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武見厚生労働大臣の「月額6,000円が妥当」発言が小さく炎上 対策提案がかえって叩かれる日本の興味深い政治事情

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日本の政治状況には一種独特なところがある。政治と国民の距離がどこか冷めている。国民は政治に過度な期待はしていない。かといって政権を交代させようとも思っていない。お上は基本的に何もしてくれないと考えている。だがここでうっかり国民の意見を聞いてしまうと却って国民の反感を掘り起こしてしまうことがある。

武見厚生労働大臣が小さく炎上している。きっかけは介護職員の賃上げ提案だ。現場に「良かれ」と思って構想したのだろう。だがそれが反発され「金額ありきではなかった」と釈明する羽目になった。

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介護現場は人手不足だ。このため厚生労働省は賃上げを行い人手不足を解消することにした。月6,000円程度を見込んでいるという。処遇の改善を訴えてきた介護現場はこぞって感謝してもよさそうなのだがそうはならなかった。さすがにこれでは少なすぎるということになった。

記事によると処遇改善の具体策の検討はこれからだという。つまり、具体的な引き上げ額は決定していない。だが6,000円が一人歩きした。全国老人保健施設協会の東憲太郎会長は会見で「月に6,000円ではとても足りない」と強調したそうである。

日本人は処遇改善のためにデモをしない。ある人たちは疲れ果てて静かにやめてゆき、また別の人たちは介護現場に寄り付かなくなる。「自分一人が抵抗しても仕方ない」とか「お上に逆らって反抗的な人間だと思われたくない」という気持ちが強いのかもしれない。

探してみたが「介護界」の声を代表するメディアは皆無なようだ。そもそも団体を作って国に訴えかけるというような気運がない。忙しすぎてそこまで手が回らないという事情もあるのかもしれない。だから「6,000円は結構だがそれでは足りないのでもっと増やしてほしい」という提案はなく「たった6,000円でお茶を濁そうとしているのか」という反発になる。

自ら進んで訴えかけようという気運はないが政府や境遇に対する不満がないわけではない。むしろ不満は溜まっている。だから政府が対策を打ち出すとそれに対して「今まで何をやっていたんだ」とか「これでは全く足りないではないか」というような声ばかりが出てくる。こうした声がSNSに乗って広がり言語化・可視化されることで「やはり政府は何もやってくれなかった」という現状を確認することになる。皮肉なことに政府の働きかけをきっかけにして不満が掘り起こされてしまうのだ。

共同通信の記事のコメントには不満の声が溢れている。確かに政治課題の中には非当事者ばかりが騒ぐものもあるが、今回の件に限って見れば現場の人々の声は切実であり悲痛だ。諦めとも怒りともつかないコメントが何ページにも渡って具体的に鬱積しており「現在の目安箱」のようになっている。おそらくこの目安箱は放置されている。開いて中を見てくれる人は誰もいない。

武見厚生労働大臣は医師会との関係が深い。医療費などの改定時期が迫っているため、総理大臣としては医師会に配慮している姿勢を示すために登用されたのだろう。いわば自民党の選挙対策である。武見さんはそれがわかっているため「まずは介護」と意欲を表明し「それでは足りない」と反発された。今後医師・看護師への優遇が伝えられるようになれば反発はさらに膨らむかもしれない。

いずれにせよ6,000円が一人歩きした結果、武見大臣は「金額ではなく改善が必要と言っただけ」と釈明している。国民は給付や減税など直接自分達の財布に関係のある提案にしか興味を持たなくなっている。国民への還元ありきで処遇改善をすると「6,000円程度しか出せない」も縮小してしまうかもしれない。

ただ、国民の側も細かな議論の内容に興味を持っているようには思えない。岸田総理は庶民の味方ではないという証拠を一生懸命に集めようとしているところがある。日本の財政はおそらく今後苦しくなるという予想がある。だが、成長戦略は欠落し少子高齢化対策にも目ぼしい対策はないだろうと多くの人が感じているのかもしれない。

「面倒なことはそっちで考えてくれ」というわけだ。

ただ「民主主義では政治に関心を持つのが当たり前だ」という感覚はあるのだろう。これがどこか重苦しい義務感を生じさせる。一方で困った時にだけ泣きつかれても困るという気持ちもどこか根強い。そのために「協力しない理由」や「関わらなくて済む理由」を探していると言ったところなのかもしれない。

こうした態度は伝統的に政治的無関心(ポリティカルアパシー)と呼ばれる。だがSNSの台頭で情報だけは豊富に入ってくるようになった。政治的無関心は「政治的傍観」や「政治的冷笑」という新しい段階に入っているのだろう。情報は豊富に入るのだから、嫌でも「知ってしまう」ことになる。だからそれに関わらないで済む理由を探すようになるのだ。

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