会変革を起こすことは難しいだろう。就職氷河期世代の人達は目覚めないままで現役生活を終えてしまいそうだがその下の世代は「無意味化」を通じて徐々に社会を破壊する方向に動き始めている。人々は問題の原因を「外」にばかり求めるようになる。
アメリカではすでにかなり激しい社会変革が起きている。つまり合理的な通路で問題が解決されなければ暴力的に解消されることになる。民主主義が定着したアメリカはかなり急進的な動きが起きているが日本の場合には一世代がまるまる犠牲になる必要があった。更にこの先に社会が変わる保証はない。
もちろん、フジテレビの事例のように「社長さえ変われば番組スタッフなどはまた安心して番組が作れるようになるのではないか」という希望もある。そもそも高度経済成長期の経済の担い手も「社畜」と呼ばれていた。この社畜を嫌う人たちは「フリーター」と呼ばれていた。「フリー」は自由という意味だがそのうちに「不安定と軽薄さ」の代名詞として定着している。自由より安定という人が多かったのだ。
ただ、仮にフジテレビが復活したとしてもおそらく経営者は外からやってくるはずだ。日枝体制は「自分で考えるプロの経営者」を育ててこなかった。
では日本に外からプロの統治者が入ってくることはあるだろうか。答えは「外国から支配されない限りはありえない」ということになるだろう。フジテレビだけでなく日本も次世代のリーダーを育ててこなかった。
「楽しかった時代」を知っている石破総理(1957年生れ)は「楽しい日本」を掲げて参議院選挙を戦いたい。一方で楽しい時代を知らないコスパ・タイパ世代の小林鷹之氏(1974年生まれ)は「安全確実で保証がある成長戦略が外からもたらされること」を期待しているのだろう。
一方、同じく昨年の総裁選に出馬した小林鷹之元経済安全保障担当相は「首相は『楽しい日本』というが、楽しい日本をつくるための具体的な道筋が、きょうはあまり感じられなかった」と指摘。「自民としてどういう国づくりを目指すのか、どういう骨太の政策を打ち出すのかといったメッセージを発信することが重要だ」と述べた。
「素晴らしいスピーチ」「見出しが立たない」… 石破茂首相の自民党大会演説に割れる評価(産経新聞)
主語が「日本人」であればまだ救いはあるのだが政権政党ですら「天からの啓示」を待ち続けているのである。