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自由主義と社会主義を混合するとどうなるのか

先日来、出し惜しみ論を考えている。理想的な自由主義社会では個人が幸福の追求をすることで社会が発展する。一方、社会主義化が進むと出し惜しみが起こり社会が衰退するという論である。当初は自由主義が行き過ぎると自己保身を図った労働者が出し惜しみをするのではないかと考えていたのだが、どうやらそうではないようだ。新自由主義で出し惜しみが起こるというような話は聞かないが、社会主義について調べていると出し惜しみの話がよく出てくる。

一見すると、日本で社会主義が進行しているとは考えにくい。もしそうなら社会民主党や共産党が大躍進しているはずである。実際に生産の現場では自由主義化が維持されている。しかし、その他の分野では社会主義化が進んでおり出し惜しみが起きているのではないかと思う。今の所出てきたのが保育のような福利厚生と賃金労働分野であるが、銀行なども国家が経営を保証することで国有企業化に近い保守的なマインドが生まれソフトな経済制約に似た状況がうまれているのかもしれない。

社会主義は失敗するがその理由はよくわからない

ソ連の誕生と崩壊は壮大な社会実験だった。ソ連の特徴は中央集権的な計画経済だ。産業発展の中期には集中的な資本投下が必要なので計画経済は著しい成果をあげるのだが、そのあとが続かない。ソ連では1960年代にはすでに問題が顕在化していたようである。恒常的な日常物資の不足が起きたのである。これについては相当研究が続いており膨大な知見があるようなのだが、実際には何が原因で生産機構が立ち行かなくなったのかということはよくわかっていないようだ。

原因の一つだとされているのがインセンティブの不足だ。つまり社会主義のもとではやる気がでないというのである。どれだけ働いても働かなくても給料は一緒なので誰もまじめに働かなくなる。起業家が一生懸命努力をしても努力をしなくても同じなので誰も努力しなくなるという。ただこの悪平等問題が社会主義を破綻させたという決定的な証拠もないということである。

これとは別にソフトな予算制約(コルナイ)ということをいう人もいる。社会主義体制下では資本主義のような倒産が起こらない。企業はできるだけ多くのプロジェクトを獲得し、投資資源を出し惜しみし、売れるかどうかに関係なく生産を行う。すると、結果的にすべてのものが足りなくなってしまうという。このソフトな予算制約説は日本にはゾンビ企業が多いから早く潰してしまえという主張によく使われており、安倍政権が登場した時にはリフレ論を攻撃するのに使われたりしていたが、その後金融改革派が衰退してしまい聞かれなくなった。

さらに官僚主義の問題を指摘する人もいる。経済が複雑化すると命令系統が長くなり肥大化する。それが非効率につながるという。命令系統の途中にいる人は失敗を恐れるようになるうえに、現場で何が必要なのかわからなくなり、全体として硬直化が起こるというのである。日本では「大企業病」などと言われる。市場というシステムと意思決定システムが切り離されて不具合が起きるのである。

適切な自由主義がうまくゆく理由

ソ連型の社会主義がうまく行かない理由はよくわからないものの「人は支持された通りには動かないかもしれない」ということと「計画を立てる人たちが肥大化する」ことがやがて生産性の低下につながっていることはわかる。このことから逆に考えると、自由主義がうまく行くのは需要と供給の決定が効率的につながっているからだということがわかる。一人ひとりの判断はわがままに見えても市場全体としては正当化されるのである。企業は利益を追求しようとして営利企業を運営し、労働者は自分の労働力が高く売れるところで就職して賃金を得るということだ。

ところが、自由主義は別の問題を引き起こす。自由主義もまた強者を生むのである。例えば企業は労働者より力が強いので労働者の自己選択は制限される。すると、企業は地位を利用して労働者を搾取するようになる。さらに大きな企業も特権的な地位を利用して中小企業を搾取するようになる。こうした地位の格差までを自由主義の一部として肯定しようというのがいわゆる新自由主義であり、格差をできるだけ少なくして自由主義をうまく回して行こうという社会民主主義があると考えられる。アメリカのように社会主義への抵抗が強い国ではリベラルなどと呼ばれたりする。

いいとこ取りは可能なのか?

このように共産主義も自由主義的資本主義も欠陥があるのだから「いいとこどり」をすればいいのではないかと思いたくなる。

日本では生産と賃金労働者には自由主義経済を割り当てている。生産者はものを作らなければならず、労働者は働かなければ賃金が得られない。ところがそれとは別に国に守られているセクターがある。中小企業は潰れるが大手や金融機関は政府に保護される。また国家プロジェクトも国二保証されている。ところが国や地方自治体のプロジェクトはいつの間にか肥大化する。

例えば豊洲新市場が移転に失敗したのも社会主義の行き詰まりで説明ができる。経営意欲も能力もない東京都が魚市場という自由主義的経済に片足を突っ込んだ結果大惨事を引き起こしたという事例だ。

築地市場が豊洲に移転したのは、築地が蓄積していた儲けを都の他の事業の失敗の穴埋めに使いたかったからである。背景にあるのは小説家出身の政治家がもっとも資本主義的なノウハウが必要な銀行事業に手を出した失敗の穴埋めという事情がある。都はその他にも臨海部の開発に失敗していた。そこで、銀座近隣にあり高く売れる見込みが高い築地の土地を処分して有毒物質が埋まっていてマンションが建てられないところに移転するという計画が建てられたのだ。

しかし、それでも建築さえうまくできればまだ見込みはあった。しかし、初期投資にも出し惜しみがあった。結果として、汚水が上がり、トイレが水浸しになり、壁にヒビが入り、床も抜けている。予算制約のある中で現場の意見を聞かずに建物を作ったのだろう。資産は搾取され、プロジェクト予算は過大に要求されるが、実際の支出は抑えられてしまう。都側は「床に穴が空いたのは業者がルールを守らなかったからだ」と言い訳をするのではないだろうか。つまり、都側の出し惜しみを利用者に転嫁し「わがままだ」と断罪するのだ。魚市場は自由主義的に作られた流通システムの一部なので誰も責任を取らず改革案も生まれない豊洲はこのままでは崩壊するだろう。だがこれを温情的に温存することによって都民はこれからも高い補填を迫られるだろう。この豊洲の問題は市場という限られた環境で起こっているので社会主義の失敗が見えやすい。

ところが、保育園の問題は全体が見えにくい。国が予算を割けば企業がそれにフリーライドする。しかし保育予算という費目ではフリーライドがわからない。実際には企業は人件費を削減し、保育という支出をどうするのかは父母の問題と考えられるからである。最終的にはかつては企業が正社員である夫の人件費として肩代わりしていた保育費用を税金で賄うということになってしまう。受益者は父母なので、消費税などの直接税で賄おうという話になってしまう。消費税を福祉目的税にという話に騙される人は多い。結局、企業が福利厚生から退出しているだけなのだが、子育てというと何かいいことのように感じられて反対しにくくなるからだ。

さらに、雇用確保のために企業を潰さないようにしようとして政府が労働市場に介入することになれば、さらに複雑な問題が起こるだろう。この上憲法が改正され高等教育が無償化されることになれば、実質的に国有産業化する。こうなると産業の発展も教育も社会主義化されることになるのだが、国が「介護に人が足りない」といえば、その労働者を育成する教育に予算が割り振られ、そこに「出し惜しみ企業」が参入し、システムが非効率化するというようなことが起こるようになるだろう。これが「弱肉強食」の新自由主義セクターと混合することにより、予測ができない事態が起こるものと思われる。それぞれのシステムについて計算する人はいるが、全体を計算する人はおらず、また「神のように万能」でない限り計算できる人もいないのである。

自由主義の一部混合で崩壊したソ連

日本は自由主義経済の一部が社会主義化しているという点で混合経済化が進んでおり、これが複合的な汚染を引き起こしている。実際に起こっているのは総合デザインなきシステムの複雑化だ。例えていえばやみくもに広がった石油コンビナートに設計図がないようなものである。どこで不具合が起きているのか誰もわからないのである。

この逆をいったのがペレストロイカだそうだ。ペレストロイカでは自由主義市場を作らないままで意思決定を分権化してしまった。このため部分最適化が起こり市場が不均衡を起こしたという。

具体的には中央計画経済が中止され何がどれだけ必要なのかがわからなくなった。その状態で企業が儲けを優先して高価格製品を中心に製造を始める。すると日用品が不足する。しかし、国営企業なので労働者が生活を維持できるだけの賃金を供給する。すると貨幣が余り品物が足りないという事態が起こり、結果的にインフレが起きたのである。

このため中国は経済を拡大する時に特区を作り地域を限定して市場経済を導入した。狭い範囲から始め、これを徐々に拡大することにより「混合による混乱」を避けたのである。ソ連の失敗から学んだのかもしれない。

現在の政治議論は日本の問題を解決できない

今回の出し惜しみ論の結論は出し惜しみは社会主義の結果であるというものだ。ここから一歩進んで「資本主義的経済と社会主義的経済を混ぜてはいけない」ということも見えてきた。人々は自分たちが関連するセクターしか見ていない上に、政治議論も「築地豊洲の問題」とか「保育所が足りない問題」など細分化されている。だから、本質的に部分最適化の議論しかできないようになっているのである。

政治家たちは自分たちは制度を作ってやっているのにこれがうまく働かないのは国民がわがままで出し惜しみをしているからだと考えている。そしてまた別の制度を作ったり、苛立ちから「人権を取り上げるぞ」などと恫喝して議論を混乱させている。

このように政治家はあてにできない。我々は一度立ち止まって現在の政治議論の対立構造から抜け出すために努力をすべきではないかと思う。

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Comments

“自由主義と社会主義を混合するとどうなるのか” への1件のコメント

  1. […] 以前社会主義の失敗を見た時にペレストロイカ下のソ連では高価格製品帯を作ろうとしたためにインフレが進行したという話を書いた。だがちょっとわからなかったこともある。つまりソ連は給料を政策的にあげることができたのに(お金は印刷して配るだけで良かった)なぜ人々は高いものを買わなかったのかという問題である。長年の耐久生活に人々が慣れてしまっていたからなのかもしれない。これは一企業の力ではどうにも変えられないし、政府が一つひとつの政策でマインドを変化させることもできない。総合的なメッセージが重要だったはずだが政府にはそれほど信用はなかったのではないか。 […]

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