維新の吉村洋文代表がなぜか「高市総理の解散判断を容認する」と発言し、違和感を感じた。だがその違和感を書こうとしてこれはそのままでは伝わらないなと気がついた。前段の議論が抜けているからだ。
違和感の正体は「責任回避」だった。
先日暇つぶしに「天皇幽閉仮説」を立ててGEMINIに質問した。最後には「なるほど論理的に滑りがいいAIは逃げ場なんですね」と言われとても嫌な気分になったのだが、暇つぶしとしては面白かった。
この仮説は藤原良房が天皇を封じ込めて政治利用し始めたところから始まる。「閉じ込める」と言っても無理やり押し込めたのではない。孫(清和天皇)を若くして天皇の位につけて教育した。藤原道長がその頂点だった。天皇はけっして外に出てはいけないというタブーを作り洗脳して閉じ込めた。そしてその時に神道の呪縛を用いた。統治=穢という概念を持ち込んだのだ。
GEMINIはこの洗脳を破ったのが白河上皇であるという。中宮定子の落飾は悲劇として扱われたが、白河上皇は「天皇という地位を捨てなければ自分は権力を握れない」と気付いた。白河上皇の父は藤原家を外戚に持たないがそれでも幽閉を逃れるためには天皇の地位を捨てるしかなかった。
ここで白河上皇は中宮定子と同じロジックを使っている。神道は穢が扱えないので天皇も貴族も穢が扱えない。しかし仏教は死穢を扱うことができる。だから貴族に勝つことができた。ところが結果的にこれが死穢を扱う武士を「パンドラの箱」から出すことになった。
ではこのパンドラの箱状態はいつまで続いたのか。そしてどう収まったのか。
徳川家康は再び天皇を幽閉した。戦国時代とは天皇という生きた神を外に持ち出すことに成功したものが権力を得られるという体制だった。これは500年ほど続いたという。
日本は機関を作って混乱を平定するという「民主主義」」が発明できなかった。その前の段階の諸派の危ない均衡も成立せず絶えず混乱した状況が続いたからだ。NHKの大河ドラマにおいて戦国時代は「克服すべき混乱」と位置づけられることが多い。江戸幕府は天皇を幽閉し再度隔離することで安定を取り戻したのだった。この戦略は260年は有効だった。
この「中空仮説」は昭和時代から多くの知識人によって語られてきたのだが、AIの登場によって誰でも簡単に「暇つぶし」として「到達」できるようになったのが面白いところである。
ではそれがなぜ吉村洋文代表につながるのか。これも順序立てて語る必要がある。
戦後の憲法は国民を主権者として置き(つまり国の命運を担う責任を国民に付与した)議会をその代表にした。そして内閣は連帯して議会=国民主権者に行為責任と説明責任を持つことになった。つまり機関的に役割分担をした。これは日本人が独自で発明できなかった「責任分担論」である。
ところが維新は「自分たちは内閣に入りません」と主張しこの責任から逃げた。つまりこの時点で憲法の形骸化が起きている。戦後80年経って起きた大変化だが多くの人はこれに違和感を感じず高市総理もそれを受け入れた。日本国憲法は日本人にそれほど理解されていないとわかる。
ところがここで計算違いが起きる。維新が掲げていた議員定数削減の先行きが見通せなくなっている。そこで「維新は結局政権を離脱するのか、それとも議員定数削減は単なる言い訳だったのか」の説明を迫られている。形式与党であっても結局は説明責任から逃れることはできない。むしろ、形式的に更に曖昧な形での説明責任を求められるようになった。
どうすればここから逃げられるのか?
吉村代表の発言は「解散をやめてくれとは言えない」が「解散しようという空気は感じられない」としている。自分が主体的に解散を働きかけるつもりはなく再び部外者ポジションに置き「いつでも受けて立つ」と言っている。大阪府知事(国会議員ではない)から成立する立ち位置だ。
つまり彼らにとっての出口は今の国会がリセットされることだけということ。
この苦しい胸の内を示唆するように藤田文武共同代表も「国民民主党もこの曖昧連合に加わりませんか?」と秋波を送っている。連立与党としての風当たりが弱まることを期待しているのだろう。
維新はこれまでもこうした危ない均衡を渡り歩いてきたんだろうなあという気はするのだが、カメラを引いてみると、主権者たる国民も政府もできるだけ責任の所在を曖昧にしようとしていることがわかる。
有権者も含めて日本人は機関的に責任を分担するという行為に強い拒絶感をもっているということがわかる。
しかし「何かをリセットする」ためには大義が必要。自民党議員たちもどうせ自民党の支持率が上がることはないのだし、高市総理の賞味期限が切れる前に、できるだけ高市人気を高く売りたい(=より多くの議席を獲得したい)と考えているはずだ。
しかし実際には高市総理には解散の大義がない。構造は興味深い。
高市氏と維新の吉村洋文代表(大阪府知事)は16日に会談し、定数削減について通常国会で実現させるべく引き続き連携することで合意した。通常国会の会期は150日。腰を据えた議論も可能だ。前出の自民幹部は「定数削減で野党と折り合わなければ、高市氏はその賛否を問うという大義を掲げて解散するかもしれない」と読む。
維新は「出口」としてのガラガラポンである解散を求めている。しかしながら高市総理が解散するとしたら「維新の連立維持の前提条件である議員定数削減」が大義になる。さらに自民党の中には「維新に対するうっすらとした不満」が蓄積している。この方程式を解くのは人間には難しそうだ。結果的に責任から逃れるための「大義」を探すと「責任を負う」事になりかねないという興味深い状況が生まれている。

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