共立てのケーキと別立てのケーキはどちらが作りやすくかつおいしいのか

共立てのケーキと別立てのケーキはどちらがおいしいのかが議論になる。初心者向きには別立ての方がよいとか、パティシエは共立てが多いなどの情報が錯綜しており定説がない。

結論からいうと「共立てができるなら共立てにした方が良い」と思う。共立だとコツさえ覚えれば簡単に泡だつ。ハンドミキサーも不要で意外と簡単なのだ。

今回は卵一個を使ってケーキを焼いた。最初はスポンジケーキLESSON―卵1個でちゃんと覚えるの指示通りに焼こうと思っていた。

「スポンジケーキLESSON―卵1個でちゃんと覚える」は共立てである。まず卵液を温めた上でハンドミキサーでかき混ぜてシロップを混ぜる。さらに小麦粉を入れて独特のやり方でよく混ぜるのある。実は卵液を温めるというのがポイントだ。鍋でお湯を沸かせて沸騰させてその上で卵をかき混ぜればよい。このやり方だとハンドミキサーを使わなくても十分に泡立てることができる。

あとは本に書いてある通りに「小麦粉を入れてからツヤが出るまで混ぜる」のを実践した。こねないで「の」の字になるように混ぜる。実はここでしっかり混ぜないと焼き上がりが硬くなり気泡が出る。バターは入れても構わないが入れなくても膨らむ。

手順さえ守ればきちんと膨らむ。要するに卵をよく温めて混ぜればよいのである。

後日同じ分量で別立てを作ってみた。卵黄だけでは水分が足りない。そこで卵白を入れるのだがこの泡は犠牲になってしまう。ということで共立ての1/2くらいしか膨らまなかった。過去の経験からべちゃっとしたケーキになるのかなと思ったのだが、口当たりはふんわりしていて口どけも悪くない。もし膨らませたいなら卵黄を入れた側に牛乳などの水分を足さなければならないのではないかと思う。

卵白だけの場合には砂糖さえ入れれば簡単にメレンゲのできぐあいがわかるので(力強く混ぜてボウルをひっくり返しても垂れてこないようにすれば終わりである)別立ての方が分かりやすいのだと思う。

卵液をきちんと混ぜることさえできれば、コーンスターチを入れたり、ベーキングパウダーなどを加える必要はない。別のウェブサイトにはレモンを入れろと書いてあった。この方が泡立ち易いのだそうだ。しっとりさせるためにはシロップを入れた方が良いようだが、これもふわふわなケーキを作る要件ではない。

スポンジケーキは単純な材料だけでできているのだが意外と奥が深い。いったんできてしまえば単純で簡単な作業の連続なのだが、そこに行き着くまでが意外と難しいようだ。

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日馬富士の引退

このエントリーは記録のために書いている。暴行問題が取りざたされていた日馬富士が引退した。貴ノ岩に暴力を振るったことは認めたが「指導の一環だった」し「これまでお酒を飲んで暴力を振るったことはない」と言っていた。

今までの同じようなことがあったかどうかはわからない。もしあったとしても「お酒を飲んで暴力を振るったことはありますか」と聞かれても「はい」とは言わないんじゃないだろうかと思った。これまでも「指導の一環として頭蓋骨が陥没するほど人を叱ったことがあるか」と聞けば、あるいは結果が違っていたかもしれない。

日馬富士の言葉の端々には「お世話になった」とか「育ててくださった」などというようなニュアンスが入っており表面上は日本の伝統である「謙譲さ」が身についているようだった。たまたま、安藤優子のコメントを見たのだが「日本精神をよく理解している」というようなことを言っていた。彼女としては善意なのだろうが、この人は本当は馬鹿なのかもしれないと思った。すでに国際化してしまった上に暴力行為が蔓延している相撲界で日本精神が押し付けられているのをみて何が楽しいのかと思ったからだ。が、普通の日本人ならば「ガイジンなのに日本のことがわかっていてえらいね」と思うのが。普通なのかもしれない。

足を怪我したらしくしばらく出てこれなかったデーモン小暮は「相撲界では指導のための暴力が必要だと考えている人が多い」というような意味のことを言っていた。つまり暴力は蔓延しているが、それを改めるつもりなどないということである。いわゆる「会友」と呼ばれる御用記者や自らも暴力に手を染めてきたであろう力士出身者には決して言えないコメントだったと思う。

ここで日本社会が発信しているメッセージは極めて単純だ。つまり、表面上日本の精神がわかったようなことを言っていれば、裏では何をしても構わないということであろう。その意味では日馬富士は相撲界が彼に対して持っている期待をうまく理解したがために、引退に追い込まれたのかもしれないなどと思った。

日馬富士が本当に「反省」していないことは、東京に戻って記者に対して「何もいうことはない」と言い放ったことで明らかになったと思う。しかし、国籍差別がある相撲界には残れないようなので、もう日本精神を遵守する義理はない。にもかかわらず彼を追いかけ回して「反省」を迫る記者たちに異様なものを感じた。彼らは読者の「日本にいるときには俺たちの文化に従い、集団リンチを受けても黙って耐え忍ぶべきだ」という、全く根拠のない期待に答えているだけなのだろう。これもとても気持ちが悪い。

今後の焦点は、これが当初から言われてきたように相撲界の権力闘争につながるかどうかである。もともと貴乃花親方は現在の相撲協会のやり方に反発しておりクーデターを企てたなどという憶測が飛び交っている。貴闘力が賭博問題で解雇されたことを恨みに思っているなどという憶測記事も読んだ。

表面上誰かを犠牲にして「更生した」ふりをしていると、それを恨みに思った人が報復に出る可能性があるということだ。もし今回の反省が形だけのことに終われば、今度は伊勢ヶ濱部屋が貴乃花親方に報復するということにもなりかねない。合理的な理由のある権力闘争だと思っていたのだが、もしかしたら狭い村の単なる遺恨合戦を村人根性が抜けない日本人が見ているというのが本当のところなのかもしれない。

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コンスタンティノープルからカラコルムに行くには何日かかったのか

ムガール帝国への興味からモンゴル人がどのように移動したのかを調べている。面白いことに中世の旅行だけを研究した本というものが出ている。誰が読むのだろうなどと思うのだが、たまに物好きな人がいるのだろう。

さてこの本の中に「アジアの旅」というセクションがあり、モンゴルへの旅について書かれている。1245年にイノセント四世が使節団を派遣した。この命令を受けたフランシスコ会のギヨーム・ド・リュブリキは1253年から1255年までモンゴル帝国を旅行した。

リュブリキは5月7日にコンスタンティノープルを出発し5月21日にクリミア半島に到達した。6月に旅行が始まり、7月20日ごろにドン川を渡った。8月5日にはボルガ川に到達し、9月27日にはウラル川(カザフスタンを通過して黒海に注ぐ)を通過する。途中有力者のテント(幕屋と書いてある)に逗留しつつ1254年の4月にカラコルムに向かったと書いてある。

当然パスポートなどはない(そもそも外交関係もない)ので有力者に旅行許可をもらいながら旅をしたということを考えても2年で帰って来れるというのはかなり意外である。

リュブリキは2年かけて往復しているのだがその距離は15,000キロ以上を旅しているそうだ。試しにGoogle Mapで検索してみたが、カラコルムからオデッサまでゆき、そこからフェリーでイスタンブールに行くと1320時間かかるそうである。1日8時間歩くとして165日だそうだ。ユーラシア大陸はかなり広大に思えるのだが、実際には半年かければ歩けるわけでやってやれないことはないような気持ちになる。

実際にユーラシア大陸を歩いて横断した人がいるようだ。この人のウェブサイトには、2009.1-2010.8ユーラシア大陸徒歩横断約16000キロと書いてあるので2年くらいかければ歩けるということになる。

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ロンドンで騙された話 – ジャージー代官管轄区

その昔ロンドンで「このコインは受け取れないよ」と言われたことがある。なぜかはわからなかった。後から見るとコインの表にはエリザベス二世女王の顔があるが裏面には見慣れない名前が書いてある。それが原因みたいだ。

スキャンだとよく読み取れないが「Bailiwick of Jersey」と書いてある。日本語ではジャージー代官管轄区などと訳されるようだ。よく、フランスに一番近いイギリス領などと説明されている、イギリスの南にある島である。イギリス王室がフランスにある領土を奪われたときに残ったようだ。

しかし、ロンドンでこのお金が通用しないところをみると、ジャージー島はイギリスではないのだろう。誰かがイギリスでは使えないお金を持っているのに気がついて旅行者である僕に押し付けたに違いない。イギリスを旅行するときにはコインには気をつけたほうが良さそうであるが、慣れないお金だといくらだかわからないし、瞬時に判別するのは難しそうだ。今の価格でいうとだいたい七円程度の詐欺である。

外国旅行から帰ってくるとコインがたまるのだが捨てるのはもったいない。かといってスクラップブックに入れて整理するほどマメでもないのでそのまま紅茶の缶に入れて死蔵してある。そのうちにドイツマルクのように使えなくなってしまったコインもあった。そこで、とりあえずそれをスキャンしてデジタル保存することにした。そうい昔のお金を見ているうちに、騙されたことを思い出したのだ。

さて、ジャージー代官管轄区だが、ここは正確にはイギリス領ではない。イギリス王家が私的に管轄する領地ということである。だからイギリスの法律は通用しないし、EUの一部でもないということだ。外交や防衛についてはイギリスが管轄しており、パスポートコントロールもイギリスと共通なのだという。イギリスの法律や税制の管轄外なので租税回避地として知られている。パナマ文書で有名になった租税回避地だが、イギリスがこのような悪知恵を思いついたのはこのような伝統を持っているからなのだろう。

面積を調べてみたがジャージー島は意外に大きいらしい。小豆島の2/3程度の大きさがある。小豆島の人口は23000人程度なのだが、ジャージー島には95000人が住んでいる。当然議会もあり最近では内閣や政党もできたということである。

今ではロンドンからは格安航空を使うと10,000円前後で往復できるということだ。また、ロンドンから車を借りてフェリーで移動するルートがある他、いったんドーバー海峡を渡ってフランス側からフェリーで移動するルートもあるのだという。

この通貨はジャージーポンドと呼ばれる。ジャージー島の中ではジャージーポンドとイギリスポンドが使えるが、イギリスではジャージーポンドは利用できないそうだ。

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モンゴル人はどこからインドまできたのか

ムガル帝国関連の遺産の写真を見ているうちに、ムガル帝国がモンゴルという意味だと知った。もともとフェルガナ盆地で生まれたバーブルが紆余曲折を経てインド北部まで降りてきたのである。そこで、どのような経路を伝って降りてきたのかを調べてみた。

バーブルはまずサマルカンドに行く。そして、そこからカブールを侵攻し、そのあとでデリー近郊まで降りてきてインドの豊かさに驚いたとされる。その途中経過はよくわからないが、現在の道を伝って行くとだいたいえんじ色で書いたような経路が浮かんでくる。

ポイントになっているのはアムダリア川である。この川が北方にある世界とその南側を分けているそうだ。近代になっても、北部はソ連が支配し、南部はイギリスが支配した。この川を超えてソ連が侵攻してきたことでアフガニスタン情勢は泥沼化し現在に至る。

バーブルはカブールからまっすぐ故地には帰らず、ヘラートに寄り道をした。厳しい山道だったという記録が残っているようだ。ヘラートをまっすぐに進むとペルシャに出る。現在、アフガニスタンの治安は極端に悪化しているがそれでもカブールからマザリシャリフを経てヘラートにゆきそこからイランに行った人の記録があった。アフガニスタンは内戦で荒れており厳しい山岳地帯が続くので飛行機で移動するのが一般的なのだそうである。

なんとなくものすごく寒そうな地域なのだが、実際には東北地方くらいの緯度に当たる。ここより南に行くと乾燥が進み、北に行くとステップになってしまうという絶妙な地理条件の地域である。各地の勢力が支配者になりたがる気持ちもわからなくはない。現在でもウズベキスタンでは、米・小麦・大麦・とうもろこしなどが取れるようだ。ただし、綿花栽培のために大量取水を行ったために水がアムダリア川を流れなくなり、アラル海が縮小した上に塩害がひどいことになっているそうだ。

この地域に雨は降らない。インド洋からの雨は山岳地帯にぶつかってしまうのだろう。だが、山に積もった雪が川になって流れることで、この地域が潤い農業に適した土地が広がっているのである。

この地域より北にはカザフスタンが広がっているのだが農地の70%は牧草地として利用されているそうである。

この地域にはキリギスとタジキスタンがあるのだが、山岳地帯のようでこうした民族の経路とは外れている。なおタジキスタンに住んでいるタジク人はペルシャ系だ。モンゴル人が侵入してきた時に山岳地域にいた人たちが残ったのかもしれないと思った。

さて、なぜそもそもこの地域にモンゴル系の人たちが住んでいたのだろうか。チンギスハンについての項目を読むと、和平を求めて現在のシムケントまでやってきた使者が現地の支配者に殺されたのが直接のきっかけのようだ。シムケントが入り口になっているということになる。この地域を席巻し、さらにアムダリア川を遡りウルゲンチあたりまで遠征しているようだ。

では、チンギスハンがどこから来たかというと、もともとはバイカル湖の付近にいた人たちだということである。ここよりも寒い場所にいて寒地適応のために平たい顔になったのだが、それが南下してモンゴル高原にゆき、そこから南下して中国を支配したり、西進してロシア、ヨーロッパ、ペルシャ世界を席巻したことになる。

このようにしてみると農業を生業としている人たちはそれほど遠くに行かなくても食べて行けるわけで、世界帝国を作ろうなどという野望を持たないのかもしれない。モンゴルの人たちは厳しい条件を移動するために馬を乗りこなしたりしていたために、軍事的に差がついたのだろう。

しかし、遊牧の人たちはわざわざその地域で腰を据えて農業をやろうなどとは思わず現地とそれほど同化せず、現地の文化になんとなく影響を与えつつ同化して行ったのではないだろうか。

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デリー・アグラ近辺のイスラム建築の写真を整理する

いつもの政治経済ネタとは全く関係がないのだが、昔行ったインドツアーの写真を整理することにした。このブログに掲載したのは単に他にハコがないからである。だから政治ネタに興味のある人は読み飛ばしていただきたい。

航空券とホテルの一部だけを予約して行ったのだが、ツアーは現地のものを利用した。英語のツアーがたくさん出ているので、ツアーを見つけるのにはそれほど困らない。ついでにインドは安宿も多いので宿泊先に困ることもそれほどない。ただし、長距離鉄道は安いので予約が埋まりやすい傾向にある。事前の予約をお勧めする。

現地のツアーを利用したのは良かったのだが、ムガル朝の歴史に詳しくないためどれも同じに見えてしまい、帰ってからどこに行ったのかがわからなくなってしまった。そこで時系列に整理することにした。もしかしたら日本に外国人にとってはお城もお寺も同じように見えるかもしれない。お墓も御所も同じように見えるのではないか。整理できるようになったのはグーグルのイメージ検索のおかげだ。写真をアップすると場所を特定してくれるのである。

整理してみると、意外にムガル朝の歴史を網羅していることがわかる。知らないって怖いことなんだなと思った。市内ツアーは200円で1日がかりのアグラツアーは2,000円弱(朝飯と昼飯付き)である。それほど高くはない。現在の価格を調べてみたがそれほど値上がりはしていないようである。

ムガル帝室はこの地域に進出してから、アグラとデリーの間を行ったり来たりしている。アグラとデリーの間は230kmほど離れているのだが、どちらもヤムナ河沿いにある。この両都市にジャイプールを加えるとちょうど一辺が200km強の三角形になり一週間程度で回れるコースができる。地図で調べるとヤムナ河とガンジス河に囲まれた地域が平原になっており、農業に適した土地だったのではないかと思われる。ムガル帝国はこの地域に目をつけたのだろう。

ムガル帝国

中央アジア出身のバブールによって成立した。父親はモンゴル系のチムール朝の王族で母親はテュルク・モンゴル系の遊牧民族だった。バブールは中央アジアからインドに移ってインドで帝国を作った。ムガル朝はイギリスに滅亡させられるまでの間、モンゴル系統のチムールの末裔を主張していたとのことである。ムガルはモンゴルの意味を持つペルシャ語系の他称だそうだ。

バブールが生まれた地域は現在のウズベキスタンに当たり、ムガル朝はよそから来た他民族王朝だったことがわかる。ただしその系統は複雑である。前身であるチムール朝はモンゴルの後継だったが、言語はすでにトルコ語化していた。これをチャガタイ・トルコ語と呼ぶそうである。しかしながらムガル朝はフマユンが一時ペルシャに逃れたこともあり建築などにペルシャ様式を残した。だからムガル帝国の公用語はペルシャ語だった。さらにチムール朝の前身はチャガタイ・ハン国だったが、これはトルコ・イスラム化したモンゴル系国家だった。チャガタイ・ハン国のイスラム化は徐々に進展した。

つまりムガル朝時代のインドはモンゴルの伝統、トルコ系の伝統、ペルシャ系の伝統が複雑に入り混じってできたものだと考えられる。今でも中央アジアにはイラン系の白人とトルコ系、モンゴル系のアジア人が入り混じった他民族国家が多くある。

インドとイスラム

インドというとヒンディ語という印象があるのだが、ムガル帝国の歴史を見るとわかるように史跡はほとんどペルシャの影響を受けたイスラム様式である。ただし、イスラム教そのものはペルシャ経由ではないという複雑さがある。一方、デリー近辺にいるヒンディ語を話す人たちにも「ヒンディ人」という民族意識があるわけではなく、単に言語によって民族を規定しているような状態になっているそうだ。彼らはムガル朝より前にペルシャあたりから東進・南下してきたアーリア系の子孫が現地の人たちと混血してでき他民族だと考えられる。この混血具合が違っており、現在の複雑なカスト制度ができている。

デリーで最初に宿泊した土地にはモスクがあり早朝からコーランがスピーカーで鳴り響いていた。朝の暗いうちからお祈りで出てくる人がおり、彼らを目当てにチャイとトーストを振る舞う店がある。インドはイスラム系のパキスタンとヒンズー系のインドにわかれたのだと教科書で習っただけだったので、これは少し意外だった。

重層的なデリーの街

デリーは古くからイスラム系勢力の支配地域だった。その最初は「奴隷王朝」という聞いたことがあるような名前の王朝だ。しかし勢力は安定せず帝国と呼べるような国は出なかった。

デリーとその近郊には緑豊かな平原が広がっている。これはガンジスとその支流のヤムナによって作られたものである。山がなく緑が多いので農業に適した土地が広がった豊かな場所だったことがわかる。ここから200km西に行くとラジプタン州になるのだが、ここは砂漠地帯である。しかし、さらに南進するととても暑い地域が広がっており、さらにガンジスの下流域では洪水なども起こったのではないだろうか。

さらに、ペルシャや中央アジアからインドに来ると必ずこの地域を通るので交通の要衝でもあったのだろう。そのため度々他民族から侵攻された。

幾つかの小さな王朝が攻防を繰り広げた後、最終的にムガル朝の本拠地となる。イギリスが支配を始めた時の中心都市はコルカタだったがやがてデリーに移ってインド支配を本格化させた。イギリス時代の建物はムガル朝の首都よりやや南にありニューデリーと呼ばれている。ただしニューデリーができたのは比較的新しく20世紀に入った1911年のことだったようである。

旧デリー市街はゴミゴミと活気のある町並みなのだが、ニューデリー地域は広々とした空間に建物が広がっている。この写真では向こうの方にかすかにインド門が見える。

かつては地下鉄網が発展していなかったために空港から市街地に出るのは一苦労だった。ガイドブックには「市街地に行くのに騙されないようにするにはどうしたらいいか」というページがあったほどである。のだが、最近では地下鉄が整備され旅行が安全になった。ニューデリー駅の近くには安宿が点在しており予約なしでもそこそこのホテルに泊まることができる。ただし、女性には性被害が頻発しており昔よりは一人旅が難しくなっているかもしれない。

フマユン廟

ムガル帝国2代皇帝フマユンの墓として作られた。フマユンはいったんペルシャに逃れた後、北インドに戻りデリーとアグラを征服したのち1556年に亡くなった。

ペルシャの王朝はサファヴィ朝でありもともとはトルコ系だったということである。サファヴィ朝は、その成立過程で宗教的に先鋭化し、スンニ派からシーア派になった。その後イランは今でもシーア派が主流の地域になっている。そしてその影響を受けたムガル帝国もシーア派化した。ただし、現在のパキスタン・インドのイスラムはスンニ派だということなので、帝室の伝統は必ずしも現地のイスラム教の伝統とはならなかったようだ。

このお墓はアクバル大帝の時代になってペルシャ出身の皇帝母によって建築されたのでペルシャ式になっている。この頃からムガル帝国はペルシャ語化してゆく。

1857年にムガル帝国が崩壊した時、最後の皇帝パハドゥル・シャー二世がフマユン廟に逃げ込んだところをイギリス軍に捉えられ帝位を剥奪された歴史もあるそうだ。

フマユン廟は地下鉄駅から離れているのでツアーを使ったほうがよさそうだ。近くにハズラト・ニザーム・ウッディーン(ハズラト・ニザムディン)駅という国鉄の駅がありアグラに行く新しい急行列車ガティマン・エクスプレスが出ている。

通常、アグラやジャイプールに行くにはニューデリー駅からのシャタブディ・エクスプレスを使うのだが、朝が早いのでこちらのほうが時間的には便利なのかもしれない。(写真はニューデリーを出発してジャイププールジャンクション駅に着いたシャタブディエクスプレス。この後、アジメールまで向かうのでアジメール・エクスプレスと呼ばれる。)

急行列車はかなり人気なので、チケットは前もってとったほうが良い。数日の余裕をもって行動したほうが良さそうだ。なおインドには特急というクラスはないようで、すべてエクスプレスと呼ばれているようだ。

アグラ城塞(アグラ城)

デリーからアグラへ遷都するのに皇帝アクバルが築城し1573年に完成した。その後3代、シャー・ジャハンまで皇帝の居城だった。シャージャ・ハーンの息子アウラングゼーブが重病(催淫材の多量服用が原因とされるそうである)の父親を幽閉したのちデリーに移った。

今でもアグラ城からタージマハルを眺めることができる。

門には文字が書かれているのだが多分コーランなのではないかと思う。お墓に経文を彫るようなものなのだろう。

アグラ城塞とタージマハルは駅(アグラ・カントンメント)から離れているので、ツアーを使ったほうが良いように思える。アグラ城とタジマハールも若干離れている。デリーから出発する日帰りのツアーも探せるし、特急を使えば1日で帰ってこれる距離である。

シカンドラのアクバル廟

アクバル1世はフマユーンの子供として生まれたのち、宰相から権限を奪い皇帝権を確立した。日本でいう徳川三代将軍みたな感じの人らしい。

帝国領域が拡大し非イスラム教徒が増えたため人頭税を廃止して税制を改革した。この後ムガル朝の最盛期になるのだが、アウラングゼブが再び人頭税を復活させた後、治世が安定しなくなり崩壊に向かった。

アクバルは1605年にアグラで亡くなった。ちょうど関ヶ原の合戦のころの人ということになる。

なおこの建物はアグラ中心部から10kmほど離れたシカンドラという街にある。アグラは公共交通が発達していないので現地でツアーを利用したほうが良いと思う。

ホールのボタニカルな文様は鮮やかで見ごたえがあるが、墓室そのものは質素なものだ。

タジ・マハル

シャー・ジャハンが妻のムムタズ・マハルのために建てたお墓。タジ・マハルは建物の名前ではなく皇妃の名前が省略されたものだそうである。

1632年に着工して1653年に完成した。ムムタズ・マハルは14人の子供を産んで36歳で亡くなったということである。夫が元気だったので大変だったのだろう。

シャー・ジャハンは放蕩の末、息子に幽閉されて居城からこの墓を見ながら亡くなったという。丸屋根の高さは53mだそうだ。周囲の尖塔は42mということで遠くからでもはっきり見ることができる。

この建物の向こうにヤムナ河が広がっており、河を挟んでシャー・ジャハンの墓を作る計画があったそうだ。

レッドフォート(ラール・キラ)

別名はラール・キラー。ムガル帝国五代皇帝シャー・ジャハンがアグラから遷都してデリーに居城として築いた。1639年に着工し、1648年に完成した。シャー・ジャハーンは重病となりアグラに帰り、その後息子(アウラングゼーブ)に幽閉された。

最初の写真が城門にあたり、次の写真が皇帝が謁見した建物だそうである。

アウラングゼーブ帝は父親のように幽閉されることはなかったが、晩年自分も同じように息子から廃位されるのではないかとか、息子たちが争うようになるのではないかと思い悩むことになる。

その予想は半ばあたり、息子たちが争うようになる。この後ムガル帝国は緩やかに衰退してゆくことになった。

レッドフォートは珍しく地下鉄駅が近くにある。バイオレットラインのラール・キラ駅が最寄りだが、チャンドニ・チョウク駅からも歩いて行けるくらいの距離だ。チャンドニ・チョウク駅からはジャマ・マスジッドにも行くことができるくらいの距離感である。この地域はオールド・デリーなどと呼ばれている。

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100円均一のリーディンググラスと老眼鏡の違い

年齢がいくと近くの小さな字が読みにくくなる。図書館など公共の場所では老眼鏡を借りることができるのだが「え、そんなに若いのに老眼鏡なんか使うんですか」などと真顔で言われることがある。さらに小さい字が読めないからカードの裏面の注意書きを読んでくれなどというと露骨に嫌な顔をされたりする。老眼というのは老人のものだと思われているのだと思うが、とても傷つく。

そこで老眼鏡を使ってみようということになるわけだが、最近では100円均一でもリーディンググラスと呼ばれるものを売っている。老眼という言葉に抵抗がある人でも気軽に手に取れるようになっているのだろう。だが、100円のものを使うと却って目に悪いのではないかなどと思える。

100円均一のものには明らかな欠点が2つあった。一つは焦点距離だ。目に問題がない時にはあまり気にしなかったが眼鏡には焦点距離というものがある。今は普通の老眼鏡を使ってパソコンに向かっているのだが焦点距離の幅が広く30cmから70cmくらいまでは対応している。別のものを試したところ50cmはきつかった。ものによって焦点距離に違いがあるようだ。

ということなので、老眼鏡なりリーディンググラスを買う時にはあらかじめパソコンや読書の環境などでどれくらいの距離で文字を読んでいるかを知っておいた方が良いと思う。

いずれにせよ100円均一のものは焦点距離が狭めに設定してあるようで50cmだとちょっとつらい。リーディンググラスということで読書の距離に特化しているのだろうがパソコン画面などだと30cmは少し近すぎる。例えば21インチモニタだと50cmは離れている。

もう一つの問題点はフレームの問題だ。100円均一はつるが安い作りになっているようで耳に当たる感覚がある。が、これは安いので仕方がないなという感じだ。

100円均一の老眼鏡はポリカーボネートでできているので傷がつきやすいのだと思う。だが普通の老眼鏡でもガラスに傷が入ったりすると見にくくなる。だが傷が入ったとしても100円なので気軽に交換することができる。さらに、店員に邪魔されることがないので、自分の度数がどれくらいなのかということを心ゆくまで試すことができる。眼鏡屋さんに入ると検眼されたり、たかそうなものを押し付けられそうな懸念があるので、自分で勝手に眼鏡が探せる気楽さは捨てがたい。

なお、本格的な老眼鏡は5000円くらいから手に入るようだ。1500円くらいで遠近両用のものを売っているのだが、レビューを読む限りでは境目が不自然で使いにくさもあるらしい。

いずれにせよ頻繁に着脱が必要になるので、できれば100円均一にはリーディンググラスチェーンのようなものをおいて欲しいと思う。

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なぜ安倍真理教の人は平気で嘘がつけるのか

面白いツイートを見つけた。こういうのは本当に調べ物の役に立つ。


実際に薬物を投与されている可能性もあるわけだが、人は脳内で薬物を利用している。それが脳内ホルモンである。そこで嘘つきとホルモンで検索をすると、イスラエルの学者らによる研究について言及している記事を少し見つけた。要約すると次のようになる。より詳細なまとめもある。

  • オキシトシンという親密さと関係しているホルモンがある。
  • このホルモンが多くあると、チームのために平気で嘘がつけるようになる。
  • が、個人の利益のために嘘をついているわけではない。

オキシトシンは愛着を感じると多く分泌されるが、外から投与することもできる。そこで、オキシトシンを投与してチームプレイのゲームをさせたところ、投与したグループの方が嘘が多かったということである。

つまり、安倍政権の人たちは組織のことを大切に思っていて仲間を守るのに必死になっている可能性があるということになる。伝統的な日本の価値観ではむしろいい人たちなのだろうということだ。若干問題なのは彼らが嘘をついているのが日本国民だということだけだ。彼らは「一般の人たち」を守るために嘘をついているのだが、安倍政権を攻撃する人たちは「敵」に見えるのだろう。が、身内を守ろうとすればするほど、敵が増えてしまい、結果的に何も言えなくなってしまうということになる。

いずれにせよ組織防衛のために嘘をつく人は、嘘についてそれほど罪悪感を感じていない可能性がある。それは仲間を守る良いことであって、決して悪いことをしているつもりはない。悪いのは、親密な関係を崩そうとしている敵であり、彼らにとっては朝日新聞、毎日新聞、東京新聞などは、もはや一般紙ではなくテロリストと同列の破壊者なのかもしれない。

このような事情を含んで共謀罪関係の話などを聞いていると、彼らの心理が少なからず見えてくる。今、共謀罪が「一般人」を対象にするかということが問題になっているが、彼らにとっては政策の批判者であったとしても敵なのだし、自分たちの仲間を大切にするために、国民の財産を処分することもよいことなのかもしれない。つまりもはやニュートラルな一般人というものはありえない。敵と味方なのだ。

逆にテストステロンを投与されると嘘をつかなくなるという研究もあるそうだ。こちらは男性的な競争に影響しているので、内部の同調性は少なくなるのだろう。

まあ、この研究が直接安倍政権の嘘と関連しているかどうかということはわからないわけだが、いずれにせよ「倫理」で政治を語らない方がよいのかもしれない。何が「善いか」というのは人によってこれだけ変わり得るからだ。

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大麻と共謀罪

共謀罪は政権に悪用されるだろう、が

テレビでニュースを見た。共謀罪法案への反対を訴える学生っぽい女性が「このままでは日本はめちゃくちゃになる」と言っていた。顔が歪んでいたので本当に心配しているのだろう。政治家が一般の市民にここまでの不安を与えるというのはとても罪深いことだなと思った。と、同時に日本が共謀罪で無茶苦茶になることはないだろうとも思う。
日本人には独特の政治的姿勢を持っている。まず、理論や理屈などにはあまり関心を持たない。しかし、利益を独り占めすることだけは「絶対に許さない」ので「自分の利益を削っても相手を困らせよう」とする。もしかしたら(というよりかなり確実に)共謀罪法案は政権によって悪用されるだろうが、多分大方の日本人は法的安定性などというものはそれほど気にかけておらず、誰がが捕まったとしても「何か悪いことをしたに違いない」と思うだけだろう。
日本人はあまり論理を気にしないといわれても「自虐的だ」と思われるだけかもしれない。ここで極端な事例について考えてみたい。

絶対に吸ってはいけない大麻

田中聖という歌手が大麻取り締まり法違反容疑で捕まった。捕まった途端に「大麻は絶対にいけない」とテレビで連呼するいわゆる「識者」の人たちが多かった。しかし、のちに「あれは自分の車ではないから所持していたかどうかは証明できない」ということになり、無罪放免となり、拳を振り上げていた識者たちは「なんだかがっかりだ」というようなコメントを出した。一つだけ言えるのは、彼らは大麻がなぜ悪いかを知らずに、田中さんを叩いていたのだということである。
スポニチによると松本人志は次のように言っている。

松本は田中の逮捕について「警察の勇み足的な部分もあったのかな」と感想を述べたうえで、「このニュースで、大麻って吸っていいんだ!と思わせてしまった。変な暮らしの豆知識を与えてしまった」と指摘。「(極端に言えば)後輩とかマネジャーとか知り合いに大麻を持たせておいて、吸わせてもらったらいいわけでしょ?そんなことを教えてしまったなと。逆に、吸ってなくても自分の指紋なりが付いた袋から大麻が出てきたら、俺逮捕されちゃうんだ!っていう、何とでも落とし込めるのもちょっと怖い」と法律の抜け穴に首をひねり、「おかしい、矛盾してるわ」と納得いかない様子。「大麻はあかん!って言っていた我々がアホみたい」と釈然としない表情だった。

もともと日本では大麻は禁止されていなかった。これが禁止されたのはGHQの要請によるものと言われている。理由は単純で、アメリカでは大麻が禁止されていたからである。ではなぜアメリカで禁止されたのかということなのだが、タバコ産業のロビーイングの成果であるという説がある。さらに日本の輸出産業を壊滅させる目的だったと指摘する人さえいる。これらの説の真偽のほどはともかく、常習性のある薬物のうちで大麻だけが禁止されてしまった。
一方、同じ有害植物であるタバコは政治家に守られている。健康への被害が深刻だということはわかっていて、西欧先進国では軒並み厳しい規制がかかっている。ハフィントンポストのこの記事を読むと、自民党の及び腰や世界標準のズレがわかる。

内心の自由ならぬ「内肺の」自由

いずれにせよ、日本で大麻を吸っていいのは、日本では麻はありふれた植物だったからだ。つまり、どこにでも自生する可能性がある。ということでわざわざ吸う人はいないにしても、雑草として燃やした時に空気を吸い込んでしまうことがあり得るのだ。つまり大麻は吸っても罪にはならないことになっているのにはそれなりの理由がある。共謀罪風にいうと「普通の人が共謀罪の対象にならない」というのが嘘なら「普通の人が大麻を吸うことは絶対にない」というのも嘘なのだ。松本さんが「大麻って吸っていいんだ」という認識を持ったとしたら、それはとても正しい。大麻は誰の肺からも検出される可能性があるが、表沙汰にならないのは大麻の抜き打ち検査が行われることなどないからである。
大麻は自生している。北海道が90%を占めるそうで、もともとは国策によって広まったそうだ。国策だったのは、大麻が有効な輸出品だったからである。つまり、絹などと同じ位置付けだったのだ。アメリカはナイロンなどの化学繊維を生産していたので、日本から輸出される安い自然繊維を脅威と感じていたのは間違いがない。いずせにせよ、北海道には今でも大麻が自生しており、これを刈り取って捕まる人が時折いるという。

大麻、タバコ、酒のうちなにが一番罪が重いのか

大麻が健康に被害をもたらすことは間違いがない。が、これはお酒も同じである。もしお酒が禁止されていたとしたら、みんな隠れて飲むことになるだろう。当然質の悪い密造酒ばかりになるだろうし、密売ルートに関わるうちにもっと「ヤバいもの」に手を出す可能性も高い。さらに、中毒症状を起こしても医者にかかることはできず(かかると捕まるので)中毒症状は増して行くことになるに違いない。実際にアルコール中毒というのはかなり深刻な状態なのだが、禁止しろという人は誰もいない。管理したほうが、結果的には健康被害が抑えられることがわかっているからだ。
タバコ・酒・大麻の中でどれが一番罪が重いだろうか。大麻で健康が蝕まれるとしても(健康によいという主張をする人もいるようだが)それは自分だけの問題である。鎮静効果があるので「ダウンした」気分になるそうだ。お酒の場合には気分が高揚して相手に乱暴を働くことがある、家庭内暴力の多くにお酒が絡んでいるのはそのためだ。周りに迷惑をかけるという意味ではお酒の方が罪が重い。さらに、タバコも周囲を巻き込む。副流煙被害によって健康を害する人が出てくるのだ。ゆえに他人に迷惑をかけるという意味ではお酒やタバコの方が罪が重いと言える。
にもかかわらず、大麻がこれだけ厳しく規制され、タバコは年齢制限こそあるものの野放し状態になっている。論理的にはまったく説明ができないが、それを気にする人はいない。日本人は論理をそれほど重要視せず「法律違反だから悪いことだ」と考えてしまい、単純に「悪い人は排除しよう」と思ってしまうからである。
大麻の場合には警察のお仕事になっているので、これを解禁すると警察で仕事をなくす人がでてくる。だから、解禁できないのだという説さえまことしやかに囁かれている。一方で、タバコが野放しになっている理由も中小の飲食店がタバコを吸う場所を提供するということで成り立っているからだろう。結局、現状が誰かの利権につながっていて、それを変えることが難しいというだけの話なのだ。

政治について語ることが悪いことになる時代がやってくるかもしれない

共謀罪もこれと同じようなことになるだろう。警察にしょっ引かれたからあの人は何か悪いことをしたに違いないということになるだけで、一般の人たちはさほど関心を持たないはずである。なぜならば、そもそも政治に参加しようなどという気持ちはないからである。
多分、共謀罪の一番の問題は、内心に踏み込んでしまい法的体系をめちゃくちゃにしてしまうということだと思うのだが、多分国民にとって一番大きな問題は「政治について話すことは悪いことだ」という意識が定着することだと思う。それは大麻を吸うような場所に出入りするのは悪いというのと同じ話だ。タバコを吸う喫茶店に出入りしても社会的に抹殺されることはないが、大麻を吸う場所に出入りするのは「ヤバい」ことなのだ。と同じことが政治にも起こりかねない。
これはいっけん政権にとって都合がよさそうに思えるが、日本人は誰かが利権を独り占めすることだけは絶対に許さないので、誰も政治に関心を持たないが、バッシングだけはひどくなるという状態が生まれるのではないだろうか。誰も政治については表立って話さないが、バッシングの時だけは一致団結するというような社会になるのかもしれない。
 

日本人を褒められますか?

最近、毎日のようにQUORAに投稿している。日本関係のことだとあまり調べ物をしなくても書ける。レコメンデーションシステムがあり、書き込んだのと同じトピックの質問が送られてくる仕組みになっているので、同じようなものを回答し続けることになる。Upvoteというシステムがあり「良い答えだ」とおもったらupvoteしてもらえるので、ちょっとした励みにもなる、また、英語でこれは何というのだろうということも調べられるので、ノンネイティブとしては英語の勉強にもなる。割といいことが多い。
外国人の日本についての質問には幾つかの特徴があるのだが、韓国人や中国人と比較して日本人はどう優れているかという質問が多い。どうやら三カ国がお互いに対抗意識を持っているということはうっすら知られているようだ。だが、外国人から見るとみんな同じに見えるので、対抗しているのが不思議に思えるのかもしれない。
日本の膠着しているシステムについて愚痴っている投稿などもあるが、わざわざ外国人に愚痴っても仕方がない。こうなると日本人を褒めたいわけだが、日本人を褒めるのはなかなか難しい。三ヶ国の違いがわからないと褒めたり貶したりということができないからだ。いろいろなやり方があるだろうが、日本人の特徴として次のような項目を利用している。

  • 人間関係が比較的フラットである。
  • 優しくて穏やかで相手の気持ちを思いやる。
  • ものの言い方が控えめである。

さて、これを使って日本人を褒めるわけだが、日本人を褒めて韓国人をけなすのは大人気(おとなげ)ないので「どちらもいいところがありますよね」などということになる。ポリティカル・コレクトな答えだが公共空間では無難な線だろうし、説得力が増す。
つまり、日本人は控えめな言い方をするが、韓国人は開けっぴろげで正直であると書くと受け入れてもらいやすいように思える。これは、日本人と韓国人には違いがあるがどちらが優れているというわけではありませんよということだ。つまり、どちらにもいいことがあるわけだが、同時に日本人の美点はよくない出方をすることがありますよということでもある。
日本人は直接的な言い方を好まず、あまり自分の本心も打ち明けない。これを控えめという言い方もできるが、友達になっても距離があるという言い方もある。これに悩んでいる外国人は多いらしい。つまり、日本生まれで日本人の血統を持っていないと「日本人扱いしてもらえない」と感じている人はかなり多いらしいのだ。アニメやその他の日本文化が好きで日本にやってきたのにいつまでもお客様扱いされているという不満を抱えている人もいるし、アジア人の中には外人扱いすらしてもらえないと嘆く人もいる。
いずれにしても、もし「日本素晴らしい!」と思うのだったら、外国語で日本について説明できるようにしておいたほうがよいだろうし、そのためにはある程度仕組みを理解する必要がある。そのためには、日本人は近隣諸国の人たちとどう違っているのかということを知らなければならない。
日本人の中で日本すごいと言っているうちは「四季がきれい」とか「民度が高い」とか言っていればいいのだが、例えば四季がある国は多いし、民度って一体何なんだということになる。民度が高いというのは結局「中国人がお行儀が悪い」と言っているにすぎないので、厳密にいうと日本人の利点ではない。
結局「美点」というのは比較で成り立っているので、日本が好きといいたい人たちは中国や韓国のいいところを学ぶべきなのだということになる。