元兵庫県議会議員の竹内英明氏が亡くなった。自殺と見られている。時事通信は「家から出るのが大変な状況が続いた」と言っている。直前まで「警察から取り調べを受けており逮捕寸前だった」という風評があったようだが産経新聞などが警察に取材をし、警察はこの噂を否定している。
この件に関しては直後からSNS(Yahooニュースのコメント欄やX)が大荒れになっている。ニュースの背後に人がいるという実感が持てないのだろう。ある意味では現在の被害者といえるかわいそうな人達だが、自分を救うことができるのは自分しかいないと知るべきだろう。他人を巻き込むべきではない。
元兵庫県議会議員の竹内英明氏が亡くなった。斎藤元彦知事を調べる百条委員会の委員だったが直後から一部政治勢力の激しいバッシングに晒されたとして議員辞職していた。その後もバッシングが止むことはなく今回の結末に至ったものと考えられる。時事通信は「家から出るのも大変な状況だった」と指摘している。
兵庫県ではすでに元県民局長と病気療養中の元課長が亡くなっている。斎藤元彦氏関連の死者は3人になった。アメリカ合衆国や韓国のように党派対立が激しい直接民主主義の国ではなく、政治に距離を置く人が多い冷笑型民主主義の我が国では極めて異例の状況になっている。
直後からSNSは大荒れになっている。
- オールドメディアはまたSNSを悪者にするに違いない
- 竹内氏は逃げたのだ
- いやいやむしろ風評を流した政治勢力が悪い、警察が何もしないからである
などの論が飛び交っていた。
どちらの陣営に立つかは別にして共通点がある。政治ニュースの背景に人がいるという実感がない。そしてその誰もがどちらかのポジションを取り誰かを叩くことに夢中になっている。確かに今回の件は風評を主導した「ある政治指導者」が直接の原因なのだろうが、彼を支援する人が多いのもまた事実である。
竹内さんが亡くなった理由に思いを寄せることはなくオールドメディアはまたSNS(自分たち)を批判するぞと被害者意識に彩られた予想をする人たちもいた。
異常な光景といえる。
この理由を考えた。3つあるように思える。
第一に日本の学校教育は生徒をモノとして扱う。映画で言えばエキストラのような存在で「管理すべき数」として扱われる。これでは個人を尊重する気持ちは育たない。そして多くの人が社会にでてからも「人生の主役」として扱われることはなく「その他大勢」としての一生を終える。「社会のガヤ」に「他人を尊敬しなさい」などと言ってみても仕方のないことだろう。
次に政治の側もできるだけ国民が政治に関与しないように務めてきた。森喜朗首相(当時)の有権者は寝ていてくれればいいのにという発言がそれを代表している。このため政治が国民生活に関わっているという実感が持てない人・政治に関わることを禁止されていると感じている人が多い。
最後にテレビの悪影響も見過ごせない。フジテレビは「面白ければ何でもいい」という姿勢の会社だったが「昭和のマインドセット」から脱却できていない。フジテレビ固有の人権意識の希薄さはアナウンサーをモノとして扱い彼らが人間であるという意識が持てなかったということを意味している。他の在京キー局が人権意識を回復していると思いたいのは山々だがそれを裏付けるエピソードは出ていない。
安倍政権時代に自分を尊敬できず自我の危機にさらされていて人たちは「日本人」という虚像を掲げて安倍総理と一体化し「反日」を叩いてきた。ところが安倍総理が亡くなると一体化するものを失ってしまう。すると今度はSNSと一体化し「オールドメディアや既得権益」を叩き始めた。トランプ大統領のいうenemy withinと同じ構図だ。本来はアメリカと異なる政治文化を持った日本人がトランプ氏に惹き付けられる裏にはこのような事情もあるかもしれない。
他人も自分も尊敬できない人はSNSに溢れている。Quoraの政治フォーラムなどで意見を聞いていると時々ぎょっとするようなコメントを貰うことがある。「私は普通の人間なので政治的意見は言わないようにしている」「素人なので詳しくないが」と責任回避をしたうえで、断定的な口調で根拠なく権利を主張する他人を断罪する人が多い。自ら政治に関わるべきではない「身分である」ことを認めてしまっている。「お前たちはエキストラとしての人生を全うすべきだ」という無言の圧力に屈服しているのだ。
口調が断定的なのは昭和の竹村健一氏を彷彿とさせる。「インテリが何を偉そうに」という不快感を持ちながらも政治を語るうえでは断定しないとナメられると誤認してしまっているのだろう。ある意味で昭和型の政治報道の被害者と言える。
REUTERSによると南アフリカではデジタルツールを使って政府に異議申し立てをする人が増えているそうだ。確かに南アフリカは民主主義後発国だが精神的に若い状態にある人たちは「自分の力で何かを変えてゆこう」という意欲を持つ。
ところが日本は社会全体が高齢化しているため肉体年齢が若い人であっても「老成」しなければやって行けないところがある。肉体年齢ではなく精神的に「高齢化が進んでいる国家」と言えるのかもしれない。
このように考えるとSNSで吹き出す「ニュースの向こうに人がいると実感できない」人たちは社会の被害者なのかもしれない。しかしながら彼らを救い出せるのは社会ではなく彼ら自身であるということも確かだろう。
自分たちの置かれた運命に負けてしまうのは「彼らの勝手」かもしれないが、他人をその泥沼に引き込むべきではない。ましてや事実でない風評を広めた場合には罪に問われる可能性もあるということを知っておくべきだ。
Comments
“竹内英明元兵庫県議が死去 警察は取り調べの風評を否定” への4件のフィードバック
日本人は政治に関わりたくなと考えている人は多くいるし、最近では関わっていたりする人がいても、今回のデマを発信していた某政治団体の人々みたいに、「政治」団体と言うべきではないような人が目立つようになって本当に辟易としています。
私が、「日本人は政治に関わりたくなと考えている人は多くいる」と思うようになったきっかけがあります。動画サイトのゲーム実況で、テロリストが主人公サイド(アメリカ人)に対して「”お前たち”がテロの引き金を引いた」というようなセリフがあり、それに対してコメントで「主語がでかい」というものが多かったです。よく国を批判するときに国名ではなくて、その国に所属する人に対して批判する手法は昔からあるので、こういうコメントをする理由が最初は分かりませんでした。悩んだ結果、もしかすると他人の問題を社会問題として捉え「あなた」と名指しされることで、政治に関わってしまうことをおそれているのかもしれないと考えました。
以前、政治について語る人とランチに行きたくないと考えるのは中国人と日本人が多いという調査結果を見たことがあります。政治について語るのはタブーと考える文化は根強いみたいですが「なせそうなったのか」はよくわからないんですよね。検索したところこんな調査がでてきましたが「一般的に言われている」と所与のものとして扱われています。
> 「政治」について会話で取り上げることは、感情的摩擦をもたらすので、日常マナーとしては避けた方がよいと一般的に言われている。その一方で、それが政治参加を促進し、民主主義が活性化するという学問上の議論も存在する。そこで、筆者を中心とした「政治とインターネット研究会」は有権者がどの程度政治的話題について忌避意識を持っているかの調査を行った。その概要を紹介する。
https://www.crs.or.jp/backno/old/No557/5571.htm
さほど親しくない人に対する、話題を取り上げる理由(国の政治)の「当たりさわりがないから」と言うのを見て、消費税やマイナンバーカードのようなものだと、たしかに当たりさわりのない会話として話すなと思いました。しかし、国の政治でも自分とは関係ないもの(男性の場合だったら女性の社会における不平等とか)や、LGBTQや選択的夫婦別姓制度などの伝統的な制度への固執や差別感情が存在するような問題は、会話の選択肢に入らないだろうなと思いました。
国の政治と言っても、色々な種類があり、日本では話題にしにくい種類の政治ほど、本当は話し合わなければいけないのだろうなと思いました。
それと、日本はディスカッションをする機会が少ないので、政治の話のような自分の信念を語る方法が分からなく、「人を傷つけそう」という理由で話題に出さない結果になったのかなと思いました。
確かに、貿易会社の人がアメリカの政治動向について話すのは自然ですが(為替に影響が出るので)、突然、LGBTについてどう思う?とか消費税って良くない税金だよね?とか日本の社会保障費は高すぎると思わない?とか聞かれると「あれ、この人はひょっとして」みたいな類推が働き「どう表現するのが適切だろうか?」みたいなことになりますもんね。政治が生活と接続していない分野が多ければ多いほどなかなか話はしにくいんだろうなあという気がします。