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立花孝志氏が麹町警察署に保護されたという情報

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スポーツ紙に「立花孝志氏が麹町警察署に保護された」というニュースが出ていた。どうやら支援者を心配させる動画が投稿されその後行方がわからなくなっていたようだ。立花氏支援者は「自分たちも反対陣営に追い込まれた」と主張できる「事実」を手に入れたことになる。今回は「承認欲求と格差」を中心にこのニュースを考えたい。

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立花孝志氏が麹町警察署に保護されたというニュースが出ていた。支援者を心配させる動画を投稿したあと姿を消していたとある。

元県議が亡くなったことをきっかけに「立花氏の言動が元県議を追い詰めたのではないか」と追求する動きがあった。支援者は今回立花氏が「追い込まれた」事実を手に入れ反論がやりやすくなる。

しかし今回の動きはこうした合理性だけで語れないものがあると感じる。

立花氏は現在執行猶予処分を受けている。しかし死者に対する虚偽の流布は名誉毀損にあたる。警察は事実でないと認定する異例の声明を出しており親族の申告さえあれば捜査が進められる状況だ。

立花氏は当初「元県議は逮捕寸前」と主張していたがこれはじつは自分の境遇とおそれを投影したものである可能性がある。無意識のうちに主語が置き換えられてしまっているのだ。

普通の人であれば「警察に目を付け狙われるような行動」は差し控えるだろうが、彼はますます行動をエスカレートさせていった。発言すれば発言するほど回りから強い反応が得られる。つまり「承認」を通じて強い快楽を得ることができる。また信者の人たちもこれに共感することで相互承認が得られる仕組みだ。

「立花氏の敵」はリベラルから流れてきた人達が多い。社会になかなか自分たちの主張が認められないという承認に対する強い不満を抱えている人たちである。彼らが自分たちの主張を認める・認めないと言い合っている。Xを見ているとずっとXに張り付いていて「タグを使ったデモ」をいつまでも繰り返している。

仮に他の分野で承認が得られれば(つまり他に楽しいことがあれば)彼らは政治から離れてゆくだろう。つまりほかで承認が得られないからこそこの「界隈」にとどまっているのだと言える。

もともと主語を明確にせず自己を他者に投影してしまう傾向が強く自己成長でなく承認によって満足感を得る人たちが集団化したのが今回の現象だと総括することができるだろう。

今回、Quoraのコメント欄で支持者の人たちと話をしていて「違和感を感じない」と思った。

色々考えてみたのだが大学時代に似ているのだ。ちょうどオウム真理教が過激化する直前の新興宗教ブームだった。新興宗教にハマってゆく人たちは「自分は信者ではない」という。だが「面白そうなので一緒に行ってみないか?」などと言ってくる、すでにその時点で片足を突っ込んでいるがそれをいいたくないのである。

ここで「あなたは騙されている」と言ってはいけない。相手は頑なになる。そっと距離を起き「頑張ってね」といいあとは自分から違和感に気がつくのを待つしかない。攻撃されると集団化し暴走すると我々はオウム真理教の事件から学んだはずだったがその教訓が十分に生かされているとはいい難い。

SNSは緊急災害時に有益な情報を提供してくれるツールだ。東日本大震災の経験からもそれは明らかだろう。しかしながらアメリカでは他人の権利を抑圧するための脅迫の道具としても使われるようになった。

日本にも同じ傾向はある。だがもっと危険なのが「承認」である。SNSで承認が得られない人は更に攻撃的になるが、リアルで承認欲求を満たしてしてしまう人もいる。承認欲求は人間の社会性を維持するうえでは大切な本能なのだが強い依存性があることも確かなのである。

承認欲求とは用法用量を守って正しく付き合うべきだ。

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