9,100人と考えAIとも議論する、変化する国際情勢とあいも変わらずの日本の行方


維新の身を切る改革の次は増税になる理由

11〜16分

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このエントリーでは維新の「身を切る改革」の次に増税や別の形での負担増が来る理由について解説する。この戦略がうまくゆくかゆかないかはこれを読んでいる人たちの「主観」にかかっていると言える。つまり政治が身を切ったんだから次は私たちだと説得された人が多ければ成功と言えるが、失敗すれば縮小均衡に陥る。

自民党と維新が「衆議院の定数削減」法案で合意した。選挙区を25削減し比例を20削減するという内容で、これがうまく行かなければ自動的な1割削減が行われるという内容。

野党は「なぜ1割削減するのか理由を示しなさい」といっているが、すでにAIによるモデル化を読んでいる人は「これは象徴的な意味しかない」と理解しているはずである。つまり1割に根拠はない。

日本はこれまで構造的にフリーライダーを容認し、一部はレントシーカーになっていたというのがGeminiとChatGPTの「出力」だった。このため変化を嫌う人が増えているが、これを「イニシャルコストを支払いたがる人が減っている」と置きなおしたのがAI議論の特徴だ。いずれにせよゼロサムゲームから抜け出せなければ日本の将来は暗い。

バブル期を知っている中高年世代が政治とカネの問題にうるさかった理由はこのあたりにある。例えばグリーンピアは公的年金を横流しして作られていた。官僚の天下り先になっていたのだが結果的に官僚も政治家も責任を取っていない。このようにルールを決めた人たちだけがおいしい思いをして負担は国民に押し付けるというのが政治の定番の処理方法だったのである。

このため中高年は今でも政治家の「政治とカネ」の問題を疑っているが、そもそも高度経済成長期に資金が潤沢に余っていた時代を知らない若年世代とは感覚を共有できていない。

例えば今日のニュースにも「責任を取らない政治家」のニュースがある。これも「象徴的」に扱われている。

長年続いた不信から抜け出すためにはまず誰かがコストを支払って見せなければならない。そのコストの象徴が「定数削減」なのである。つまり身を切ってみせたわけだ。つまり必然的に次は「私たちが身を切ったんだから次はあなたがたですよ」ということになるはずである。つまり具体的な増税や負担増の話が出てくるだろう。

今回の維新の戦略はニュースを通じて「政治家もこれだけ頑張っているんだから我々もイニシャルコストを支払おう」と考える人が増えれば成功と言えるだろう。一方で自民党・高市政権も「維新のガイアツ」を利用して既得権を持っている人たちを説得できるかもしれない。

しかしながらこの戦略は当然2つのリスクを抱えている。

1つは有権者が「これは海老で鯛を釣る」類の話なのだと理解してしまうというリスクだ。つまり自分たちが損をすると考えた場合にはこれまでの高い支持率が一気に失望に変わることになる。少なくとも政治とカネの問題に高市政権が消極的なことは明らかだ。野党は今のような居心地の良い均衡を保つためにおそらく盛んにこの問題を攻撃するだろう。

もう1つは「長く続いたゼロサム」ゲームでとにかく自分たちは何も持ち出さないことを決めている人たちを説得できないリスクである。特に安倍総理時代は「日銀の金融政策によって増税はけっして行わない」と主張していた。また高市政権も「私の任期中には税率を上げることはない」と言っている。

つまり現在の高市政権の高い支持率は「高市さんなら私たちが変わることなく=何も支払わずに、結果だけをもたらしてくれると約束したから」こその高い支持率である可能性がある。

彼らはおそらく増税の話が出てきた段階で「国家はいくらでもお金を印刷することができるのだから国債を無制限に発行すればいいではないか」と抵抗するかもしれない。

つまり誰もコストを出さないままに緊張状態が生まれてしまう。すると「誰も何も出さない=ゼロサム世界」が「お前のほうがもっと身を切るべきだ」という消耗戦=縮小ゲームに変わってしまう。

すでに日本は何もしなかったための縮小が始まっている。

自民党は少子高齢化対策に成功しておらず今後橋や水道などのインフラに多額の資金を必要とするようになりつつある。下水点検を強化する法令改正が検討されているが「問題が見つかれば修繕する」事が前提となる。また介護保険の応能負担の検討も始まった。仮に高市政権が増税をしないし国債の発行も増やさないとなると「税金の外の負担増」が増えることになる。これに気がついた有権者は「これでは増税と変わらないではないか」と考えるだろう。

このように考えると、そもそもこの作戦が成功するかの鍵は「高市政権がどの程度戦略的なフレームを持っているか」ということになりそうだ。つまり、早めに成長戦略を打ち出したうえで国民に対して「負担増はそのためのイニシャルコストなのだ」と示さなければならない。そのためには野党ではなく「国民(特に何も持ち出さないことを決めている支持者たち)」を説得しなければならない。

少なくとも長い間ゼロサム世界を生きてきた我々はおそらく「成長」そのものを信じなくなっている。だからこそ自分たちが率先してコストを支払うことに強い抵抗感を持つのである。今回の自民党と維新の協力はかなりの劇薬になるかもしれない。改革に失敗すれば「どちらが多く身を切るか」の縮小ゲームに陥る。

今回の一番の懸念点は維新のカウンターパートになっている鈴木幹事長がおそらくゲームの本質を理解しておらず「損の最低化」にこだわっている点だろう。仮にゲームが不発だった場合にはゼロサムゲームの維持となり何も変わらないが、定数削減のデメリットと議論の混乱だけが負債として積み上がることになる。仮に有権者がこれを「海老で鯛を釣る」と理解するとこれまでのゼロサムが縮小均衡ゲームに陥るリスクもはらんでいるわけである。

つまり高市政権は全体像として定数削減で何を目指すのかを説明しなければならなかったがそれに失敗しつつあるということになる。