韓国語の固有数詞

韓国語はとても不思議な言語だ。漢字由来の言葉と文法はとても似ている。このためある程度までは勉強がスムーズに進む。だが固有語になると事情が変わる。日本語と全く似ていないのである。特に困るのが固有数詞だ。99まで全く法則性が見えない。いろいろ調べて見たのだがそもそも語源についてはよくわからないことが多いらしい。ハングルが登場するまで読み方を確定する方法がなかったので歴史的な経緯が見えないのである。それほど固有数詞には意識を向けてこなかったのだろう。だが固有数詞は意外と重要だ。年齢は全て固有数詞を使い物の数を数えるときにも固有数詞が使われる。つまり固有数詞が覚えられないと生活に支障が出てきてしまうのである。

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顎のラインのきれいな男性はモテる – ただし欧米では

男性モデルになれる条件にはいくつかある。一つは身長である。6フィート(182cm)くらいが下限とされているようだ。もう一つが顎のラインである。チークボーン(頬骨)が浮き出していて顎のラインがきれいでないと「美しい顔」と思われないようである。

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戦後に生まれた肉じゃがはどのようにして伝統の国民食に昇格したのか

肉じゃがはおふくろの味という思い込みがある。だが、実際にいつ頃から登場したのかはよくわからないのだそうだ。これを真面目に追求した本を図書館で見つけた。国民食の履歴書という本だ。日本の伝統がテレビによって捏造された様子がわかる。我々を洗脳したのはテレビである。高度経済成長期はテレビが我々に偽の伝統を植えつけた時期だったのだ。

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Via Borgonuovo21, Milano

古着屋で夏物のジャケットのセールをやっていた。900円で売れなかったのだろう。多くのジャケットが半額になっていた。その中にGorgio Armaniを見つけた。偽物だと思われたのかもしれない。ラベルを見たら確かにBorgonuovo21という見慣れない表記が入っている。聞いたことがない。素材はリネンにシルクが混じっているようだ。触って見たらくたびれたネクタイのような手触りがある。シルクのネクタイから光沢がなくなるとこんな手触りになる。素材は本物のようである。

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ダイエットの仕上げにさつまいもがいいのはどうしてか

最近、あれと思うことがあった。ちょっときつくて捨てようかなと思っていたパンツが入るようになったのである。これらのパンツはどれも股上が深い。ヒップで合わせるパンツは28インチか29インチなのだがこれだとウエストがきついと感じるものがあった。つまり内臓脂肪が溜まっていたわけである。これを解消した食材は意外なものだった。さつまいもである。

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ジンの歴史とボンベイ・サファイア

最初のきっかけは「高級な(プレミアム)ジンが再流行している」という記事だった。缶酎ハイが市場を席巻しているのでその反動があるのだろう。そもそもジンというお酒にあまりいい印象を持っていないので調べて見たのだが、そもそもジンを扱っている店が少ない。ファミリーマートがなぜかボンベイ・サファイアを扱っているのだが一瓶が税込で1,000円以上もする。一ヶ月以上迷って結局買わずにいた。

10月に入ってやっと購入した。

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Core 2 DuoのMacとCore i3のMacを比較する

気晴らしにウィンドーショッピングでもやろうということになりヤフオク!をみた。Core i3のiMacが売りに出ていた。1円とか1000円とかそれくらいの捨値で売られている。最新OSが入らなくなったので安くなってきたんだろうなあと思った。だが、それでもこういうのは10,000円くらいになっちゃうんだろうと考えた。「どうせ落札できないだろう」と5,000円で入札した。おそらく誰かが競り落とすだろうと思ったのだが誰も競り落とさなかったようで翌日落札されていたことを知った。ものによっては4000円くらいで落札されるものもあるようだ。

無駄遣いだ、と思った。

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「麒麟がくる」の鉄砲の戦争抑止効果論

大河ドラマ「麒麟がくる」に鉄砲の戦争抑止効果論が出てくる。松永久秀(吉田鋼太郎)が明智光秀(長谷川博己)に対して「銃の恐ろしさを知った人は銃を持っている相手に戦争を仕掛けなくなる」というのである。「麒麟がくる」は明智光秀の前半生がほどんど知られていないのをいいことに好き勝手な創作をしているのだが、議論としては面白いなと思った。このエントリーでは火縄銃が当時の軍事情勢にどのような役割を果たしたのかを考える。松永弾正の予言は当たったのだろうか?ということである。

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氷川きよしの転身と自分らしさ

氷川きよしの転身がネットニュースになっているらしい。写真週刊誌で話題になっていたことがあるがどうやらもともと「中性的」な人のようだ。もっと言えば同性愛の傾向があるのではないかと思う。ところがどのメディアも同性愛については書かない。日本ではタブーだと考えられているからだろうが、配慮そのものが新しい壁になっているのかもしれない。




まず「決めつけるな」という点からクリアにしておきたい。文春はカミングアウトということまでは出しているが「何のカミングアウト」なのかという点を書いていない。

何より注目されるのが衣装です。インスタで話題になったドレス姿やピチピチのレザーパンツなどの案も出ているようで、氷川自身も“ありのままの姿”を出していきたいという意向だそうです。しかし、所属事務所は老舗の演歌系ですから、カミングアウトだけは阻止したいと考えているのです」(スポーツ誌記者)

限界突破の氷川きよしを直撃!「恋愛はいっぱいしたい。紅白でドレスもやりたいけど…」

報知新聞によれば和田アキ子もテレビで「本人がはっきり言ってくれれば」と語ったそうである。明らかに周りは知っているのだが何かに忖度して言えない状態になっていることがわかる。大手事務所ということもあって遠慮して書かないのだろう。だがそれが却って「同性愛は後ろ暗いもの」という印象を強化している。

こうした印象付けには実害がある。過去一橋大学で「他人から同性愛傾向をバラされた」ことを苦にして自殺者が出たというニュースがあった。アウティングというそうだ。恥ずかしいと思うから隠しておかなければという気になるのだ。

興行的には成功しており周囲からは受け入れられているとみていいだろうし、周りもおそらくは知っている。だから氷川さんがそれについて言及してもさほど問題にならないだろう。ファンも氷川さんを応援しておりいちいちとやかくは言わないはずだ。だからここに「氷川さんはそれを堂々と公表すべき」という問題を作りたくなってしまう。恥ずかしくないなら堂々と公表すればいいのではないかということだ。

日本には「隠すか」「公表するか」という二つの大変狭い解決策しかないことがわかる。実はこれが問題なのである。

セクシャリティというのは本人のアイデンティティの根幹であると考えられている。確かにそれはそうなのだが、普段個人の意見を全く尊重しない日本人が他人のセクシャリティだけは大変な問題だと考えてしまうのはなんとなく不思議な気もする。おそらくは特別な人を例外として棚上げして自分たちの常識を守りたいという意識が働くのだろう。なのでカミングアウトはその人が受け入れられることにはつながらない。単に「その他」の箱に入れられてしまうのである。

ネットで同じようなハリー・スタイルズのインタビューを見かけた。氷川さんと同じように中性的な衣装を着て公の場に姿を表すことがあるそうだ。だが、ハリー・スタイルズは「セクシャリティ」をどうでもいいことと言っている。セレブが自分のアイデンティティについて語らないのは不自然なように思えるのだが、実はそれは標準的な(つまり男性らしい・女性らしい)セット以外のセクシャリティを「ものめずらしいものだ」と他人も当事者も信じ込んでしまっているからにすぎないことがわかる。

よく考えてみれば、当事者にとってはそれは生まれつきの極めて当然のものであって特に珍しいというものではない。あるいは「よくわからない」とか「決められない」という人もいるかもしれない。

氷川きよしにとっては彼が興行的に成功するのかということだけが重要なのであって、それ以外のことは実は「どうでもいい」ことなのだ。言いたければ言えばいいし言いたくなければ言わなくてもいい。単に表現として好きなだけかもしれないし、あるいは性的自認と関係しているかもしれない。さらに明確に決まっているかもしれないし、決まっていないかもしれない。それらが彼自身の問題であって説明する責任も義務もない。

氷川きよしのニュースだけを見ると日本の特殊な状況だけしかわからないので何かとても真剣に論評したくなってしまう。そこからは別の可能性は見えてこない。ところが全く別の事例をぶつけると「別に表現しても言わないという選択肢もあるんだな」ということがわかってくる。

今回は自己表現と自分らしさについての事例だったのだが、おそらくは政治や経済にしてもそれは同じなのではないかと思う。問題だけを見つめると解決策が見えなくなってしまうことがあるのだ。

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ブルゾンちえみが環境問題について言及し叩かれたのはなぜか

ブルゾンちえみという芸人がフォーブスの授賞式で環境問題について取り上げたという。これについてサラリーマン向けの新聞であるゲンダイが論評を書いている。論評というか批評というか批判というか「これは何なんだろうか」という感じの文章である。




これについて最初に知ったのは小島慶子さんのTweetだった。だが、どうも分析が一面的というか面白くない。環境問題や人権問題という理想について語ると叩かれるのは日常茶飯事なので当事者たちがアレルギー反応を起こしていることだけはわかる。そして彼らはそれと戦うことを決めたようだ。

小島さんは意識が高い人を邪魔するなと言っている。では「意識が低いゲンダイ」はいったい何に反発しているのか。意識が低いとはどういうことなのか。

まずゲンダイは「私の意見」としてこの文章を書いていない。なんとなくネットの噂について取り上げていて「みんなが言っているよ」と言っている。これは集団主義から抜けられず自分の意見が持てない人たちの常套手段である。

次に「ブルゾンちえみは最近お笑いに手を抜いていて環境(エコ)ビジネスに進出しようとしている」のではないかと言っている。つまりエコは本業ではないだろう?と言っているのだ。

これについてQuoraで聞いたところ面白いヒントをもらった。人に聞いてみるのは大切なことだ。まずこの人は芸人だから黙っていろというのはけしからんと怒ってきたので松本人志について聞いてみた。芸人がテレビ局を代弁する形で「個人の言っていることですよ」と偽装しながらテレビ局や芸能事務所のポジションを代表することは世間では容認されていますよねと持ちかけてみたのだ。

すると「西野亮廣も叩かれる」という答えが返ってきた。西野さんといえばお笑いという本業があるのに「疎かに」して絵本作りをしてテレビ依存を脱却してしまった人である。彼が叩かれるのは組織を離れても自分の力で生きて行けるからだが、映画化まで来てしまうと叩かれなくなる。ここでなんとなく布置されるものがあった。小島慶子さんもそういえばフリーランスだなと思った。

  • 日本では集団の意見を代表した個人の意見は叩かれない。
  • 日本では個人が意見を言ったり、本業以外のことをやろうとすると叩かれる。

この価値体系はサラリーマンの価値体系である。サラリーマン社会で発言権を得るのにはとても時間がかかる。サラリーマンは個人と集団の境目が溶けてなくなるところまでサラリーマン社会にどっぷりつからないと発言権が得られない。ここに馴染んでしまうと個人の意見は言えなくなる。

さらに、個人は集団に依存する本業を持っている時だけしか評価されない。つまり松本さんの行動が正当化されるのは吉本興業とテレビというスキームに依存してお笑いをやっているときか個人という体裁で集団の意見を代表している時だけである。つまり、タレント(演者)としてコメンテータをやっているときは叩かれないが、個人の意見をいう人は容赦なく叩かれてしまうのである。

これはある意味武士のマインドセットとも言える。武士は藩に仕えると評価されるが脱藩すると浪人扱いになる。これは武士としては不完全な状態である。ゲンダイを読んでいる人たちの中にもそういう武士のマインドセットが生きていると言える。

一方、個人が自分の才覚で新天地を探そうとすると容赦なくバッシングされる。西野さんはそれでも「とても才能があった」のだろう。生き残って絵本作家をやったり自分のプロジェクトを立ち上げることができるようになった。ブルゾンさんは芸人として環境問題に関わろうとすると「本業が面白くなくなったからだ」とか「金儲け目当てに何か企んでいるに違いない」と足を引っ張られてしまう。まだ経済的に成功していないからだ。成功者は何も言われないが、今から成功を目指そうとする人は叩かれる。

この件について書こうと思ったのは、日本の政治の行き詰まりについてソリューションのない悲観的なエントリーを書いたからである。つまり、日本では価値の源泉が損なわれていて新しい源泉を探さなければならない。それができるのは自由に行動する個人だけである。

ところが実際に個人が新規開拓を目指そうとすると寄ってたかって潰そうとする人たちが出てくる。つまり新しい芽を潰しているのだ。いったんは武士のマインドセットと書いたので「格好の良いこと」のように聞こえたのかもしれないが、藩が機能しているからこそ武士のマインドセットは生きてくる。藩が機能していないのに新規開拓者を叩くのは奴隷が逃亡奴隷に石をぶつけているのと同じことである。

だが、ゲンダイには新しいものを潰しているという自覚はないようだ。今回もこの「構造」を探すのは以外と大変だった。つまりサラリーマン向けの新聞は本能的に「脱走奴隷」を許さない構造を持っているのだが、あまりにも日本人の心情に深く根ざしていてそれを抜き出して分析することすら難しい。

さらに分析を難しくしているのは主語の置き換えである。読者はおそらくゲンダイに主語を託し、ゲンダイもまたライターに「ネットの噂ですよ」と言わせている。日本人の奴隷制の根幹にあるのは「誰も主体者として責任が取りたくない」という責任回避の意識である。

おそらく、ゲンダイこの記事に共感した側の人たちはなぜ自分がこれに共感したのかはわからないだろう。彼らは自分たちに向き合わなくてもこの記事が読める。新聞側も「これが受ける」ということはわかっても「なぜ受けるのか」は説明できないのではないだろうか。

だがここで起きていることは明白だ。かつては武士だった奴隷が逃亡者を罰しようとしているのである。

最後に小島さん側の反発についても考えてみたい。今回のフレームでは、小島さんは奴隷が脱走奴隷を叩くことに反発をしているということになる。ただ後ろを振り返ってしまっては奴隷状態からは抜け出せない。実際脱走した人たちがやることは後ろを振り返えることではなく、前を向いて次の機会を探すことだけである。違いはそんなに大きくない。単に前を向くか後ろを振り返るかだけなのである。

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