よく信者たちから「安倍晋三総理は外交の天才だった」という的はずれの評価を聞く。フィナンシャル・タイムズが「ロシアは日本と韓国との戦争に備えて攻撃リストを整備していた」という記事を書いている。この記事を読んだあとでも同じことが言えるだろうか?などと考えた。
安倍晋三総理はプーチン大統領との個人的な関係をアピールして平和条約の締結につなげようとしていた。その過程で事実上国後・択捉の領有権を追求しない方針を打ち出して支援者たちを戸惑わせてもいる。ロシア側はこの平和条約に別の期待をしていたようだがあまりにも内向きな日本人に呆れ果て交渉に徐々に関心を示さなくなり、最終的にロシアのウクライナ侵攻で破綻した。
時事通信が「ロシア、日韓攻撃対象リストを作成 奥尻島基地、関門トンネルなど―英紙」NHKが「英紙 “ロシア 日本と韓国の原発など攻撃対象リストを作成”」とそれぞれ書いている。この記事を読んでも特別に不思議な気分にならない。ウクライナで行われていることだいたい似たようなことが行われているに過ぎないからだ。
記事は「2014年までに準備されていた」と書かれているが、この2014年というのはどんな年だったのか。
ウクライナには親ロシア派のヤヌコーヴィチ大統領がいたが市民からの突き上げを喰らいはロシアに亡命した。ヤヌコーヴィチ大統領はセバストポリのロシア艦隊の使用権を延長する約束をしていたがウクライナ側は後にこれを「反逆」として扱っている。
では、クリミア半島のセバストポリにはどのような意味があるのか。
ロシアとクリミア半島は橋でつながっている。そしてロシア海軍はクリミア半島にあるセバストポリから黒海に出ることができる。イスランブールの海峡を超えると地中海につながっていてそこからいったんシリアに確保した海軍基地に入る。そこで状況を整えれば次はアフリカに向かうことができる。フランスが西アフリカから撤退しつつあるためワグネルなどの「民間」軍事会社を通じて影響力を強め西アフリカの資源をロシアの経済に活かすことができるという算段だ。ロシアが前時代的な帝国拡張主義のために出口を渇望していたと理解できる。
しかしこの戦略に大きな誤算が生じる。それがヤヌコーヴィッチ大統領の放逐につながるマイダン革命だ。権益確保に焦ったロシアはクリミアのロシア系住民を動かして「逆革命」を演出したうえでクリミア半島全域とセバストポリを併合してしまう。これが結果的にNATOとの対立につながり今のウクライナ侵攻の状況を作り出した。
ジャーナリストの駒木明義氏が平和条約における「ロシア側の狙い」について書いている。ロシア側が結ぼうとしていた「平和条約」の中に第三国を理由にして日本がロシアに敵対することを禁止する条項を入れようとしていたそうだ。つまり拡張主義を考え始めていたロシアがNATO・アメリカとの激突を予想しその障壁を取り除こうとして戦略的に動こうとしていたということだ。
ソ連は中立条約を破って北方四島から北海道を狙っていたのだから歴史的な皮肉ともいえる。しかし当時のプーチンロシアは日本の脅威をできるだけ取り除こうと「平和」条約を持ちかけていた事になる。つまり平和条約も一種の戦争準備だったわけだ。こうした歴史的文脈を考え合わせると今回のフィナンシャル・タイムズの情報はある程度の整合性を保っているとわかるだろう。
ただしこのときに障害になるのが日米安保条約だった。ロシアは戦争準備のために日本を無力化しておきたい。このためには相手が望んでいる平和条約に応じてやるのがよいだろう。しかし日本側は平和条約と領土返還を「同義語」と見ている。仮にロシアが北方四島を放棄すればそこに米軍が入ってくる可能性がある。このためロシア側は北方四島を日米安保条約の適用外にすることを求めていた。
2014年以降、2016年には長門会談が行われる。安倍晋三総理はプーチン大統領との個人的な親密さをアピールしていたが北方領土に関する妥協は引き出せなかった。また2018年には平和条約締結に向けた具体的な交渉が始まったとされている。つまり安倍政権は2014年以降も平和条約に固執し続けた。
今回のフィナンシャル・タイムズによればこの間もロシアは「日韓」を敵視する計画を維持し続けていたのだからロシア側は平和条約によって日本を無力化しようとしていたもののあまりにも話が合わないために平和条約にはこだわらなくなっていったとわかる。今回2016年と2018年の記事は産経新聞のものを使った。彼らもおそらく感覚的な違和感は持っていた。しかし政治的ポジションから安倍総理の姿勢を批判したくない。気持ちよさを優先して合理的な判断ができなくなるのが日本人の欠点だ。戦略的な外交には向かない民族であり国家であるとわかる。
この一連の情報を見ていると、ロシアは外への拡張主義と同時に西側先進国(おそらくアメリカ)に強い怯えを持っていたことも理解できる。アメリカ合衆国はこのロシアの怯えを理解することが出来ず結果的にウクライナの戦争が引き起こされることになった。
このロシアの怯えは今のイスラエルの怯えに似ている。イスラエルはアラブ世界とユダヤ世界の間に緩衝地域を置こうとしている。そしてその緩衝地域を自分たちで管理したい。同じようにロシアの近隣の脅威は直接国内のテロにつながりかねないという事情がある。しかし周囲を同盟国と海に囲まれたアメリカ合衆国と周囲がすべて海に囲まれている日本はこうした感情が理解できないのだ。
「地球儀を俯瞰する外交」などと自身を過剰評価していた安倍総理に至っては「自分が平和条約を締結できれば歴史に名前が残るかもしれない」と期待しており、四島返還を諦めて二島返還を目指すとしていた。
単に気持ちよくなりたいだけの安倍信者と違い二島返還論に違和感を感じる識者は多いようだ。安倍総理の外交姿勢を高く評価する山上信吾氏も二島返還だけは理解できないとしている。山上氏は「当時のインテリジェンス界では領土返還はないだろう」と見られていたと語っている。プーチン氏は多くの人が思うような独裁者ではなく複雑なロシアの権力構造のバランスの上に立った大統領であり、独裁的に妥協など出来ないというのが通説になっていたそうだ。
確かに安倍晋三氏を感覚的に毛嫌いする人は多い。しかし「安倍晋三氏を評価する」とする人の中にも当時の交渉を疑問視する人はいる。
これまでも「感覚的にはなにかおかしいな」と感じるきっかけはいくつもあった。しかし気持ちよさを優先する日本人はこれをうまく合理化してしまう。これが「保守」を自称する安倍信者の限界であり、戦略的思考を妨げる日本の国としての限界なのかもしれない。