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そもそもなぜ日本人は少額の政治資金スキャンダルでいつまでも大騒ぎしているのか 極めて効率の悪い議論をアメリカ合衆国と比較する

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連日、日本の政治とカネの問題を書いている。海外在住とみられる人から「なぜこんな程度の話で大騒ぎしているのかよくわからない」と指摘された。そこでアメリカと日本の政治と金の問題について比較して見ようと思った。

アメリカにも個人献金があるのだが共通プラットフォームができており管理がしやすくなっている。ルールが明確なために「これは合法なのだろうか?」などと迷うこともない。このような仕組みさえ作ってしまえば今議論になっている問題はあらかた解決してしまうのだが、なぜか日本人はいつまでも「誰がいくらもらった」とか「これは脱税なのではないか」という細かな議論で大騒ぎをしている。

もちろん、こうした大騒ぎが政治家の行動抑制になっていることも確かなのだが、あまりにも徒労の多い「コスパ」の悪い問題解決手法だと感じる。

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「安倍派の政治とカネの問題」における幹部の対応は責任逃れに終始した残念なものだった。いまだに安倍派の誰がいくらもらったとかこれは脱税に違いないと言うような大騒ぎの議論が続いている。人々の関心は「印象付け」と「犯人探し」に向かっており、その違法性を暴き出そうと躍起になる小西洋之氏のような議員もいる。小西氏の議論はテクニカルなものばかりで「よくわからないが何か怒っているなあ」と言う印象しか残らないがご本人はとても生き生きしているように見うけられる。独自の理論を振りかざしておりそれはそれで楽しいのだろうなあと思う。

ただしこのような議論は今に始まったものではない。政治資金規正法を読んでみるとわかるのだが、政治資金パーティーの定義そのものは極めて曖昧であり(単に催事とされている)それをどう管理するかについてたくさんの修正がつけられている。問題が起きるたびにどうでもいい細かな議論が巻き起こりそれを場当たり的に修正してきたと言う歴史がある。議論の効率はきわめて悪いが日本人はコスパの悪い議論が大好きだ。

ではアメリカはどうなのか。

アメリカは政治資金管理団体を管理する共通プラットフォームを作っている。一種の公共財を作ることで面倒な議論を避けている。過去のアメリカの議論は「大口寄付者によって選挙が歪められる」ことだった。最近では潮流が変わっていて「小口献金が盛んになったことでポピュリズムが蔓延しているのではないか」が議論されている。

日経新聞がアメリカ大統領選挙の寄付事情について書いている。「大統領選にキングメーカー不在変わる米政治マネー 経営者の献金8割、非主流派に」というタイトルだ。アメリカは個人寄付が盛んだ。小口の寄付とスーパーPACと呼ばれる大口献金に分かれている。

アメリカでは個人の寄付が奨励されている。当然大物経営者や投資家などはたくさん寄付ができるため一部の「キングメーカー」の存在が問題視されてきた。だが今回の選挙は様子が違っている。トランプ氏が小口の個人寄付を集めている。2023年12月時点で1.25億ドル(185億円程度)であり半分ほどが小口献金だ。バイデン氏はこれをわずかに上回る1.3億ドルを集める。個人献金は5600万ドルほどだそうだが党と共同で集めた献金が多い。一方でスーパーPACで見るとヘイリー氏が資金を多く集めている。100万ドル(1.5億円)以上の献金をした人が90人いる。この中で明確に特定候補を応援している人は56人でその献金総額は1.8億ドルである。そしてこの8割がヘイリー氏、デサンティス氏、ケネディ氏に流れていた。

これまでのアメリカの議論は大口献金者が政治を歪めているのではというものだった。このため大口献金を制限すべきだと言う議論が行われたが「政治活動の自由」を守るため連邦や州が寄付を制限するのは違法だとする最高裁判断が出ている。

日経新聞によるとこの潮流が変わりつつある。大口献金者に反発した一般市民の政治参加が活発化している。一見いいことのように思えるのだがトランプ・バイデン両陣営の政策やメッセージングは中低所得層を狙ったもの(日経新聞はポピュリズムとは書いていないがポピュリズムと言いたいのだろう)となった。富裕層はそれ以外の選択肢を支持しているが必ずしもうまくいっていないようだ。

そもそもこのPAC・スーパーPACとは何か。これも日経新聞に記事がある。

アメリカでは企業、事業団体、一般市民グループなどが連邦選挙委員会(FEC)に届け出てPACという団体を作る。個人から活動資金を募り政治家への献金や広告などを独自に配分する。政治活動(団体としての意見表明)と選挙活動は区別しなければならない。団体は政治家とは独立しているという建前があるが、実際には特定団体と結びついている例も少なくないと言われているそうである。つまり公共のプラットフォームを作ることで管理の利便性を向上させているのである。

もちろん個人献金にも問題はある。だが、日本の議論はそのはるか手前にある。「共通プラットフォームを作ろう」という考え方がそもそもないため各政治団体のお金の管理手法ばかりが問題になっている。議論が大枠に向かわずどんどん細かくなってゆくのが日本式だ。そのうち一体何を議論しているのかがわからなくなる。極めて効率が悪い議論だといえるだろう。

では日本人の問題解決方法にはどのような特徴があるのだろうか。問題が起きると日本人は集団で大騒ぎする。そして「誰が悪いのか」と言う犯人探しが始まる。犯人が特定されることもあるが特定されないこともある。いずれにせよ騒ぎが収まらなくなると誰もが「自分は騒ぎの渦中にはいたくない」と感じるようになり次の行動を抑制することになる。つまりSNSの騒ぎには一定の機能がある。

安倍派の解体に際して、安倍派幹部たちは説明責任を避けて逃げ回っていた。そのうち「安倍派の人たちはきっと裏で何か悪いことをやっているに違いない」という風評が作られた。今後しばらく安倍派議員たちは社会監視の目にさらされるだろう。いわゆる「針の筵(むしろ)」の刑だ。

今回「大山鳴動して鼠一匹だ」という評価があるのだが、おそらくそれは間違っている。一旦不始末が起こると問題解決はしないが大騒ぎになる。次の人たちはそれを思い出して「ああこんなことをすると大騒ぎになる」と考えて行動を抑止する。これが村流の解決策である。日本人にとって最大の罪は「世間をお騒がせすること」だ。

日本の政治議論には問題解決という機能はない。人を主語にして相互監視網を形成しお互いに縛りあうのが日本式の政治報道の機能だといえる。ワイドショーからブログまで「制度より人を主語にした方が読まれる」のはそのためだ。

ただこのやり方は非常にコスパが悪い。おそらくはこの効率の悪さの原因はどこにあるのだろうと考えて海外の事例などを参考にしつつ議論をした方が建設的な議論を行うことができるように思える。

だがどういうわけか、日本人はそのたびごとに大騒ぎする方を選んでしまうのである。人を主語にした議論がとにかく大好きなのだ。

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