石破総理が戦後80周年談話発表の見送りを決めた。ただし状況を見て秋以降に談話を発表する可能性があるとしており「総理大臣を辞めるつもりがない」ということもわかる。この問題について考えるとなぜ日本が没落しつつあるのかがわかる。
そもそもなぜ談話を発表するのか。それはアジア各国との関係を強化するためである。このアジアに中国は含まれない。中国共産党は抗日戦争に勝利したことを統治の正当化のために使っている。実際には日本はアメリカ合衆国に負け結果的に大陸から撤退しているのだしその時に戦った相手は共産党だけではない。だがその根拠が不確かであればあるほど中国共産党は原点を動かすことはできない。中国共産党は「中国共産党は清の国際的地位を直接引き継いだ」と主張しておりこの物語が崩壊すると統治秩序が崩壊してしまう。だから中国共産党との歴史認識問題は不毛である。
これをよく表しているのが福田ドクトリンだ。ASEAN諸国に対して軍事大国にならないと示している。
しかし日本人はそもそも「経済・安全保障連携を多角化し未来の選択肢を増やす」という戦略的志向は持たない。代わりに「お気持ち」が優先されてしまう。福田赳夫氏が作った清和会の中でもこの価値観が正しく共有されているとは言えないしその周辺にいる保守の人々もおそらくこの原則を理解せず、中国とその他のアジアがごっちゃになっている。
そもそも「外国人問題」がすべて一緒くたになっており、日本が謝罪するのはどこか惨めな気持ちになると感じる人が多い。また経済的に中国が発展しているという焦りがあるため中国側からのクレームを必要以上に重く受け止めてしまう。
日本は民主主義国なので戦略についての議論があってしかるべきだろう。だがそもそも戦略志向を持たないので戦略の取捨選択ができない。
自民党が今回の参議院選挙の総括ができないのも戦略性のなさが原因だ。
日本はプラザ合意で戦後の日本を支えてきた通商優位性を失った。これに代わる新しい優位性を獲得できなかったことが失われた30年につながっている。ところが自民党はこれを総括できなかった。
民主党政権を経て政権に復帰した安倍総理の選択は問題の先送りだった。これがアベノミクスである。事実上の財政ファイナンスは円安インフレを招いたが当時は「円安は製造業にとって良い」とされていた。しかし実際の製造業は海外に流出した後だった。
安倍政権の後期には新型コロナ禍が起きる。またウクライナ情勢が悪化しついに日本でもアベノミクスの前提だった「停滞経済」が崩れる。更にトランプ大統領は同盟国との関係強化や自由貿易を放棄した。
だが国民は一連の新しい現実を受け入れることができず「物価高対策のために減税か給付」の求めている。拡張する財政はますます円安要因になるにも関わらずこれまでと同じ「フリーランチ」を求めているのである。
今回の保守の離反の原因は安倍総理がアベノミクスを通じて「フリーランチ」を売り出していたことが原因になっている。
統一教会問題で清和会が崩壊するとますます安倍総理は正しかったと言いたい人が増える。経済問題や安全保障問題など多くの問題がタールボールのように癒着しており一種の宗教的空間を作る。安倍総理の政策を否定するものは決して許すべきではないという雰囲気である。だが自民党はもはや安倍的政策は維持できない。前提条件が大きく崩れてしまったからだ。
結果的に今はインフレなのかデフレなのかという現在地を明らかにできないまま「議論」が進展している。自民党が負けたのは石破総理が「悪い」からであって、石破総理さえ交代すれば問題は解決すると考える人も多い。SNSでの情報発信に出遅れたと議論を矮小化する人も出てくるかもしれない。
結局、戦後総括の問題は「自民党のどの派閥が正しいのか」というムラの議論に矮小化されてしまっている。自民党を離党した世耕弘成氏は盛んに石破総理を攻撃する。自民党側は望月良男参議院議員を除名した。世耕弘成氏について自民党を支援しなかったというのがその理由である。
今回の一連のニュースはまず8月15日には戦後80年談話を出さないが9月2日に談話を出す(かもしれない)と発信したことが起点にあるようだ。その後、8月15日にも9月2日にも談話は出さないと軌道修正された。
ところが朝日・読売ともに「秋以降に様子を見て談話を出す可能性がある」と匂わせている。参議院選挙での敗北が決まるまえに「記者会見をやります」と言って続投を宣言した石破総理だけに「秋以降も総理大臣として居座るつもりなんだな」ということがわかる。
自民党は惨敗の原因を総括できないので、石破総理に代わった総理大臣が自民党を再扶養させられるかどうかは未知数である。そもそも自民党が振りまいてきた根拠なき夢を信じられない有権者が増えていると考えると、総裁選で人気が浮揚するとは考えにくい。
結局自分に代わる候補は出ないだろうと石破総理は考えているのかもしれない。その見込はあながち間違っていない。

“石破総理が戦後80周年談話発表見送りか?” への5件のフィードバック
Inoue Hidezumiさま
日頃より、プロセス観戦的なブログを楽しみに拝読いたしております
私は日頃より様々な国内外の動向に興味関心を抱いておるものの、自身の稚拙さ故、自ら語ることは行っておりませんが、現下の国内政治や諸外国間の紛争、経済格差と教育格差の拡大と分断化に解決策が存在しないことに思案を巡らせております
さて、以下に初めて投稿させていただく失礼をお許しください
先の参議院選挙で詳らかとなりましたが、ここ最近の日本の政治家の言葉を軽視する流行(ポピュリズム)に思いを馳せてみた次第です
ご一読いただけますと幸いです
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構文で逃げる政治―その正体
【構文なき責任と言語の空洞】
「説明責任」とは
「説明責任」とは、いまや誰にも説明しないための枠組みとなりつつある。
「ご理解いただきたい」という語の裏には、説明の放棄と宥和の演出がある。
日本の政治言語において、最も顕著な構造は目的語の欠落である。
誰に向けた語なのか。何を伝える意志なのか。その「関係性」が排除された言語が、公共空間を占めている。
*目的語とは、文の中で動詞の動作の対象となる名詞や代名詞などの語句のことです。例えば、「リンゴを食べる」という文では、「リンゴ」が目的語になります。
語は空中に放たれる。だが、それは他者との対話ではない。
空気と秩序に向かって発される、「語りの儀礼」である。
この語りの構文は、敬語・婉曲・仮定法といった日本語の特性に支えられながら、「語った事実」だけを残す。
語ったという履歴が、語られた内容に勝る。
結果として、言語は「構造的責任」の代わりに、「感情的誠意」のフリをする。語られる語は、誠実さの演出であり、責任の迂回装置である。
責任の所在を曖昧にしながら、誠意を語る。
これが日本の政治言語における構文的誠意の正体だ。
――問い
「語られることが、誠実さの証左となるのはなぜか。」
「構文は、責任を明示する手段ではなく、責任を消去する技術となるのか。」
【「国民の皆様」という幻影】
政治の語りは、常に「国民の皆様」から始まる。
だがこの言葉は、関係性を築くための呼びかけではない。
それは、説明の対象をぼかすための幻想的宛名である。
「国民の皆様に向けて」―そう語られるとき、「個」は消去され、「集合」は記号化される。
この語は、誰でも含まれるようでいて、誰も含まれていない。
政治的語りの中で「国民の皆様」は、責任の受容者ではなく、語りの正統性を保証する舞台装置となる。
発言の内容よりも、語りの様式としての「皆様」が、語の効力を支えてしまう。
その結果、個別の声は「一部の意見」「特殊な事情」として切り捨てられ、「皆様」によるノイズ除去が行われる。
この構文において、民主主義の語彙は操作される。
包摂を語りながら、実際には排除を行う。
我々は、「皆様」という語のなかに取り込まれながら、自らの声を失っていく。
語られる対象としてではなく、語りの効果を高める記号として「存在させられる」。
――問い
「語りの正統性は、語られる対象の透明化と引き換えに成立するのか。」
「『皆様』とは、他者への接続か、それとも説明の遮断か。」
【謝罪語は反省を意味するか】
「誠に遺憾です」「お詫び申し上げます」――これらの語が発せられるとき、謝罪は始まらない。
むしろ、その瞬間に「謝ったふり」の儀式が幕を開ける。
謝罪とは本来、因果の認識に基づいた関係性の修復行為である。
だが現代の政治言語において、それは意味から離れた演技的構文にすぎない。
たとえば、戦後80年という節目に、首相が記念談話の発表を見送ると表明した場面を思い出そう。
語られたのは「継続的な熟慮」「関係性への配慮」。そこに反省の語彙はなかった。
あったのは、政治的失点を避けるための語の配置のみである。
謝罪語の構文は、「責任」よりも「危機回避」に奉仕している。
語られる「申し訳ありません」は、事実認定ではなく印象操作の道具として機能する。
我々は、語の意味を信じるのではなく、語の演出を「誠意」と誤認するように訓練されてきた。
ここで注目すべきは、謝罪が向けられる対象が「関係する他者」ではなく、世間や空気といった集合幻想になっていることだ。
責任の所在を個に還元せず、「皆様」に分散させることで、語られた謝罪語は倫理を迂回する。
つまり、謝罪語は語られても、責任は語られない。
謝るふりはしても、反省の構造は導入されない。
そしてその構文に慣れた我々もまた、「語られたこと」だけで関係の修復が済んだと思い込む。
語が倫理を代替し、構文が関係性を演出する――この操作において、謝罪は語彙のパフォーマンスになり果てる。
謝罪語が反省を意味しない時、言語はもはや誠意の器ではない。
それは、政治空間において、責任を免れるための倫理的装置となる。
――問い
「謝罪は、語られた時点で完了するのか。」
「反省なき謝罪語が意味するのは、何か。」
【小泉構文の断片性と語法の矛盾】
「痛みを伴う改革を」――小泉純一郎のこの語は、改革の正当化ではなく、説明の打ち切りとして響いた。
語られた政策は常に「未来のため」と抽象化され、具体的な構造説明を回避するスタイルが貫かれていた。
小泉構文の核心は、語の断片性にある。
「自民党をぶっ壊す」「郵政民営化が日本を救う」――それらは説明ではなく、“聴覚的に共鳴する語彙”として配置された。
内容の整合性よりも、語感の強度が優先される語法である。
この語りの中で、「痛み」も「改革」も具体的な輪郭を持たない。
それらは感情や覚悟を想起させる記号として使われ、語の背後にある論理構造は排除される。
語としては明快。だが意味としては不連続。
「ぶっ壊す」という表現は行動への意志を匂わせるが、何を・どこまで・どのように壊すかは語られない。
ここに、“言葉と現実の乖離”がある。
さらに、小泉構文は語のなかに矛盾を内包する。
民営化による効率化を掲げながら、公共性の維持も主張する。
痛みを強調しながら、それが「幸福への道筋」であると断言する。
これは、“言語が逆説によって意味の説得力を増すという構文的操作”である。
小泉構文は、語の飛躍力を利用する。
論理で結びつけるのではなく、“語と語の間を跳躍することで聴衆の感情を導く”。
語彙の構成が説明を担うのではなく、演出を担う。
結果として、曖昧さは技術となり、矛盾は様式となる。
言語の内容よりも、その語られ方が政治を設計する。
この構文において、説明は不要となり、「語の気配」だけが支配する。
――問い
「語られるリズムは、説明の代替となり得るか。」
「政治言語において、矛盾は果たして意味の破綻か、それとも語法の技術か。」
【アベノミクスにおけるケインズの錯誤利用と経済論理の形骸化】
「大胆な金融政策」「機動的な財政政策」「成長戦略」――三本の矢は、一本ずつでは機能せず、束ねても目的が曖昧だった。
アベノミクスの論理は、ケインズ経済学を援用しながら、その“本質的前提を黙殺する語法設計”にあった。
ケインズ理論の核心は、“有効需要の管理と社会的投資の最適化”である。
しかし安倍政権の財政拡張は、「投資」よりも「印象」に向かって設計された。
公共事業の復活は、地域振興ではなく“統治のプレゼンス”として用いられ、
雇用創出のロジックは、産業構造の更新ではなく“過去への回帰”を志向した。
日銀による異次元緩和は、ケインズの「利子率の管理」とは程遠い。
ゼロ金利下での国債購入は、資本の流動性選好を歪め、
「円安による輸出拡大」という20世紀的理屈に固執することで、
グローバル経済における日本の位置を“誤認した構文操作”であった。
最大の問題は、ケインズが“需給ギャップの埋め合わせを短期的に行うために国家が介入する”という設計であるのに対し、
安倍政権はそれを“恒常的な構文として内政に埋め込んだ”ことにある。
つまり、政策が“危機対応ではなく統治様式へと変質した”のである。
さらに、「物価上昇は景気回復の証」という論理展開は、 購買力の維持や所得分配の前提なしに語られた。
インフレ率とGDPの相関を“構文で先行させ、実証を後回しにする構文詭弁”がここにある。
語られるケインズと、適用されたケインズは別物だった。
本来ケインズが憂いた「動機なき市場の過剰信仰」に対し、 安倍政権は“動機なき国家介入”を正当化したのである。
この経済構文において、「成長」は指標ではなく語彙となり、
「景気回復」は数値ではなく印象操作となった。
語られたケインズは、構文上で「説得」されただけであり、“理論的には援用されていない”。
――問い
「援用とは、語ることによって他者の思想を解釈不能にすることなのか。」
「ケインズの名は、経済理論か、それとも統治の飾りか。」
【構文と責任の消去技術――語りにおける政治の三断面】
「語ること」は、もはや説明ではない。
それは、政治の場において「責任を演出する語法技術」として転化された。
現代日本政治の三党――自民党、民主党、参政党――それぞれにおける語法の特性を通じて、「構文なき責任」の現在地を探る。
第一節:自民党――語られた構文、語られない前提
自民党の言語は「継続」と「安定」に包摂されている。
しかしその語りは、「説明しないための安定」であり、「変化を語らない継続」である。
特に、石破総理が戦後80周年談話の見送りを表明したことは、“責任から逃れる構文の典型”である。
語ることで語らない。語ったふりをすることで語彙の正当性を演出する。
この語法は、「語られる構文が、むしろ政治的責任を空洞化する装置」として機能している。
第二節:民主党――説明の連続と目的語の迷走
民主党の語りは、自民党に比べて「説明責任」を意識するが、それゆえ語の連続に陥りやすい。
説明はなされる。だが、その目的語が不明瞭である。
「現場の声を尊重する」――だが、それは誰の声なのか? 誰への寄り添いなのか?
説明の連続は、“構文の過剰による意味の希薄化”を招き、むしろ政治的意志の曖昧化に加担する。
民主党語法は、「語ろうとすること」が「語れなくなること」へと反転する危うさを孕む。
第三節:参政党――語彙の明快さと意味の遮断
参政党の言語は、語彙としては明快である。
「日本人の命を守る」「日本を取り戻す」――だが、その語彙は構文化されていない。
構文の設計がなされず、“語の意味が自己完結し、説明への接続を拒む”。
結果、語彙が主張となり、論理が排除される。
この語法は、「語りによって説明を拒絶する構文なき主張」として、日本政治に新たな演出政治を導入した。
語法と構文の解剖を通じて見えてくるのは、「語ることの責任」が構文によって演出され、説明されることが、実は説明を遮断する技術となりつつあるという構造的逆説である。
言語は常に思想の器である。
だがその器が空虚であれば、語られる語は、責任ではなく演出となる。
――結びの問い
「語られることが、責任の証左となるとき、語られない構文は何を隠すのか。」
「構文なき語彙は、政治を語る器なのか、それとも語ることの遮断なのか。」
冒頭、漢字で私の名前が入っていましたが違っていましたので編集しました。その他はそのままにしてあります。長文のご投稿ありがとうございました。
お名前を間違えてしまい
大変失礼をいたしました お許しください
ご一読いただきありがとうございます
ご多用と存じますが、このコメント欄への投稿に対するInoueさまからの返信などをいただくことなどはたまにはあり得るのでしょうか?
あるいは、このコメント欄は各位がInoueさまの意見に対する自らの感想を述べるに留めるものなのかを、お手数をお掛けいたしますがご教示いただだけると幸いです
政治言論の要諦は記事の向う側にある人々の気持ちを想像するという点にあると思います。その意味ではまず馴染みのない人から長文を見せられてとにかく内容を講評せよと迫られたときに人がどういう気持ちになるかを考えてみると良いと思います。
一方でコメントを送ってこられるからにはいい評価が得られなかったらどうしようと逡巡しつつ、つい長くなってしまうということも想像に難くありませんよね。
そもそもコメント欄は(あくまでも一般論ですが)あるトピックについて追加意見・追加情報・感想を表明するものであって、一から投稿を起こすには向いていません。また、さらに最初からまとまった文章を書くのはなかなか大変です。最初はおそらく構成をコントロールするのが大変なので短い文章から出発して徐々にいろいろな構成を覚えてゆかれるのが良いでしょう。
Quoraは投稿を通じて文章をまとめてゆく訓練ができるようになっています。しかし他人の質問を起点としているため自分が書きたい問題意識にぴったりな質問が見つからないというジレンマも抱えがち。こうしたジレンマを解決するために政治について比較的投稿できるスペースをご用意して投稿をお待ちしております。まずQuoraのアカウントを作るところから始め(すでにお持ちかもしれないですが)まずはゲストとして何回か投稿して見られると良いと思います。馴染の人ができてくればそれなりにフィードバックがもらえるようになると思いますが、関係を構築するのにはそれなりに時間がかかるようです。
ご指摘ご尤もでございます
素人の与太話を申し上げてしまい、反省いたしております
また、ご丁寧な返信を賜りありがとうございました