土曜日に電車に乗った。春を思わせるようなうららかな三連休の初日なのに、こんなに疲れた顔の人たちばかりが乗っているのかと驚いた。人々がこれほど疲れているなら、「内容がなくても元気をくれる高市総理の演説も、日本の国の役に立っているのかもしれない」と思ったのだが、これは意外と早く逆回転を始めるのかもしれない。
日本社会はとにかく疲れており、「合理的思考」の余地が削られ、代わりに「序列思考」で物事を考える人が増えている。
Xのトレンドに「高市首相、旧姓単独記載の検討を指示 保守層から反発広がる」という不思議な記事が出ていた。住民票、運転免許証、パスポートなどに「旧姓単独使用」を認めるという内容である。考えてみれば、不思議な反発だ。
高市総理を支持している、いわゆる「保守」と呼ばれる人たちは、戸籍の大切さを訴えている。では、そもそも戸籍が何のために必要かと聞かれて、答えられる人はどれほどいるだろうか。日常生活で住民票を取り寄せることはあっても、戸籍を使う機会はそれほど多くない。
それでも、いわゆる「保守」は戸籍に強いこだわりを持つ。つまり、ここから戸籍が何かの「象徴」になっていることが分かる。戸籍が何の象徴なのかは黙して語られないため、類推するしかないが、おそらくそれは「日本人として戸籍に登録される特権」と、「結婚した場合は夫の姓が妻の姓に優先される(ことが多い)」という序列意識に基づいたものと考えることができる。
この仮説を置いて初めて、保守派がなぜ動揺しているのかが理解できる。夫婦別姓の阻止は、女性に対して「結婚したら夫の支配下に入らなければならない」と示すための「嫌がらせ」運動であり、必ずしも戸籍の重要性そのものを意識したものではない。
そもそも象徴に過ぎないのに高市総理の指示によって、実生活で使われる名前が戸籍と遊離することになるのは大問題だ。戸籍の社会的地位が落ちてしまうからである。
しかし、ながら見した土曜日の疲れ切った電車の光景を思い返すと、「何のために疲弊しているのか分からないのに、とにかく毎日を一生懸命生きるしかない」人々にとって、「日本人であること、男性であること=つまり誰かより上の地位にいること」が最後の砦になっているのではないか、という気もしてくる。
そう考えると、その希望を剥奪するのは気の毒だという気持ちにもなる。もはや彼らには、それしか残されていないのかもしれない。つまり保守とは、身分に関わる序列用語なのだ。
しかし、いわゆる保守の側も「明確に言語化したうえで差別構造を押し出している」とは言えない。論理的に運動原理が整理されていないため、当初の勢いが実行段階になると削がれる傾向がある。このときに「表面的なロジック」で押して離反される人と感覚的な言葉を使って響きすぎてしまう人に分かれる。
では実際に何が起きているのか見てみよう。
有本香氏(日本保守党)は、「旧姓単記化」の目的の一つは外国人対策ではないかと、なんとか合理化しようとしている。保守と呼ばれる人たちの苦しい心情を思うと、胸を締め付けられるようであるが、保守に一定の論理的支柱を与え続けてきた有本さんらしい対応とも言える。
一方で、神谷宗幣氏(参政党)は、「国民会議から排除された=仲間外れだ」と怒っている。「仲間外れになっている」というわかりやすい言葉がすんなり出てくところを見ると「この手の才能がある」人なのだろう。
新潮報道で伝えられた茂木敏充幹事長との確執からも、高市総理にはもともと独断専行の傾向があることが分かっているので、「ああ、まあ、そんな人なのだろうな」と思わなくもない。
しかし、神谷氏の「仲間外れ」という言葉は、序列を意識するいわゆる保守層には、とりわけ強く響くのではないか。
論理より感覚が響く実例として面白いものを見つけた。それが日本経済新聞だ。本来は理詰めで読まれるはずのメディアでさえ、見出し一つでバズるかどうかが決まってしまう。
Xの別のトレンドで「成長のボタンを押しまくる」という高市総理の発言への反発が広がっているとも報じられていた。このときに題材となったのは、日経新聞の「弱い円でも強い日本」の世界線や、「高市首相が警戒する超円安のリスク」と言う記事だ。
「世界線」「超円安」といった、いかにも「オジサンが考えた若者向け表現」のような言葉が散りばめられているが、Xニュースで広がるほどには話題になったようだ。
日経新聞も「消費税減税はポピュリズムである」といった政治的表現では響かないと、学習しつつあるのだろう。つまり、内容よりも「言葉の使い方」によって、響くか響かないかが決まってしまうのである。
言葉の選び方一つ、演説のトーン一つで受け取られ方が変わるのだと考えると、高市総理の「働いて、働いて……」発言の評価も、極めて感覚的に、一夜にして覆る可能性がある。
今は、「高市総理が働いて日本を何とかしてくれる」と思われている。中には序列意識から、「有権者が官僚を使い倒すのだ」と考える人もいるかもしれない。
しかし、仮にこれらの政策に効果がなく、場当たり的な対応が続き、なおかつ国民に何かを強要するようになれば、「結局、我々が振り回されているだけではないか」と感じる人が増えてくるだろう。
これはあくまで主観的な受け取られ方の問題であり、合理的な説得は難しい。
この価値観の逆転が起きたとき、何が起こるのかは分からない。土曜日の電車に乗っていた疲れ切った人たちは、おそらく感情的な暴発や反発のしきい値が、極めて低くなっている。

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