比例代表投票先として参政党が3位に躍進した。事実上の政権選択選挙と言われたが別の意味で日本の将来の分岐点になるのかもしれない。わかりやすく言えばそもそも民主主義が存続しうるのかそれとも日本人が民主主義を放棄しようとしているのかという選択だ。
そもそも左派リベラルとはなんだろう。国家が高度経済成長を成し遂げると今度は暮らしを充足させるだけではなく「自分たちが心から満足できる社会を作りたい」という内なる願望が生まれる。この自己実現欲求に支えられたのが左派リベラルだ。
ここから考えを巡らせると今度はそもそも資本主義とはなにかということを考えたくなる。資本主義は社会階梯の上昇を通じて他人からの承認を得る過程であると定義することができる。
これを自己実現だという人はいるだろうが、自己実現は他人からの承認なしでも得られるものなのでここは区別して考えるべきであろう。
高度経済成長期は社内昇進を経て承認欲求を満たすことができる社会だった。承認欲求をある程度満たされた人は今度は「社会のためになにか良いことをしたい」と考えるようになる。これは経済的な繁栄を謳歌したカリフォルニア州や経済成長の果実を謳歌したドイツでもあった動きだ。地球の将来を考えたり他人の気持ちを慮る包摂主義が芽生えたりする。
ところがアメリカ合衆国ではこうした社会的成功からあらかじめ除外されていた人たちがいた。製造業地域は1980年代に反映から取り残され今でも「日本が成長を盗んだ」と恨んでいる。今やライバルは中国だが彼らが中国と日本を別の国として識別できているかはよくわからない。それくらい地理が苦手な人達が大勢いる。かつての単工業が盛んだった地域は更にひどい状況にあり薬物汚染で家庭が崩壊したという地域も多い。バンス副大統領のヒルビリー・エレジーなどがその一例である。ドイツでも成功から取り残された東ドイツ地域から排外主義の運動が広がっている。
取り残された人々はカリフォルニアなどの「意識高い系」の運動を敵視するようになる。この結果生まれたのがアメリカ・ファースト運動やドイツのAfDへの支持拡大である。日本の日本人ファーストはこの輸入版。同じような忘れられた人々を刺激するために設計されており最終メッセージは自由の放棄を呼びかけることである。
成長から取り残された日本にはすでに「本物の意味での包摂主義」を成り立たせる余裕はない。立憲民主党は比較的恵まれた条件で働く組合員と生活に余裕がある市民運動の連合体だ。しかし組合の組織率はすでに落ち始めている。おそらく都市の市民運動もかなり弱体化しているはずだ。世田谷・杉並・武蔵野市など裕福な地域には市民運動を支える専業主婦がいるが共働きの女性は市民運動に参加する余裕はない。近郊地域の市民運動も軒並み高齢化しているはずである。
今回の参議院議員選挙で連合は蓮舫氏ら都市の市民運動から支持される人々の躍進を恐れている。連合の支持だけでは勢力を拡大できない国民民主党は生活に不満を持つ氷河期世代を取り込もうとした。こうして先細る支持者たちの奪い合いが起きている。
今回の参議院選挙の途中経過で当ブログのリベラル勢力への言及が少ないと感じた人は多かったのではないか。実はこの間の立憲民主党の政治家たちは「政党名ではなく自分の名前を書いてくれ」と盛んに主張していた。つまり立憲民主党という塊はすでに存在しないため言及のしようがなかった。比較的恵まれた市民階層なしには成り立たない政党でありもはやそんな層は存在しない。トランプ関税の影響が明らかになれば連合などの労働組合系はますます弱体化するはずだ。
既存の政治家たちは氷河期世代のルサンチマンを「制御可能」と考えて侮っていた。
下野していた当時の安倍晋三氏は自分たちこそが本来の中流だと考える「盗まれた」人たちの気持ちを引きつけることに成功する。安倍総理は「難しいことはこっちで考えるからあなた達は変わらなくていい」とのメッセージを発出し彼らを惹きつけた。このため「この手のルサンチマンは懐柔できる」と考えてしまった。
しかしながらQuoraで話を聞く限り彼らは合理性そのものを恨んでいるため対話が成立しない。彼らは就職活動時から人生はクソゲーに過ぎずリセットボタンもないままに負け続けるしかないゲームに参加させられてきた。そしてそれは1992年の就職戦線で突然なんの前触れもなく始まっている。
このため彼らは合理的な建前が出てきた瞬間にそれを壊そうとする。極めて強い破壊衝動を持っているが一人で立ち向かうのは怖いという気持ちがあり抑圧されたままだ。
経済が下向き始めた時点でリベラルはすでに敗北している。民主党は2009年から2012年間までの間にトレンドを反転させることはできなかった。力を合わせてよりよい社会を作ろうと言う理想を信じる人は今や極めて少数派だ。
一方脱落世代は「自分たちは権力構造の一部なのだ」と自分たちを信じ込ませてきた。
参政党は終盤盛んに「難しいことは考えなくていいのです、すべて参政党に任せてください」と計算されたネットキャンペーンを流している。自由からの逃走はクソゲーにルサンチマンを募らせる人々にとっては最後の福音。合理性が破壊されれば破壊されるほど「今までのゲームのルールは間違っていた」という証明になるのだが、これは実際に彼らと接した人でなければ実感できないであろう。
だがそうは言っても就職氷河期世代はマジョリティではない。問題はうっすらとした違和感を感じる普通の人々がこのメッセージにどの程度反応するかなのだろう。支持が限定的であればまだ心配する必要はないのだろうが意外と広く病態が広がっていたとなれば日本はこのまま戦前のように「自由からの逃走」路線をひた走ることになるのかもしれない。
その意味では今回のトレンドを「保守」とか「右傾化」と捉えるのは間違っているんだと思う。日本でまだ民主主義が存続しうるのかが試されている。その意味ではどの年代が参政党を支持していたのかは極めて重要な指標となるはずだ。
