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論文・ディベート文化がない日本 高市内閣の異様な施政方針演説

13〜19分

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日本の教育は、西洋の制度や知識のキャッチアップを主目的として発展してきた。その結果、大学に進学しても論文を書き、それを基にディベートを行う文化は十分に根付かなかった。こうした論文・ディベート文化の不在は、今回の施政方針における四大臣演説に如実に表れている。

とにかく「ディベートを派手に見せればよい」と考える高市早苗総理、城内実経済担当大臣、茂木敏充外務大臣、片山さつき財務大臣の演説は、全体として極めてちぐはぐだったのである。

NHK中継が映した高市氏と茂木氏の間の絶望的な距離

NHKの中継は、どこか異様だった。高市総理の演説は非常に滑らかである。海外ではポピュリズムに傾くとの指摘もあるが、演説の分かりやすさには定評がある。重要な形容詞に強弱をつけ、自ら練り上げた原稿を丁寧に読み上げる姿は印象的だった。

しかし、その最中に中継カメラは、退屈そうな表情の茂木外務大臣を映し出す。そして、彼の演説は高市総理とは対照的に、ほぼ棒読みであった。

高市氏と茂木氏の確執とその影響

もともと両者は、岸田文雄政権下でも不仲とされてきた。政調会長だった高市氏が公明党との協力に消極的だったのに対し、当時幹事長だった茂木氏は、子どもへの一律給付をめぐり主導的に調整を行った。さらに、高市氏が北京五輪のボイコットを求めて岸田首相に直談判したことも、茂木氏の反感を買ったとされる。

独断専行の傾向については、安倍晋三氏も「性格の問題だ」と周囲に漏らしていたという。

茂木幹事長VS高市政調会長 不仲の全真相 自民党幹部「もはや子どもの喧嘩状態」(新潮)

台湾発言と外交のねじれ

案の定、高市総理は台湾有事をめぐる発言によって中国との関係を悪化させた。その対応に追われるのは、外務大臣である茂木氏である。

自らの非を認めようとしない高市総理に対し、両者の関係はさらに悪化し、「密なやり取りができない関係」とまで言われるようになった。高市氏は外務省幹部から懸命にブリーフィングを受けているとされるが、日中関係は冷え切ったままである。

にもかかわらず、施政方針演説では「戦略的互恵関係にある中国とは」と平然と読み上げた。茂木氏との関係が悪化するのも無理はない。

「高市さんが官邸で心を許しているのは2人だけ」 ブレーン不足の“異常事態”の裏側(新潮)

「見栄え重視」の政治姿勢とその弊害

このように、高市総理は「とりあえず見栄えのよいディベートができれば、裏付けがなくても構わない」と考えるタイプのように見える。

Reutersも、単年度主義の廃止構想について「制度設計が伴っていない」と懸念を示している。高市総理は演説づくりには熱心だがその背景整備には全く関心がない。

高市早苗首相は20日、就任後初めての施政方針演説に臨んだ。真っ先に訴えたのは金看板でもある「責任ある積極財政」だ。実現に向けた手段として「予算編成の大改革」も掲げた。複数年度予算や多年度別枠管理の仕組みの導入を図るという。ただ、制度設計の具体像はまだ見えず、メリットやデメリットに関する議論はこれからだ。市場の関心も高い「目玉政策」だけに、自民党内や専門家の間には期待と不安が渦巻いている。

マクロスコープ:高市演説の「目玉」に期待と不安、予算大改革が意味するもの(REUTERS)

こうしたディベート中心主義は、城内経済担当大臣にも共有されており、結果として彼の演説にも中身の乏しさが目立った。

一方、茂木外務大臣は実務型・職人型の政治家であり、演説は得意ではない。つまり日本では、「裏付けのない主張を垂れ流す政治家」と、「実務能力は高いが発信力に乏しい政治家」とが分離しているのである。

例外としての片山大臣

この中で例外といえるのが片山財務大臣である。大蔵省時代にフランス国立行政学院(ENA)に留学し、論文を基礎に議論する訓練を受けてきた。しかし中継を見る限り、彼女も「高市流演説」の模倣に苦労しているようだった。内容は理解しているが、それを「受ける表現」に変換する際に、頭の中で翻訳プロセスが生じているように見える。理屈では理解していても、実践には負担が伴うのである。

「見栄え重視」の結果、きちんと訓練を受けている人が浮いてしまうのだ。

有権者の側の問題

そもそも日本では、有権者自身も論文やディベートの訓練を受けていない。そのため、「中身のない演説」であることを深刻に受け止めない傾向がある。「安心感を与える政治家がいればよい」という発想が、結果として支持されてきたとも言える。

失われた余裕とそれに気が付かない独断専行型リーダーが損なう国益

日本の通貨価値はピーク時の3分の1

しかし、日本はもはやそのような余裕を失いつつある。日本経済新聞によれば、円の実力はピーク時の3分の1にまで低下した。失われた31年の間、低成長と低金利が定着した。アベノミクスは低金利を固定化したが、その間に構造改革を進める努力は十分になされなかった。国民に痛みを伴う改革は、選挙で不利になるからである。

円の「実力」ピークの3分の1 最低を更新、購買力の低下止まらず(日経新聞)

繰り返される高市総理のスタンドプレー

岸田政権下でも、スタンドプレーと独断専行が目立った高市総理は、負担論を国民会議に押し付けようとしたが、恣意的な政党選択が反発を招いている・

また、審議時間を削減してでも予算案を年度内に成立させようとしている。自己都合で審議を遅らせておき、「成立したから議論は不要だ」とする姿勢に対し、野党は反発を強めている。

失われた30年の背景にある「考えさせない」日本の思考様式

結局のところ、問題は特定の政治家の資質にあるのではない。論文を書かず、議論せず、検証しないという、日本社会そのものの思考様式にある。

高市内閣の施政方針演説が空洞化して見えるのは、偶然ではない。それは、長年にわたって「中身よりも雰囲気」「説明よりも安心感」を優先してきた政治と、有権者との共犯関係の帰結である。

有権者自身もまた、政策の裏付けや論理構成を問う訓練を受けてこなかった。その結果、「分かりやすいが中身のない演説」が支持され、「地味だが重要な説明」は軽視されてきた。

しかし、日本はもはやそのような余裕を許される状況にない。財政、通貨、産業競争力のいずれを見ても、先送りの余地は急速に失われつつある。

にもかかわらず、政治がなお「見栄え」と「演出」に依存し続けるならば、日本は静かに、しかし確実に衰退していくだろう。

問われているのは、高市内閣の成否ではない。論理を求め、説明責任を要求し、議論に耐える政治を選び取る意思が、社会に残されているかどうかである。

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