中居正広氏問題はフジテレビ問題に変わりつつある。実に様々な分析がでているが「そもそも何があったのか」がよくわからないという人も多いようだ。ここでは1988年のSMAP誕生から現在までを年表風にまとめた。
1988年
SMAPは1988年(昭和63年)にデビューした。前身はスケートボーイズで光GENJIのバックダンサーだったそうだ。平成に入ると「作られたアイドル」は受け入れられなくなった。飯島三智氏がSMAPのマネージャーに志願しバラエティに活路を見出すようになる。
ジャニー喜多川氏はその後テレビではなくショーにこだわるようになる。結果的にテレビ芸能はメリー喜多川氏が仕切るようになった。メリー喜多川氏は娘のジュリー藤島景子氏を後継者にと望む。しかしここで飯島三智氏の存在が邪魔になる。ジャニー喜多川氏はタレントの地位が高くないことに不満を持っていたとされることもある。このためテレビ局に依存せず独自の美的世界を目指すようになっていった。この系統が結実したのが「僕は城を作りたいんだ。滝沢の城を」で始まったとされる滝沢演舞城。2006年から2023年まで続いた。また堂本光一氏のSHOCKシリーズも2000年に始まり2024年まで続いている。これらがなぜ終わったのかはわからないがBBC報道をきっかけにジャニーズが解体したことが大きかったのかもしれない。つまりテレビの儲けを原資に劇場の運営ができていたということになる。
これまでのような徒弟制度ではなく学校で新しいタレントを作ろうとする動きが吉本興業で起きる。このNSCのタレント一期生であるダウンタウンが大阪のテレビでブレイクしそのまま東京進出を果たしたのもこの年だった。初代のマネージャーとして活躍したのが大崎洋さんである。
このように1988年は日本の芸能界に大きな変革があった年だ。翌年にベルリンの壁が崩壊し東西冷戦が終結した。
フジテレビはもともと鹿内(しかない)家が支配するフジサンケイグループが経営する放送局だった。しかし1988年に鹿内春雄氏が42歳の若さで急逝する。信隆氏が会長に復帰するが高齢のため娘婿の佐藤宏明氏を鹿内姓にして会長に送り込んだ。
1990年・1991年・1992年
フジテレビ
1990年に鹿内信隆氏が死去。1991年に創業家の支配を確実にするため「株式会社フジサンケイコーポレーション」が作られた。この頃が日本のバブル崩壊期にあたる。1992年になると産経新聞の取締役会が開かれ宏明しが会長を解任された。労働組合などで力を発揮した日枝久氏によるクーデターと言われている。当初日枝久氏はフジテレビのガバナンスを正常化したと肯定的に評価されていた。
1999年から2002年
文春はテレビが伝えてこなかったジャニー喜多川氏の性犯罪を取り上げた。ジャニーズ事務所はこれを問題視し名誉毀損の裁判を起こす。地裁では文春が負けるのだが、高裁判決では一部内容が認めれて減額された。裁判としては文春が負けた裁判だったが、セクハラ被害が裁判所に「真実性の要件が認められている」とされた。
しかし当時のテレビとマスコミはジャニーズ事務所のタレントに大きく依存しておりこの裁判に付いほとんどと取り上げることはなかった。後にBBCが指摘をきっかけにTBSなどが総括しているが「人権の問題ではなく芸能界のスキャンダルと考えていた」等と言われている。
過去の新聞記事を「G-Searchデータベースサービス」で検索すると、一審判決は産経新聞、毎日新聞、朝日新聞が報じているが、性加害を認定した高裁判決、上告棄却について書いたのは朝日新聞のみだった。
なぜ東京高裁は「ジャニーズ性加害」を「事実」と認定できたのか 1999年文春報道の裁判(弁護士ドットコム)
2011年
フジテレビ
フジテレビは次第に面白い番組を作れなくなっていった。この背景にあるとされているのが日枝久氏だ。日枝氏はは1988年にフジテレビの社長になるが当時は鹿内フジサンケイグループの一企業に過ぎなかった。1992年にクーデターを起こした。2001年にフジレテレビの代表取締役CEO会長に就任し、2003年にフジサンケイグループの代表になった。2008年にはメディアホールディングスの代表取締役会長CEOとなる。新聞やラジオがテレビを支配する体制からテレビが支配する体制にきりかわっていったことになる。
2011年といえば東日本大震災のおきた年だ。フジテレビだけでなく多くの企業がACジャパンの広告に切り替えており「浮かれた気分でいること」が憚られていた時代である。同時に、Twitterが災害時の情報手段として注目されるようになっていた。つまりこれまでのインターネット文化がSNS文化に脱却してゆく元年のような年だった。かつては素人が作るまがい物のような扱いをされていたYouTubeの存在感の増していった。
つまりテレビにとっての頂点はそのまま地位の低下という長い坂道の入口だったことになる。
フジテレビが古い番組に変わる新しい番組が作れないと言う問題は、まず思わぬハレーションを生み出した。
それが「フジテレビは韓国に偏っているのではないか」という問題だ。2011年フジテレビ騒動と言われている。仕入れ単価の安い韓国ドラマの放送が増え利益率の高い通販番組なども多く取り入れられた。制作費を抑え経営合理化を図る手段だったと考えられるがドラマ経費が圧迫されたことで俳優やスタッフたちの不満がたまりつつ会ったのだろう。俳優高岡蒼甫氏の「韓流推し」指摘をきっかけにデモまで起きている。デモが起きたのは2011年8月だそうだ。
吉本興業
2011年8月23日に吉本興業である会見が開かれた。島田紳助氏が「黒い交際」を認め芸能界を引退した。島田さんは週刊現代に名誉毀損の訴えを起こしたが東京地裁に退けられている。しかしこの騒動の後にも吉本興業の社内風土は変わることがなかったようだ。後の2019年に複数芸人の「闇営業問題」が起き吉本興業はコンプライアンスの近代化を迫られることになった。
2015年から2016年
SMAP
ジャニーズ創業家対従業員の対立に火を付けたのは2015年1月29日の文春のインタビューだったとされている。文春はジャニーズ事務所のコントロール下になかったため「空気を読まない」インタビューを行った。飯島三智氏が次期社長と目されているとする指摘にメリー喜多川氏が激昂。メリー喜多川氏は飯島三智氏を呼びつけて面前で恥をかかせた。
メリー喜多川氏は木村拓哉氏が「仲介役」となって残りのメンバーがジャニー喜多川氏に詫びを入れるというストーリーを発案。飯島三智氏に屈辱を与えようとした。そしてこれに協力したのが経営不振の入口にあったフジテレビだった。SMAP X SMAPの演出は後に「公開処刑」と呼ばれるようになった。2016年1月18日の出来事だった。
しかしこの「公開処刑」はうまく行かなかった。そもそも「飯島三智後継者説」をジャニーズが潰せなかったのは時代の変化によりジャニーズの統制下にない媒体が増えたからである。つまり文春や新潮の影響力が増しつつあったのだ。
メリー喜多川氏の怒りが収まることはなく、飯島三智氏は芸能界を追放されることとなった。しかし、メディア支配力は衰えつつあり文春や新潮までも抑えることは出来なかった。
ジャニーズ事務所内部で何があったかはよくわかっていないがSMAPの露出は減らされ2016年8月14日に解散が発表された。木村拓哉氏がハワイに休暇にでた際に残り4人でジャニー喜多川氏らに直談判したという話がある。紅白歌合戦への出演話もなくなりSMAP×SMAPが最後のグループ活動ということになった。熱心なファンは蚊帳の外に置かれ唐突な発表の数々を外から見守るしかなかった。
フジテレビ
ジャニーズ事務所に陰りが見えていた時期にフジテレビも最初の危機が囁かれていた。今でも荒れる株主総会の記事がダイヤモンドオンラインに残っている。「フジテレビは面白いものを作れなくなった」などと株主を糾弾されていた。きっかけは2015年4-9月期の決算の営業赤字だったようだ。
番組制作現場を知らない日枝久氏には起死回生の手段がなかった。
最初に日枝久氏が頼ったのが亀山千広氏(2013-2017年)だったが、2015年に営業赤字を出している。亀山氏は監督ディレクター経験のないプロデューサだった。2013年には大改革の一環として「笑っていいとも」の終了を打ち出し、2015年にはニュースを打ち切っている。次の宮内正喜社長(2017年-2024年)も数々の番組を終わらせている。宮内氏は任期満了で社長を退任したそうだが次世代につながる番組を打ち出すことは出来なかった。
今回の中居正広氏に引き止めを不思議に思う人がいるかも知れない。しかし古いヘリテージを切っても新しい何かが生まれることはない。むしろフジテレビは「今売れているもの」に固執することになってゆく。新しいものが作れないのだから古いものにしがみつくしかない。
2019年
また、2019年6月に入江慎也氏が吉本興業を介さずに所属タレントを仲介していたとして契約解除を受けた。問題になった営業は2014年に行われている。複数名の謹慎に発展したが処分された人たちに「認識はなかった」とされている。
吉本興業では「加藤の乱」も起きている。闇営業問題に対応ができない吉本興業のあり方に疑問を持ち情報番組「スッキリ!」で情報発信力があった加藤浩次氏が「契約の柔軟化」を訴えた。後に吉本興業はフリーエージェント制を導入することとなった。当時加藤派閥と松本派閥という切り取られ方をされたという記事もある。
吉本興業の社長がダウンタウンのマネージャーも努めた岡本昭彦氏に変わったのもこの年である。営業の事前申告制度や契約の書面化などの近代化も行っている。
吉本興業の実力者である大崎洋さんは2009年に代表取締役社長となり2018年に共同代表取締役兼CEOになった。2019年に会長になる。2018年には内閣官房の「わくわく地方生活実現会議」委員に就任し2019年に万博のシニアアドバイザーに就任した。大崎氏は2023年5月に会長を退任し万博の座長の仕事に専念することとなった。
2023年
BBCがジャニー喜多川氏の性加害についてイギリスで番組を放送した。これが2023年3月7日だった。このあと日本のマスコミとテレビ局は大騒ぎとなり「なぜ外圧がかかるまで自浄作用が働かなかったのか」と検証する番組が盛んに放送された。
この検証報道が行われたのは2023年の中盤だが、このときに実は中居正広氏がフジテレビの社員に対してなんらかの問題行動(性加害の可能性があるがマスコミは婉曲に「トラブル」と書いている)を起こしていたことが限られた経営幹部の間で共有されていた。コンプライアンス部門は2024年末に文春に知らされるまでこの情報を知らされていなかったと言われており、検証報道部門がどの程度状況を認識していたのかは未知数だ。
新しい番組がなかなか生み出せないフジテレビが2020年と2022年に評判を呼んだ特番を復活させた。それがまつもtoなかいだった。中居正広氏の「トラブル」が起きたのはちょうどこの番組が始まってすぐのタイミングになる。
ところがこの番組は意外なことで危機を迎える。
2023年12月27日発売の週刊文春に松本人志氏が複数の女性に性的行為を強要したという報道が出た。このとき吉本興業は一切の事実を否定し松本人志氏も「法廷闘争」を示唆した。松本人志氏はフジテレビで世間に説明したいと求めたが、フジテレビの総合的な判断の結果番組が実現することはなかった。
吉本興業で何が起きていたのかはあまり語られていないが主流・反主流に分かれ反主流派が出ていったあとで勝利した派閥の力が強くなっていった可能性がある。これを破壊したのが週刊誌報道だったわけだ。
しかしながら2024年に入ると「松本氏が訴訟を継続するのは難しいのではないか」と囁かれていた。松本人志氏は11月8日に訴えを取り下げた。出版社と女性も同意したが「金銭の授受はなかった」とされている。
大阪関西万博に強い影響力をもつ大崎洋さんはデビュー当時のダウンタウンに注目しマネジメントを志願したことで知られている。これまで徒弟制度だったお笑いが学校を作ってタレントを要請するという時代の切り替え期間にあたる。ここにうまく対応し松本人志・浜田雅功というスターを作り上げた功労者だったということになる。しかし結果的に松本さんの力が強くなりそれ以外のタレントは徐々に会社から距離を置くこととなった。
NSC設立は1982年(昭和57年)だそうだ。ダウンタウンが大阪で注目され東京に活動を移したのは1988年頃のこと。
2024年から2025年
2024年末に中居正広氏がフジテレビの女性X子さんとの間にトラブルを起こしたのではないかと週刊誌で報道された。12月の時点ではマスコミの対応は抑制的だった。年末・年始の番組を撮り終わっており今騒ぎを起こすのは適切ではないと判断された可能性が高い。しかし騒ぎは年始になっても収まらなかった。
中居正広氏側は「トラブル」までは認めたが「すでに和解が成立しているため芸能活動は続けられるようになった」と一方的に宣言した。しかしこれが火に油を注ぐ状態になる。とはいえ和解の中に守秘義務条項があるためトラブルの中身がわからない。ネットでは様々な憶測が乱れ飛んでいる。
ついには一方の当事者であったフジテレビの経営幹部に「責任」を求めるまでにエスカレートした。しかし港浩一社長はマスコミを締め出して「定例会の前倒し」という形で会見を強行。守秘義務を盾にほとんど「わからない・話せない」としたためさらに騒ぎが拡大した。
多くの企業が社内のコンプライアンス規程に則ってCMを引き上げる騒ぎとなり、今もACのコマーシャルが大量に流される状態が続いている。ステークホルダー(外資系株主)は説明を要求し、従業員も社長ら幹部を激しく突き上げた。
結果的に「長く続いた日枝久氏の体制が問題を引き起こしている」と総括されつつあり、会見で日枝久相談役に説明を求める世論も出ている。しかしフジテレビは日枝久氏の説明は予定しておらず、CMの代金を受け取らず、港浩一社長らの辞任で幕引きを図りたい考えだ。
松本人志さんは活動の再開をするものとされている。大阪万博が始まるため活躍が期待されるところだが疑念が完全に払拭されたとは言えない状態でテレビや公共イベントに起用する動きは始まっていない。独自プラットフォームから活動を再開するのではないかと見られているそうである。