官公庁からInternet Explorerがなくせなかった理由

インターネットエクスプローラー(IE)のサポートが終わった。セキュリティ対策が行われなくなるため専門家は「何か問題があってもメンテナンスされていない無防備な家に住み続けるようなものだ」と警鐘を鳴らしている。1年前からIEがなくなることはわかっていたにも関わらずIEの置き換えは進んでこなかった。これはなぜなのだろうか?と考えた。まず「日本のベンダーはガラパゴス化していて技術者がいない」のではないかと考えたのだがQuoraで聞いたところ「そんなことはない」という。日本の技術者は優秀で常に新しい仕組みに備えているというのである。では何がいけないのか。

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言ったもん負け文化が蝕む日本の大組織

コロナも落ち着いているし岸田政権は少なくとも選挙期間は安泰だろうと思っていたのだが早速問題が起きた。年金通知書が97万人に誤送付されていたというのだ。原因はわかっておらず「業者が間違えたから」という説明がされている。後藤厚生労働大臣の最初の仕事は謝罪になった。

間違った通知書をもらった人たちは次の年金支給に向けて不安が募る。だがマスコミではあまり大騒ぎにはなっていない。年金の支払額に問題はない(と厚生労働省は説明している)上に大多数の年金受給者にとっては他人事だからなのだろう。

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学ばない国日本 – 日本はなぜまた敗戦に向かうのか

このところ新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のことばかり書いている。騒ぎはまだ収束していないのだが漠然と日本社会の欠陥がわかったと思った。それは「科学的アプローチの欠如」である。原因さえわかれば理論的な解決策はわかる。あとは「どう実施するか」である。

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なぜ韓国の映画「パラサイト」がアカデミーで作品賞を取れたのか

韓国映画パラサイトがアカデミー賞の作品賞など四冠を達成した。アジア映画がアカデミー賞の主役に躍り出たことはとても喜ばしい。なぜ、パラサイトがアカデミー賞を取れたのかを考えたい。そして我々は、なぜあの作品賞が日本の映画ではなかったかということを改めて考えなければならない。

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日本のカメラ産業はなぜ振るわなくなってきているのか

デジタルカメラ市場が縮小しているそうだ。オリコンのこの記事によると、2010年に比べると2019年には30%にまで落ち込んでいるそうだ。70%も減っていることになる。日本でのきっかけになったであろうスマホブームを作ったiPhone3Gsが発売されたのは2009年だったそうである。スマホがあれば大きいカメラなどいらないというのが正直なところかもしれないがそれにしてもかなりの減り具合である。

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学校に一人一台のパソコンは必要か

自転車の修理をしていて新しい理論を思いついた。植物の生育にチッソ・リンサン・カリが必要なように、物事を体得するためには4要件が必要であろうという画期的新理論だ。






あるいは他の誰かがすでに提唱しているのかもしれないが、別に同じことを新たに思いついてもよかろうと自分を無理やり納得させている。「自転車の話」で思いついたのは3つだったのだが新しい要件を加えた。

  • アローワンス
  • サポート
  • リソース
  • モチベーション

さて、理論ができるとそれを使って問題を解いてみたくなる。そこで学校にPCを一人一台置こうという政府の提案について考える。Quoraで出されていた問題である。

この問題を考えると「政府はまたNECやFujitsuあたりと組んで利権拡大を狙っているのでは?」などと疑って、それに添った回答を書きたくなる。そこで「反対!」となってしまうのである。だが、実際にはどうなんだろうか。理論を使って検証してゆく。

今回の理論を使うと「リソースは多いほうがいい」ので一人一台PCをおいたほうがよく、それは「壊れても構わない程度のものである」ことが好ましい。アローワンスを確保するためである。実際にはイギリス製のワンボードのPCが進化していて3,000円程度で手に入れられるものも出ている。ChromebookとAppleが教育PC市場を争っているという話もあり、実は意外と品揃えが良い市場だ。

旧来のパソコンの授業は課題を提示して「これをやってみましょう」というものだろう。言われた通りに組んで行って「あら動いた!」「あら良かった!」ということになるはずだ。これで「プログラミングをこなした」として次に進んで行くわけだ。

しかし、プログラミング実務は「正解がない」ものを組んでみて「動かない」といって直すところから始まる。最初から動くプログラムはほぼないと言って良い。つまりロジックを考えるところよりも間違い探しのほうが仕事量としては多い。だからデバッグをやったことがないプログラマーは現場で早くに立たない。

この間違える体験をするためには「思いついた時」に「思いついたこと」を試せる環境が必要である。だから個人が使える端末があったほうが有利なのであり、それは安価に手に入る。最近は3,000円から4,000円程度で使えるパソコンが出ている。5ドルコンピュータという触れ込みで作られたラズベリーパイというコンピュータがそれである。ラズベリーパイはソフトウェアだけでなくハードウェアも実習で組みたてることができる。

このフレームでは「リソース」は一人一万円程度(ちょっと多めに取った)のパソコンで、アローワンスは「まあ壊してもなんとかなる程度の気楽さ」である。

ところがここに一つ足りないものがある。それがサポートだ。やる気のある生徒(このやる気だけは外から操作できない)は自分でプログラミングを考えてやってみるだろうがプログラミングを壊してしまったり、あるいは環境を壊してしまうこともあるだろう。これを修復できる「適度なアドバイス」ができる大人=先生が必要なのだ。ただ、現在の教育現場の現状を見ていると、そもそも時間が足りず、さらにプログラミング知識(Linuxを直せる程度の知識が必要)を持った教員もいないのではないかと思う。

実はパソコンにお金をかけるのではなく教員養成にお金をかけたほうがいい。だが、これが実現しない。企業と政治家が儲からないからである。つまり人に投資しても見返りがないから投資しないというのが日本の大問題なのだ。

実際には支援する先生が足りずに「そんな面倒なことをするな」とか「言われたことだけをやっていればいいんだ」ということになりがちだ。生徒は失敗ができないのでコンピュータについて十分に学ぶことができない。これは日本の政治議論が荒れる原因にもなっている。失敗しながら学級運営を学ぶ余裕がないので自治経験がない学生が大量に排出されてしまうわけである。日本の教育が「自分で考える人材が育てられない」理由は先生に余裕がないからだ。生徒目線に立つと「支援」が少ないのである。

感情論を排して問題を分析するのは実に簡単なのだが、多分日本の政治はもうここまでたどり着けないだろう。今の日本の教育制度で育った人たちが自分で考えるのは無理である。

頭の中に「とにかく教育を利権化しなければならない」というある種の必死さがある。また、国産メーカーも個人にパソコンを売るのを諦めているので「国の力でなんとか教育現場に浸透したい」と思っている。いわば「教育版桜を見る会」ができてしまうわけである。桜を見る会で問題だったのは「不満も溜まるがリソースは常に足りなくなる」ことだった。恐る恐るこっそりと私物化をするのでどうしても出し惜しみが生じるのである。おそらく誰も満足しないシステムになってしまうのだろう。

「パソコンを一人一台」というのは政府のIT教育に対するコミットメントとしてはいいと思うのだが、経済にも政治にも余裕がない。そこで「確実に搾り取るためにはどうしたらいいか」というような議論になる。却って教育現場を疲弊させ国の競争力をそいでしまうのである。アローワンスのない社会はアローワンスのない議論をうみ、それが社会の余裕をなくす。アローワンスの縮小再生産である。余裕のない社会は余裕のない子供を育て、それが余裕のない政治家と有権者になって社会を蝕むのである。

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オリンピックマラソンの札幌開催は大英断

オリンピックのマラソンと競歩を札幌でやることを決めたそうである。リーダーシップという意味では大英断だろう。これをコアコンピタンスという概念を使って説明したい。コアコンピタンスとは企業の核になる強みのことである。






ドーハでマラソンなどの大会が開かれたが深夜開催にもかかわらず棄権者が多かったという。しかし国際陸連側は改善に前向きではなかった。そこでコーツ委員長から「バッハ会長の権限で」と森喜朗大会組織委員長に申し渡しがあったということになっている。「今日中に」というところから、IOC側は日本の組織委員会のリーダーシップに全く期待していなかったように見える。緊急事態であることを強調するために「今日中に」といい、森会長に「せめて小池百合子都知事に」と譲歩させた。共同通信など日本のマスコミは合意と言っているが日本の運営陣に最大限花をもたせた表現だろう。

緊急事態であることを示し意思決定を促すというのはチェンジマネジメントの基本である。そしてその裏側にあった合理性はIOCの「競技をやるのなら選手のことを第一に考えないと」という強い意志だろう。つまり、IOCはオリンピックの価値の中核は選手であるということを知っていたということになる。オリンピックのコアコンピタンスは世界トップレベルの選手が競い合うスポーツの最高峰なのであり、バッハ会長の役割はその推進と強化である。

ここからIOCは「選手の人権」のために札幌開催を決めたわけではないということがわかる。オリンピックは世界最高峰のスポーツ大会であるというところに存在価値があるわけで、そのためには良い選手を集めてきて良いコンディションの中で走らせなければならない。つまり、彼らはオリンピックのコアになる価値観をよく知っていて必要な措置を講じたことになる。そして、強いスポンサー確保は手段であって目的ではない。

日本側の態度はとても煮え切らないものだった。森喜朗会長がリーダーシップを発揮することはなく「IOCが決めたから仕方がない」と言っていた。東京都の小池都知事などはさらにめちゃくちゃで、顔を潰されたことに怒ったのか「北方領土で開催したらいいんじゃない」と言い放ったという。

この背景には日本側のリーダーの政治的な意識も感じられる。結局主導した人がお金を出すことになるが予算膨張問題はすぐさま議会に反発される。そこで誰も「私が了承しました」とは言い出せないのである。すでに費用負担では押し付け合いが始まっている。彼らは結果だけを欲しがっており負担したり調整する意欲はない。

IOCは価値を想像しようとしているのだが、日本のリーダーには価値が作れない。だから発想が分配型になる。分配型発想では落ちてきた雨水はすべて自分のものにして絶対に誰にも分けないのがベストな戦略である。当然雨が少なくなれば奪い合いが起こる。

一方でこうした煮え切らないリーダーのもとで働くのは楽だろうと思った。一度決まればどんなに不都合が見つかってもそれが変更されることはない。いわゆる日本のインパール化はミドルマネージメントには余計な負荷がかからないし「考えても仕方がない」と言える。コアコンピタンスを理解しているリーダーのもとで働くのは大変である。目的から外れればやり直しを余儀なくされるからだ。

まとめると、西洋のリーダーは強い権限と目的意識を持っている。トップリーダーの役割はコアコンピタンスの強化と追求だ。状況が変化するとミドルマネージャーには負担がかかるが、アスリートはただ自分の記録を追求するためにベストを尽くせばいい。一方で日本の組織はお神輿型のトップリーダーを弱くすることで大勢のミドルマネージャーが楽ができるように設計されている。当然困るのは末端の人たちである。旧日本陸軍は上級ミドルマネージャーを守るために大勢の兵士が餓死した。現在は日本全体がインパール化している。

同じようなことは安倍政権でも起きている。自民党の松川るいという女性議員は台風災害について話し合う委員会で政権擁護をやり同僚や野党議員から顰蹙を買った。朝日新聞が伝えている。彼女は外務省で政権に引き立てられ2019年の選挙で議員になった。彼女は官僚にとって何が栄達の道なのかを極めて正確に知っている。それは被災者のことを考えるのではなく政権を賛美することである。

日本の組織は政権に忖度してミドルマネージャーの階段を上がれば上がるほど楽ができることがわかる。その負担を受けるのは官僚の末端組織であろうし、さらにその先には政府に何も期待できない一般の国民がいる。つまり、日本は声が届かないと考えた人からやる気を失う社会なのだ。だから日本の組織はみんなが苦労しているのに全く成果が出せなくなる。誰も止められないがなんのために仕事をしているのか誰にもわからなくなってしまうのである。

日本は何も変えないリーダーが何もしないフォロワーを生み出しておりその一部が「人でない何か」になりつつある。その裏にはやる気を失ったゾンビのような人たちや果てしなく石を積むその他大勢いるかもしれない。バッハ会長らの意思決定からその原因は「自分がマネージしている組織のコアコンピタンスを理解していない」ということだとわかる。

コアコンピタンスを理解していないリーダーを頂く組織は早かれ少なかれおかしくなってしまうのだ。

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上野厚労政務官の辞任 – 自民党はたぶん内側から崩壊する

上野厚労政務官の辞任というニュースが飛び込んできた。いわゆる「文春砲」で秘書があっせん収賄を匂わせる音声記録を文春に持ち込んだというケースである。内閣や政党の崩壊は中から進むんだろうなあと思った。






まず、この件について野党の追求が世論の支持を集めることはなさそうだ。官邸側も慣れっこになっているようで田崎史郎さんにテレビで説明をさせていた。官邸側が「政府と切り離してさえしまえばあとはどうとでもなる」と考えていることがわかる。

田崎さんは実際には大量の口利きなどできるはずはないから斡旋はなかったのではないかと言っていた。田崎さんがこう言っているということは取材が終わっていて官邸も大筋で了承しているということなのだろう。あとは厚生労働省側が「そんな話はない」といって資料を破棄してしまえばそれで終わってしまう。あったかなかったかはわからないがとにかく話としては終わってしまうのだ。

あと残るのは詐欺の可能性であるが、政権の立場からみると「政治家が説明責任を果たすべき」で終わってしまう。これで切り離し完了である。

そこで気になるのは上野さんのポジションである。上野さんは清和研(現在の主流派)なのだが「外様」なのだ。そして選挙に強くない。コマとして活躍できなければ切り捨てられてしまう人なのである。

官僚出身の上野さんは代議士の娘と結婚する。代議士はみんなの党から出馬しようとしたが公認されなかった。そのため娘婿である上野さんが名前を継いで立候補した。当時の読売新聞の記事の引用がところどころに残っている。渡辺喜美さんは名前も継いでよかったねというようなことを言っていたそうである。

ところが上野さんはあまり選挙には強くなったようで比例代表でなければ選挙に受からないという状態に陥った。比例頼みということは大きな政党に所属していなければ生き残れないので維新の党(渡辺喜美さんについて行ったのかもしれない)に移籍し、最終的に自民党町村派に所属することになった。家督を継ぐために養子をとり藩を渡り歩くというようなことが現代の日本でも時々起きているらしい。

TBSで見た田崎さんのストーリーでは上野さんはお金と支持者に困っていたのではないかということになっていた。「自民党は新規会員を集めなれけばならないノルマがあり」そのために「少額づつお金を集めようとしたのではないか」という説明だった。

町村派にいると言っても出自からして数合わせのための存在に過ぎないのだろう。自民党はライバルがいないので候補者を集めてこなければならない。そしてこういう基盤の弱い人は自分たちがかかえ込むに限る。ただし、何かあった時に面倒を見たり庇ったりすることはない。つまり安倍政権の強固さを背景にした冷たい関係が成立しているのである。

田崎説に従うと支持基盤のない上野さんは200万円の金と新規党員獲得に困っていたようだ。そして困窮しているのは多分上野さんだけではないだろう。つまりこうした人たちがいろいろな「創意工夫」で暴走している可能性は大いにある。そして上野さんの例でわかるように露見しても議員辞職はしなくて良い。だから、こうした行為は病気のように自民党内で蔓延するだろう。政策に強いいわゆる「保守本流」や石破さんたちの新派閥ではこんなことは起こりそうにない。ある程度倫理力がないと組織が保たないからである。

野党は「あっせん収賄の疑いがある」と騒いでいるのだが、あっせん収賄が証明できなかった場合のプランBについては考えていないようだ。つまり騒ぐだけ騒いで終わりになって「ああまたか」と思われる可能性が高い。そして野党が何か決定的なことを見つけないとマスコミは乗らないし有権者は騒がない。裏を返せば「野党が騒ぎマスコミが揺れる」ところまでは問題は膨らむということである。もちろんどれくらいの時間がかかるかはわからないのだが、ブレーキがないのだからそれは確実に進行するだろう。

上野宏史氏は東大を出てハーバード大学にも留学している。官僚になったこともありかなり頭が良い人なのだということがわかる。ただ、有権者は政策ではなく「上野さんの家の娘婿だ」という理由で票を入れている。あのお家のことはよく知っているから何かあれば面倒を見てくれるのではと思っている人が多いのかもしれないし、そこまで深く考えずに票を入れている人も多いのだろう。そして上野さんが政策で重用される可能性はない。武闘派の保守傍流は政策など気にしない。だから上野さんの才能が活きることはない。極めて残酷な話である。

そして、有権者は「なんとなく安心だから」という理由で票は入れてくれるが「保守の敵陣営に勝たなければならない」という動機はないし、政策も気にしない。つまり、上野さんは地元からも経済的支援も政策への理解も得られない。勝ちすぎた自民党にはそういう人がたくさんいるはずだ。ある意味才能の墓場と言える。トップである安倍首相の考える「ボクの政策」を支持するためのコマに過ぎないのだ。こんななか倫理観が働くはずはない。個人の論理では動けないから、良し悪しの判断を個人でしなくなってしまうからである。そ

経済的な困窮とブレーキのなさが合わさると内側から崩れるのが早まるのかなと思う。その時に野党の受け皿はできていないわけだからかなり大変なことになるだろう。小選挙区制度を導入し党の権限も強化したはずなのに昭和末期から平成にかけての政界再編騒ぎみたいなことがまた起こるだろうということになる。

日本の政党政治にはなんらかの欠陥がありそれが修正されていないのだろう。多分欠陥とは個人の考えを擦り合わせた上で社会化するというプロセスそのものだ。そう考えると自民党が破壊される前に議会制民主主義そのものが野党も巻き込んで壊れてしまうのかもしれない。

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システムによって内部から破壊される日本社会

時々アメリカABCのストリーミングをテレビっぽくしてみている。日本の感覚から見るとかなり極端なものが多い。個人社会なので個人が追い込まれると救いがなくなってしまうようだ。だが、アメリカでは例えばセラピーなどが発達していると聞く。もともと個人社会なので個人がやり直すようなルートも準備されている。






日本はかつては優しい人工集団の社会だった。中国や韓国のような血族・地縁の集団ではなく、アメリカのような個人社会でもない。似た経験を持つ人があつまる優しい集団の内部では話し合いの必要はない。なんとなくみんなわかりあえるからである。

日本の不具合は終身雇用が失われ地域社会もなくなりこの優しい集団が崩壊しているところから来るのだろうなあなどと思っていた。だが、そこで行き詰ってしまったので、ちょっとどこかに出かけようと思った。

天気が良かったので海に遊びに行こうと思って電車に乗った。海岸線は工事中でちょっとがっかりしたのだが、まあ海を見ることができたのはよかった。

バスはプールに行く人が多く、楽しそうだ。みんなで会話をしながら海岸に向かっている。家族連れと高校生くらいの団体が多い。

ところが帰りの電車の中で「あれ?」と思った。みんな下を向いてスマホを操作しているのである。ボックスシートになっている車両には2人組が座っていてみな荷物を置いて他人がくるのをブロックしている。

システムは機能的に動いているので「日本に不具合がある」などと言っても誰も信じないだろうなあと思った。土着的民主主義について書いたときもレスポンスはあまりなかった。「土着であろうがなんであろうが機能しているならそれでいいじゃないか」という気持ちがあるのだろう。機能しているのであれば憲法が形骸化して表現の自由が無視されても別にそれはそれで構わないと思う。

でもどこかに問題があるんだろうなあということを考えていた。そこでスマホに目を落として会話を拒否している人たちを見て「ああ、目の前の人たちと経験を共有したり合意したりすることはもう日本では起こらないんだ」と思った。

スマホは問題ではないようだ。楽しい共通目的があれば人はスマホをそれほど見ない。問題はそういう楽しい共通目的がない人たちである。自分の好きなものだけを見て生活できるようになっているのだなあと思った。だから自分と意見が違う人たちと対話ができないのだろう。動いているシステムに乗っている分には快適だがそこから外れると途端に苦労を強いられる。融通がまったく効かないからだ。

そんなことを考えていて自分にもそういう側面があるなあと思った。

図書館の分館に行ってみたのだが頼んでいた本はまだ届いていなかった。新しく入ってきたらしい係員が「本が来たらメールでおしらせします」と言ってきたので無視した。実はメールは本が到着してから数時間後にならないと送られてこない。そしてメールが送られるとすぐに図書館は閉まってしまうので取りに行けないのだ。なぜそうなっているかはわからないがとにかくそう設計されている。

普段は改めて次の日に取りに行くのだが明日は休日で分館はやっていない。だから本を手に入れるのはしばらく先になってしまう。ただ、それを説明しても係員は「ふーん」としか思わないだろうし、彼女にはシステムは変えられない。

ただ、こちらも仕組みを知っているのであと30分も待てば仕分け作業が始まり本のコンピュータ登録が終わることがわかっている。ゆえに図書館係員のいうことを無視して自分でシステム通りに人を動かせばいいことになる。実はしばらくそうしているので古くからいる人はそのことを知っている。そして、係員はこちらがシステムに乗っているとそれに従わなければならない。これは、どちらかといえばゲームに近い。そして、実際にこのゲームは毎回成功する。システムに乗っている人が正義だからである。

このシステムが動かせないがそれに従うと人を動かせてしまうという仕組みを念頭におくと今まで説明できなかったことがよくわかる。

これまで憲法改正について、憲法を理解しない人が憲法議論をするのが問題なのだと思っていたのだが、憲法もかつてはうまく機能していたシステムのようなもので、制度設計をし直して合意が結べないことが問題なのだろうなと思った。憲法は基礎設計からやり直さなければならないので法律よりも難易度が高い。法律の設計を官僚に任せている自民党には基礎設計をやる能力はないだろうし、官僚は部分部分しか見ていないので基礎設計はできないだろう。だから日本では憲法が本質的に変えられないのだ。

だから政権側としてはシステムをハックしてうまく動いているように見せたほうが楽だ。今回の対イラン有志連合でもそうするだろう。だが、ハックするとそれが不信感をうむ。だからシステムはさらに動かせなくなる。立憲民主党側はシステムを変更させないゲームをやるだろう。極めて不毛だがシステムを守るべきだという呪縛には根強いものがあり、これは一定程度成功するのではないか。立憲民主党も新しいシステムは作れないが、システムを相手の有利にさせない作戦は成功する。日本人は現状維持バイアスが極めて強いからである。

れいわ新選組も障害者福祉についていろいろ要求してきたが議論の対象にすらしてもらえなかった。政治の仕組みを知っているように見えた(実はもう古い仕組みしか知らないのだが)小沢一郎と組んで見たがそれもうまく行かない。最終的に行き着いたのは自民党が党利党略のために作った仕組みをハックすることだった。一旦国会議員として重度障害者を送り込んでしまえば皆それに従わざるをえなくなるし異論も封じられる。よく考えてみればこの制度ももともとあまり意味のない「県」という制度を温存するために作られたハッキングルールである。

N国は「NHKをぶっ潰す」という絶対にNHKでは放送できないフレーズを国政選挙というルールに乗ることで放送させることに成功した。NHKがスクランブル化されることはほぼ絶対にありえないだろうがシステムを利用してできないことをやったというだけで満足する人は出てくる。

ある時点までうまくいっていたシステムはやがて動かなくなる。だが、ある日突然止まるわけではなく、徐々にそのシステムでは解決できない問題が増えてゆくという形で我々を苦しめる。

ところが日本人はなぜか話し合って設計をし直そうということにはならず、システムのハックと機能強化で乗り切ろうとする。その度に大騒ぎが起こるが人々は根本的なマインドセットを改めない。

システムを変えるための制度設計に着手できない日本人は多分システムを利用した愉快犯に翻弄されることになるだろう。だが、このままではそれを止めることは多分できない。なぜならば隣の人と話し合うということが一切できないからだ。

問題解決にはつながらないがこれがわかってなんだかちょっとすっきりした。海に出かけてよかったと思う。

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慰安婦少女像を表現の自由として許すべきなのか?

Quoraで「慰安婦少女像を表現の自由として許すべきなのか?」という質問があって頭を抱えた。面倒なのであまり答えたくないのだが、すでに「許すべきではない」という回答が多くありさらに頭を抱えた。






天賦人権は誰かに許されるべき筋合いのものではない。日本では生存に他人の許可をもらわなければならない人は誰もいない。これが天賦人権のもっともわかりやすい説明だ。しかし人権となると話が変わってくる。なぜか集団の許可が必要だと考える人が多くなる。

この裏には土着の民主主義政治理解があるように思える。日本人は村に複数の価値体系があることを認められない。管理上面倒だということもあるのだろうが、単に居心地が悪いのかもしれない。そこで気に入らない価値体系があったらみんなで潰していいことになっている。今回の「表現の自由」はここにぶつかったのだろう。

さらにコメントを見ていると、芸術展という場所も理解を難しくしているようだ。もともと表現の自由とは「自分の生き方を誰にも邪魔されず表現していい」という意味だと思う。だが、日本人は芸術を素晴らしく高尚なものと考える。国が支援する事業ともなればなおさらである。つまり慰安婦少女像を芸術の場におくことで「立派な芸術であるというお墨付きを与えてしまうのではないか」という恐怖心があったのだろう。

日本語には「芸術表現」という言葉もあり、憲法の表現の自由と芸術表現の自由を混同した上で「自分にはよくわからない」とコメントしている人がいた。「一生悩んでいればいいんじゃないか」と思いそっと画面を閉じた。

にもかかわらずなぜかみんな「慰安婦については自分も語ってもいいのだ」と信じ込んでいるようだ。このため「天だったら人権が賦与できるということだろう」と考えて「天の代わりに俺が判断してやろう」という人がわらわらと湧き出してくる。さらに「私が許しても世間が許さない」などと言って集団を隠れ蓑にしてしまう。

慰安婦少女像を許すか許さないかという問いは「社会として受け入れていいのか」という問題にすり替えられる。同時に社会には自分と異なった考えの人はいないだろうしいるべきでもないという考えが働く。こうして議論の場は瞬く間に不毛な混乱に陥った。

こうした間違った人権感覚をなくすためには学校で繰り返し教えるべきだと思うのだが、学校で人権について習う時にも「国際社会の正解はこうなのでみんなで従いましょうね」というような翻訳がされているのではないかと思う。なのでこれを議論に使うといろいろな不都合が出てくる。

議論に値しないからといってその意見を切り捨てるのも少し「違う」ような気がするのだが話を聞いている疲れてくる。土着理解に思い込みが加わりその人オリジナルの心象が生まれている。その上怒りが次から次へと湧いてくるらしく筋がない上にいつまでも終われない。

最初にいとぐちが見つかったと思ったのは執拗に長い文章を書いてくる人の別の文章を読んだときである。パソコンが壊れたとかでイライラしていたらしい。つまり自身の問題がありそのイライラを誰かにぶつけたかったのだろう。つまり、そもそも意見についてのカウンターではなく「イライラしているだけ」だった可能性が高いのである。

と同時に自分自身も「自分の考えや表現に不備があるから理解されないのではないか」という恐怖心を持っていることがわかった。そもそも相互理解を前提としない会話に到達点はないのだからそんなことは考えなくても良いのである。単に自分の良心の範囲で見直せばいいだけである。そこで説得は諦めて、彼らの論理構成を探った。そこで発掘した共通項が今回の「土着的民主主義理解」と「芸術という権威」というキーワードである。何も相手を説得することだけが会話ではないということだし、相手のポジションを理解することは負けではない。

次のいとぐちは別のところにあった。

それが原爆である。アメリカ人には「原爆という科学」が日本の暴走を止めたと考えている人がいる。ユダヤ系のアメリカ人にとってはナチの恐怖からの解放も意味する。個人的な経験からいうと「日本人が原爆について複雑な気持ちを持っている」ことはあまり知られてはいないが、勇気を持ってそれを言い出すと聞いてくれる人はいる。アメリカ社会は自分も主張をするが相手の主張も聞かなければならないという社会だからである。

NHK WEBに私がいるのは、あの日が曇りだったからという記事を見つけた。原爆にも使われたプルトニウムの製造をしているワシントン州に留学した高校生の物語である。街ははプルトニウムを誇りにしていて学校のロゴにも使われている。ここに福岡県から学生がやってきた。地名は書かれてないが祖父と祖母は小倉の出身らしい。小倉は長崎が曇りだったので原爆が落ちなかった。つまりもし8月9日に小倉が晴れていたら彼女はこの世にいなかった可能性があるということだ。

彼女は町の歴史について学び(つまり相手の言い分も聞き)その上で自分の気持ちも伝えたそうである。そして町の人の中には「話をしてくれてありがたかった」という人がいた。

もちろんそれで町からロゴが撤去されることはないのだが、自分の気持ちは伝え相手の気持ちを聞くことはとても重要である。表現の自由とは相手を思うがままにコントロールすることではなくお互いの言い分を共有し違いを認めたままで共存することであるということがわかる。

慰安婦問題は慰安婦がいたかいなかったかという問題ではない。全面的に日本支配を否定したい一部の韓国人と、それが国際常識になり「国際社会で頭が上がらなくなる」ことを恐る多くの日本人の心理的せめぎ合いである。実は両方とも空気に支配される社会だからこそ起こる問題なのだ。

「表現の自由」とは本来は相手の気持ちを理解しあうという文化的背景があって初めて成り立つ。と同時に相手の言い分を全て受け入れなければならないということでもない。

多分、慰安婦少女像にこれだけ苛烈な反応が出るのは、日本人が国際社会というものを理解していないからなのだろう。慰安婦少女像が「立派な芸術である」と認めてしまうとそれが国際社会の常識として認められ自分たちの気持ちを表明する機会が永遠に失われるだろうというありもしない恐怖なのだ。

しかしその裏には自分たちが空気によって異論を封じてきたという歴史がある。皮肉なことに表現の自由を追求するという側の人たちもTwitterという村で少数者をいじめてきたという歴史がある。津田さんも東浩紀さんも取り巻きに囲まれてそういうことをやってきた人である。少なくとも彼らは「話し合いと相互理解」という雰囲気を作ってこなかった。このことが「表現の自由を許すべきなのか」という倒錯した問いになって彼らに襲いかかってきたことになる。

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