8,700人と考え議論する、変化する国際情勢と日本の行方

すでに詰んでいるのに「修正につぐ修正」の国会

Xで投稿をシェア

カテゴリー:

にわかに「修正ブーム」が起きている。3月2日の予算案衆議院通過に合わせて予算を修正するためには月の中旬までに予算を組み直す必要があるからだ。国民民主党と維新が予算修正レースで先行していたが、自民党・公明党・立憲民主党が後追いする展開となっている。「え?自民党が自分たちの予算を修正?」と思う人もいるのではないか。

Follow on LinkedIn

コンテンツのリクエストや誤字脱字の報告はこちらまで

|サイトトップ| |国内政治| |国際| |経済|






あくまでも「時事通信によれば」だが、国民民主党と維新が予算修正で政策通だとみなされている。これに焦った立憲民主党も政策通ぶりをみせつけなければと考えて予算修正協議に参加することにしたという。

時間がない中それぞれの官庁の代表を呼びつけて基金に無駄があるとの結論を出している。あまりにも時間がないため官庁代表者の中には走りながら当面をして委員長に叱られたなどという報道も出ていたと記憶している。

「日本人は新しいポリシーのもとに新しい政策を立てられない」と表現すると主語が大きいという叱責をいただくことがある。しかし現実を見るとそもそも自民党の政策が保守からリベラルまでの幅広い要望を節操なく取り込んだ代物になっているうえに過去を精算・清算できていないため「一体国をどこにもってゆきたい」のかがよくわからない。

またかつての維新のように「国の統治機構を抜本的に改革する」と提案されると両手を広げ変化によって引き起こされるであろう不安を指を折って数えだしてしまうのが日本人だ。このためどうしても「修正」に人気が出てしまうのだろう。

衆議院選挙で自民党に巻き込まれたという被害者意識を持つ公明党は国民民主党の修正を支援することにした。大阪で競合する維新と協力するのは嫌だったのかもしれない。

最も驚いたのが政府自民党の予算修正だ。高額療養費の問題で方針を撤回した。これも予算修正を伴うそうだ。これまで野党がいくら応じても予算修正は頑として認めてこなかったのだが、これまでは単に面倒だからやらなかったのか、あるいは維持になっていただけだったということになる。

しかし、こうした修正は今や行き詰まりつつある。自民党はこれまで「デフレから脱却しさえすれば国民の生活は良くなる」と虚偽の説明をしてきた。これがアベノミクスである。現在はインフレ状態にあるが赤澤経済再生担当大臣は現況はインフレであると認めつつデフレ状態も抜けていないと苦し紛れの答弁をしている。村上総務大臣のように明確にアベノミクスを否定する人もいるが政府の公式見解となると話は別なのだろう。

石破総理は地方創生を進めたい意向だが村上総務大臣は「日本の人口は減少するから県は要らなくなる」と個人の見解を披瀝した。個人の見解なので村上氏が具体的に何かの政策を提案することはない。立憲民主党の議員が村上氏を問い詰めたそうだが「発言は撤回しない」としている。

村上氏の発言についてはQuoraでも触れた。フォロワーの数は8700人を超えたが意外なことに「賛成派」が多かった。その賛同の理由は実に様々だった。政府や行政は肥大しすぎていると漠然と考える人も入れば、日本も大胆な政策転換が必要だという人もいる。実際に地方再生に携わっているという人もいて「今の状況ではもう行き詰まりが目に見えている」という。

政治をコンピュータシステムに例えてみるとわかりやすい。コンピュータにゴミが溜まるとそれをクリアするために再起動する。とはいえすべてを再起動すると大混乱するので(この混乱が起きているのがアメリカ合衆国だろう)穏健化の仕組みが備わっている。それが政権交代だ。しかしちょっとした変化を不安視する傾向が強い日本人は政権交代を嫌う。結果的にゴミがクリアにならずシステムに不具合を起こす。完全に停止するわけではなく徐々にスローダウンしてゆくのだ。

コンピュータの例がわかりにくいならば「睡眠」に例えても良いかもしれない。外の刺激を一旦止めて内部を整理する働きがあるなどといわれている。睡眠不足が続けば意識が朦朧として生産性が落ちる。

日本の政治は結果的にこの「クリア」がうまく働いておらず「もう全てを最初からやり直さないとどうにもこうにもならないのではないか?」と考える人が出てくるのだろう。

ただし現在の国会を見ると「リセット」よりも「微調整」が好まれている。意識混濁したままで前に進み続けるのが今の日本の政治状況なのかもしれない。

コンテンツのリクエストや誤字脱字の報告はこちらまで

Xで投稿をシェア


Comments

“すでに詰んでいるのに「修正につぐ修正」の国会” への2件のフィードバック

  1. 39歳自営業のアバター
    39歳自営業

    > ちょっとした変化を不安視する傾向が強い日本人

    確かに主語が大きい面はありますが、同世代の日本人を見ても首肯するご指摘です。

    明治以降の近代日本史が好きなのですが「すべてがセロリセットされるほどの大異変」すなわち明治維新や敗戦などが典型的ですが、そういう事象のあとになるとなぜかイキイキと目を輝かせて働き始めるのも日本人のいち特性のように思います。もっともその異変なるものを自力で起こすほどの気概はありませんが。
    戦後しばらくから昭和中期あたりまでの日本人の随筆などを読むと「他国に比べ日本は色々なものが恐ろしい速度で変化している」「アメリカや中国といった大きな国はその大きさゆえに大変革が起きにくい、日本だけが慌ただしく変貌し続けている」といった、目まぐるしい自国の変わりようを畏れたり原因分析したり?するものが散見されます。

    現代の日本人はいかなる変化をも拒絶する性質(老人の特性でもあります)があるのは否めませんが、それはもしかしたらここ数十年で何らかの理由により一気に強調されたもので、数世代前はまた全然異なる様相だったのではないか、と最近の読書履歴を参照しつつ拝読して思いました。

    だから何なんだよ、という感想レベルのコメントを残してしまい恐縮ですが、何かの思考のご参考ともなれば幸いです。

    時に舌鋒鋭い独自のご見解、他に類似のメディアなく、つねづね大変勉強にさせていただいております。

    1. コメントありがとうございました。

      > 数世代前はまた全然異なる様相だったのではないか

      昭和(高度経済成長期ごろまで)って毎年のように新しい新製品が出て世の中もガンガン変化していたんですよね。少し傾斜がついたトレッドミル(ベルトコンベアに乗って歩いたり走ったりするやつ)みたいな感じの社会でした。なので漸進変化(少しづつ変わり続けること)が定常だったんです。