先日から出し惜しみ論について考えている。社会主義体制下では出し惜しみが起き産出の効率が悪化する歴史の教訓を踏まえ、日本社会は資本主義自由経済の一部が社会主義化して効率を悪化させているのではないかという仮説を置いた。
今回はこれを裏から見てみたい。つまり自由主義が残ったセクターはどうなるかという問題である。
バブル経済が崩壊し日本では終身雇用が破綻した。過去の高い給料が維持できなくなったがこれまでの労働慣行が温存され首切りができなかった。当初は新人採用を抑え込むことで賃金と福利厚生を押さえ込もうとして失敗した。そこで「専門性の高い派遣労働者」という既存の制度に目がつけられた。もともと専門職を軽んじ総合職をありがたがる組織の日本人はこれをなし崩し的に拡大することで低賃金・熟練労働に派遣労働が認められるようになった。バブルが崩壊したのは1991年ごろだが、1996年には10業種が拡大され1999年には製造業などを除いて原則解禁となり2004年には製造業も解禁された。(毎日新聞)こうして高度技能労働を低賃金で使い倒し、調整をする人たちの制度を守るという社会主義的な素地が生まれたのである。本社で企画に携わる正社員はソ連でいう官僚のような人たちであると考えられる。このチェーンは政府にまで伸びている。
日本の大企業はこれまでのように「潰れては困る」という理由で政府から保護されている。金融機関にも12兆円以上の公的資金が注入されたとされているそうだ。(コトバンク・知恵蔵の項目)また、正社員も温情的な労働組合の元既得権益として守られている。例えば連合は正社員のための労働組合なので、神津会長が独自に与党側と協議して「誰の味方なのか」と野党の反発を受けたりしている。
一方で非正規雇用はこうしたセーフティネットからははずれ、社会の保護が得られないままで放置されている。彼らは自由主義経済のもとに置かれており国や社会からの恩恵は受けられない。これは「自己責任」とされている。つまり、フリーの人たちは自由を享受しているのだから社会に貢献することは当たり前としても社会システムに依存するのは甘えだという論が一般的だ。だが重要なのは実際の生産技術を持っておりそこからイノベーションを起こせるのはこの技能労働者だという点である。彼らはナレッジワーカーなので、サービス産業主体の世界では彼らがイノベーションのキーにならなければならないのである。これが疲弊することで日本は成長ができなくなった。
彼らの勤め先は公的に保護されているのだから、社会主義的な制約が働く。つまり、リスクをとってイノベーションを起こすよりも政府の指導に従っていた方がリスクが少なくラクなのである。わざわざ先行投資をしてリスクを取る必要はない。ライバル企業もそのような「危ない橋」は渡らないからである。結果的に産業全体が低賃金労働に依存するようになり、自由主義部分はますます低賃金労働に張り付くことになる。旧共産圏流に極端な例を挙げると、日本人はトラバントを作らされることになるだろうということになる。トラバントなら新しい技能を身につけなくても作れるだろうが、やがて世界からは取り残されることになるだろう。
制度を精一杯利用しようとする働く両親がわざと保育園の当選を辞退したり生活保護を受けようとしたり、生活保護を受けようとする生活困窮者は社会や政治家から大いに叩かれることになる。生活保護受給者を叩いていた片山さつきが私設秘書と称する人が自分の名前で商売をしていも、選挙中に公職選挙法に触れるような看板を放置してもお咎めはない。制度として準備されている生活保護を使うのは片山にとっては甘えだが、自分の行動は全て正義を実現するための正当な行為として容認してしまう。
同じように豊洲市場問題では明らかな搾取が起こっている。臨海部の土地開発や新銀行の失敗は真面目に働いていた市場の人たちの犠牲のもとで清算された。だがそれを非難する人はいない。さらに、今後この市場が赤字を垂れ流しても誰も責任を取らないだろう。つまり、自己責任は非難されても組織が社会に依存することはそれほど抵抗なく受け入れられてしまうのだ。財政が破綻寸前しそうになれば救済策が議論されることになるだろう。実際に非難されるのは生き残りをかけて築地に残りたい「わがままな目利き」と都が設定したルールを守らない「一部のわがままな業者」である。
しかし、こうしたマクロ的な問題に腹を立ててみても状況は良くならない。問題は複雑に肥大化したシステムそのものにある。システム同士が複雑に絡み合い、いったいどこに問題があるのかということがわかりにくくなっている。マスコミが散発的に炎上したところで問題は解決しない。社会主義や官僚主義が悪いというわけではなく、このシステムの複雑化が問題なのではないかと考えると、やっとイデオロギー的な対立に依存せずに問題が扱えるようになる。
現在の安倍政権は保守色が強いように思える。しかし、大きな政府を志向しているのか自由主義的な政府を志向しているのかがさっぱりわからない。実際にやっているのは、社会主義化しているセクターを守り制度を複雑化させていることだけだ。そして彼らが庇護しているシステムが生産性を失うと、制度を温存したままでその恩恵を受けることができない人を増やそうとする。つまり、誰かから奪ってくることで生き残りを図ろうとしている。派遣労働のなし崩し的な拡大と海外労働者の「輸入」は一続きになっているということになる。この裏で例えば研修生がシステムから逃げ出しているが、厚生労働省の統計では「高い賃金を求めて逃げただけのわがままな外国人」である。
システム全体が守られているのだから「一部の犠牲はやむをえないのではないか」と思う人がいるかもしれない。ところが実際にはこの依存傾向は拡大しつつあるところから、システムの縮小が続いていることがわかる。成人病が進行しているのである。このままでは海外からの人材獲得競争にも製品開発競争にも負けてしまうことになるだろう。
ここから導きだされる仮説は次のようなものになる。まずは社会主義的に作られたシステムを解放し、同時に行き過ぎた自由主義的のもとにある人たちに適切な保護を与えなければならない。これを同時並行的に行わなければならないのである。「混ぜてはいけないが相互にとりくまなければならない」ということだ。これを制度的にやっているのが本来のアメリカだった。これが二大政党制の本来の意味なのかもしれない。意外とよくできた制度だったのだ。
ここで大きな問題が起こる。自民党は自由主義政党とされるが一部で過度な社会主義的な政策を実行している。地方分権的な自由主義政党であったはずの維新もやっていることは万博の誘致や教育の無償化などの保護主義的政策をとっている。一方、野党はいったんは自由主義を目指さなければならないのだが、そのバックボーンは社会主義か社会民主主義なので一定以上の改革はできない。イデオロギーとやっていること、さらにやらなければならないことが複雑に混じり合い、日本の政党政治は身動きが取れなくなってしまっているように見える。
その意味では小沢一郎らが作ろうとした二大政党制は本質的に間違っていたことになる。日本人はその制度の意味を理解せず形だけを輸入しようとする。小沢らはイデオロギー的に混乱した自民党内部の権力闘争を野党にも拡大し、そこから抜け出せないままで政治人生を終えようとしているのかもしれない。