首都圏で緊急事態宣言が解除される。本当の悲劇はここから始まる。そんな気がする。原因を探ると皮肉なことに我々が持っている成果主義型のマインドセットに行き着く。
そもそも緊急事態宣言は総理大臣が指定することになっている。なぜそうなっているかというと予算を国が握っているからである。東京都を除く都道府県は独自財源で問題を解決できないので補償を全て国に頼らなければならない。
蓮舫議員は参議院予算委員会で5兆円を抱えたままなぜ必要な対策をしないのかと菅総理に迫っていた。特にGoTo関連の予算が執行される予定はないのだが菅政権は財源として抱え込んでいる。例えて言えば皆がお腹をすかせているのに食べ物を持った甕を持って逃げ惑っているようなものだ。甕を持っている人も含めて飢え死にしてしまうかもしれないが全員が死んだ後で甕を開けても意味がない。まさにそんな状態なのだ。
菅政権が甕を持って逃げているのは「これをのちにお友達と分け合いたいから」である。
この源流は憲法が制定された時代に遡る。地方自治体の民主化を進めたかったGHQの目論見は「地方自治の本旨」という謎の言葉で骨抜きにされた。地方自治の根幹は憲法ではなく国会で議論して決めますよということにしてしまったのである。都道府県は二元代表制でありアメリカ型の議会と知事の民選方式になっているが、予算は中央が握り続ける構造ができた。
だが、実はこれは地方にとって都合が良かった。責任を取らなくていいからだ。実際に小池知事も「国がお決めになることですから」というようなことを言いつづけている。
国は権限を握っていて手放したくない。手放せば誰も助けてくれないことがわかっている。だが地方の助けなしにはコロナは克服できない。そして権限を手放しても地方はそれを仲間内で独り占めしてしまうかもしれない。国がそうやってきたのである。地方が真似をしても誰にも責められない。こうしてお金持ちの国はその使い方がわからないままで静かにパニックに陥っている。
先日来「菅政権は事実上の崩壊状態にある」というエントリーが人気を集めている。なんとなく文字面に引っ張られて溜飲を下げている人が多いのだろうが、実際に意味するところは実は意外と深刻なのである。
気持ちがバラバラなのは地方だけではない。総務省のように自治省・郵政省郵政族・郵政省NTT族という村の連合体もある。安倍人事恫喝政権で生き延びた人たちはもはや国に仕えようなどとは思っていない。そんな人たちはとっくの昔にいなくなってしまった。
彼らは国のために働いているわけでも省のために幡羅ているわけでもない。老後の面倒を見てくれる企業や利益団体探しに血眼になり野党に追及され与党に切られてしまっては困るという理由で自己保身を図る。知りません、記憶にありませんと嘘を平気でつくようになった。
リーダーたちは成果が出ないものは切り捨ててしまいたい。新型コロナ対策は票にならず足を引っ張るだけということになればもうやりたくないのだろう。そこで「色々やって見たが成果が出ないから一旦解除して仕切り直しだ」という謎の世論を作った。マスコミもそれに乗った。早く解放されたいからだ。
だが、責任者不在のままでだらだらとした自粛ムードが続くだろう。感染者が増えたとしても都道府県の自己責任となるだろう。そうなれば漠然と飲食業や観光業が悪いということになるに違いない。
千葉県ではカラオケクラスターができた。特定されることを避けてか「みなさんマスクをして大人しく歌を歌いましょう」と森田健作知事が訴えた。実に無責任な訴えだったが森田さんはもうじきやめてしまう。うちの近所にも昼カラが多い。こうした昼カラの目の前を通るたびに「潰れてしまえばいいのに」と思ってしまう。非科学的で単なる風評被害なんだということはわかっているのだが不安の持って行き先がないのでついつい近所の昼カラに当たってしまうのである。
こういうこともきっと各地で起こるだろう。
おそらく教養のある人は自分の中にある醜い差別意識や合理的でない感情をわざわざ表に出すことはないだろう。個人的なブログだからこそ言えることではある。だが、実際には「関係がなくてもいいから誰かにぶつけたい」という気持ちを持っている人は多いはずである。実際に匿名の風評被害はそうやって生まれる。具体的な対策を出してもらわないとこうした風評被害は決してなくならない。
宮城県の感染者は解除のタイミングで増えたようだが「完全にスルー」された。宮城県は財政的な裏打ちもない「独自の緊急事態宣言」を出したようだ。GoToとの関連が噂されるが検証されることはないだろう。補償できるお金はないので飲食店への時短要請などは出さないとのことだ。GoToとの関係が指摘されるとすれば愚策だがこれしかやりようがない。観光客が入ってくれば今度はきっと自粛警察の出番となる。
政治家は乗っかりたいが支援はしたくない。支援しても票にならない。彼らは単に成果が欲しい。成果が出ない面倒なことからは逃げ出したい。そしてそれを面倒なことを考えたくない有権者が「誰が総理をやっても同じだから」と黙認する。それがこの国の現在の姿である。
おそらく、責任者が明確でなく、誰も支援してくれない中で、実務者だけが必死になりという状態が始まるのだろうと思う。