河井夫妻が公職選挙法違反容疑で逮捕された。いろいろ怖いなと思うことがある。中でも一番怖いのが「法務大臣経験者が逮捕されたのにたいしたニュースに感じない」というある種の慣れだ。安倍政権の8年近くで大臣ポストが投げ売りされており「デフレ感覚」に陥っているのである。安倍政権は党内の安定のために国家威信を破壊した内閣として記憶に残るだろう。
いろいろ違和感のあるニュースだった。まず、なぜ検察はこのニュースが露見してから河井夫妻に手を出さないのだろうかと思っていた。黒川さんが守っているのだろうという憶測もあったかと思う。どうやら今年の初めに国会が始まりそれが終わるまで待っていたようだ。この時点で「検察が手を出さない」ことの違和感が先行し別の違和感に気がつかなかった。
ところが国会が終わると即座に逮捕状が執行された。その直前になって初めて自民党から離党し、二階幹事長が「たいした人ではないから影響がない」と言い放った。この時点で法務大臣として適任だったはずの人は小物認定されてしまった。
安倍総理は責任は痛感するとは言ったが責任を取るとはいわなかった。後になって安倍総理はライバルの溝手さんを嫌っていてそのために河井杏里さんを使ったのではないかという憶測まで出た。そこで「お金を使って勝たせよう」という発想も「あの総理ならやりかねないな」と感じられてしまう。「時の総理大臣が党のカネを使って私憤を晴らすはずはない」などとは思えないのである。
総理就任に尽力した恩人とその妻が「権力と関係がない人」になった瞬間にテレビの中の河井夫妻の扱われ方が一転した。記者たちが口々に説明責任を求めて謝罪を要求したのである。これは河井夫妻が極悪人であり社会の敵であるという印象をつけるためのテレビの演出である。一方でジャーナリズムの正義を振りかざしつつ、こうした人民裁判的な演出を本能的にやってしまうところにテレビの恐ろしさがある。
この180度の扱いの変化を見て、検察の起訴に大きな意味がありすぎるんだなと思った。マスコミは自分たちの判断で河井夫妻のやっていることが良いことなのか悪いことなのかということは決めない。世論を誘導すると結果責任が生じてしまうと考えるのだろう。だから全てを検察に委ねてしまう。
マスコミが広告枠を売るためには社会の敵が必要だ。検察の起訴がひとつのトリガーになっている。それはゴミ捨て場に捨てられた肉であり、屍肉としてつついてもいい「下りもの」なのである。ここから犯罪処罰とは関係がないメディアリンチが始まった。
黒川検事長問題の時に検察だけが基礎権限を持っていることが問題視された。ついでにマスコミ(産経新聞と朝日新聞)と検察との関係も問題になった。だが、依然マスコミは検察からの内部情報を中心にニュースを決めている。
こうした事情があるので、逮捕されると同時に「ただの河井さん夫妻」は憂さ晴らしのために「誰もが叩いていい池に落ちた犬」である。単なるなぶりもの扱いなので「元法務大臣」ではなくなってしまうのである。
だから元法務大臣が逮捕されたという衝撃が薄れるのだ。
我々の記憶はどこまでも書き換えられる。法務大臣な大臣には違いがないのだろうがだいたい一年ごとに取り替えられてきた。誰もがこのクラスの大臣が「総理の威光をかさにきた」だけの人だと知っている。有権者も知っているしおそらく官僚もそう思っているだろう。もはや我々は法務大臣がたいした人間だとは思っていない。後任の森大臣を見ていてもそう思う。迷走答弁を繰り返したが「おそらく法律を理解していない人なんだろうな」という印象がある。よく考えてみると彼女は弁護士資格を持っているのだが、もう誰もそんなことに気を止めることはない。
安倍総理は党内を安定させるために内閣人事を弄び、その結果大臣の権威を失墜させてしまった。後継の内閣がこれを回復するには長い年月を要するだろう。