大阪・関西万博の事前PRが熱を帯びている。吉村知事がテレビ番組に出演しPRしたようだが内容はさっぱり伝わってこなかった。代わりにネットニュースになったのが「ラーメン一杯2,000円」である。
ちょうどReHacQの「収奪経済化する日本」という番組をどこかで紹介したいと考えていたため「これはいい題材になるぞ」と思った。
石破総理は「楽しい日本」を政権のテーマに掲げ「1970年の万博は良かった」と回顧したが「何を言っているんだ」と世間からは一蹴されていた。吉村知事は未来の日本は夢洲にあるぞと熱烈アピールしたかったのだろうが、話題になったのはラーメンが一杯2,000円もする「馬鹿げた万博」だった。
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ランチには1,000円の壁というものが存在する。先日北九州市折尾の「かしわ飯」が大麦を混ぜたというニュースがあった。1,000円の壁を突破すると売れなくなる可能性があるため苦肉の策として大麦を混ぜることにしたのだ。戦中の窮乏機を思わせる切ないニュースだが地元のファンたちは「変わらず支援する」といっている。
人々は予算の上限を決めそれ以上のものは視界から外してしまう。つまりなかったことにされてしまうのだ。
こうした庶民感覚が定着する中で「2,000円のラーメン」はもはや狂気にしか思えないがm海外からの客向けに価格設定するとどうしてもこの値段となってしまうのだろう。日本の経済がいかに先進国から立ち遅れているかということがよく分かる。
しかし、これを紹介しただけでは「なんだか切ないなあ」という感想しか出てこない。
問題はなぜこうなったかである。エコノミストの河野龍太郎さんがReHacQで「収奪経済化する日本」について書いている。生産性を上げることを迫られた日本の企業化が唯一確実に実施できたのがリストラだった。このリストラ策は成功し企業は収益を蓄積するようになったのだが蓄積された収益は国内には還元しない。還元したとしても賃金には回らず設備投資にのみ振り向けられている。
結果的に企業が労働者から収奪する経済が作られており、これが低成長の要因なのではないかと主張している。
河野龍太郎さんの主張は様々な資料や歴史的事実が引用されており、実にエコノミストらしい内容になっている。
このプレゼンテーションの最も興味深いところは後藤・高橋組と河野龍太郎さんの議論が全く噛み合っていないところにある。後藤さんは明らかに当惑したような表情を見せている。
なぜ議論はかみ合わないのか。
河野龍太郎さんはまだ日本が包摂型だった時代を知っており徐々に「自己責任化」していったところを目撃している。一方で後藤・高橋組は就職氷河期世代であり「自己責任」が所与なのだ。
河野龍太郎さんは明らかにマインドセットの転換を求めている。マインドさえ変われば状況が変わるとわかっている。なぜわかっているかというとその時代を実際に見ているからだ。
しかし就職氷河期組はそれを知らないため一生懸命に装置や制度の問題について語りたがる。成長を知らないというのはこういうことなんだなあと溜息がでる。
いずれにせよ「収奪化・自己責任化」が徹底しているため現在の日本人は持ち出しを極端に嫌う。おそらく合理的なものではなく生理的なものではないか。高価なものを買ったときの罪悪感とおとくを手に入れたときのいいようのない喜びは極めて感覚的なものだからだ。
ということで、万博の予行演習に応募者が殺到しているという。4万人の枠に35万人近くが応募したそうだ。みな万博が見たくないわけではない。しかし万博は維新に利用されているという気持ちがあり「持ち出しは避けたい」として反発しているのだ。だがみんなが高い金を払って見ているものが「タダで見れた」となれば話は別である。
この話をどこに落とそうかなと考えた。2つのテーマが浮かんだ。
まず誰もが何かをする前に「コスパ」を考えることになる社会が成長するはずはない。成長は一人ひとりの持ち出しの蓄積だからだ。
次に収奪する政党は嫌われ誰かから収奪してくる政党が好まれると類推できる。維新は万博を通じて「我々から盗む」政党とみなされつつありおそらく夏の参議院選挙の結果は好ましくないものになるのではないか。
第三に感覚が違っている以上マインドセットの転換は起こらないと予想できる。収奪されるという生理的な感覚の蓄積はおそらく「力による解放」を求めるだろう。プレゼンテーションには河野龍太郎さんがトランプ政権に言及している箇所がある。