普段からアメリカ合衆国の大量銃撃事件について取り扱うことが多いので「他国のことばかりで日本はどうなんだ」という気持ちもある。そこで町田で起きた高齢女性刺殺事件の動機に注目していた。当局の発表によると自分宛ての郵便物が届かなかったり、自宅前にごみが捨ててあったりして、気持ちがめいったから刺したのだそうだ。
カフカだかカミュだかの小説を思い出した。
「カフカだかカミュだかの小説を思い出した」で無責任ではないかと責め立てたくなる人もいるのではないかと思う。そう考えるのはもっともだと思うので批判があれば受け入れたい。ちなみに調べたところ、カミュの「異邦人」だった。太陽が眩しかったからという理由で人を殺したが周囲に理解されなかったという不条理小説だ。
ヨーロッパで不条理小説が流行した背景にあるのは急速な価値観の変化だった。社会構造が急速に変化しこれまでの「常識」が急速に崩れていった時代。人生に固有の意味などなく社会から約束事を与えられていただけという認識が広まっていた時代である。
こうした時代においてアメリカ合衆国では自分の人生の現状に意味をもたせようとする欲求が生まれる。特に人生に失敗した人が「自分の人生はなぜこうなったのだろう」と考え始める。社会的にに孤立する中で検索を通じて言語化を進めてゆき豊富に手に入る銃火器を手に取り「拡大自殺」を図るのがお決まりのコースである。
一方で日本ではこの逆の動きが見られるようだ。もともと「わがままを言ってはいけない」「公共空間では静かにして他人に迷惑をかけてはいけない」という抑圧が強く働いており、学校や家庭で「自分の欲求」を言語化する習慣が身につかない。
容疑者は
- 郵便物が届かず自宅前にゴミが捨てられていたことを
- 自治体に相談したが
- 取り合ってもらえなかったので
- ナイフを手にとって狙いやすい人を狙った
事がわかっている。
また両親と話をしたのは「一ヶ月ほど前」だった。
犠牲になった女性は人工股関節手術を受けており歩くのが遅かったそうだ。つまり「狙いやすい」人物だった。また両手に荷物を持っていた。つまり、その意味では「合理的に」ターゲットを狙っている。
誤解を受けそうなので「今回の事件とは関係がないが」とお断りしておきたいのだが、最近話題になっている「ケーキの切れない非行少年たち」では、少年院に入っている人の多くは知能に問題を抱えつつも障害とはいえないくらいの人が多いと指摘している。
こうした人達は社会に対して助けを求めることができず、そもそも自分が置かれた境遇を冷静に判断できない。
これまであった社会システムが解体してゆく中で、適切に社会に対して助けを求められない人が増えてゆくだろうということは容易に想像できるが、我々の社会はこの手の変化には極めて鈍感だ。今回の事件も「町田で起きた怖い事件」として例外処理され社会から忘れ去られてゆくのだろう。
容疑者は行政に相談したと行っているが、行政はトラブルはなかったと言っている。つまり「よくあるクレーム」を適当にいなしたから記憶に残っていないということだろう。その後何も言ってこなかったから「大したことではなかったんだろう」と行政側は感じたのだろうが、実際には誰かを殺したいほど追い詰められていたということだ。
被害者遺族は「なんでそんなくだらない理由で自分の家族の命が突然奪われなければならないのだ」と感じるのではないかと思うが、おそらくその背景には言語化されない動機がある。
