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トランプ大統領がアルゼンチンの政治に露骨な介入

8〜13分

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トランプ大統領がアルゼンチンのミレイ大統領に援助を申し出た。ところがこの援助は条件付きで結果的にアルゼンチンの政治に対する介入になっている。アメリカ合衆国は以前ほど民主主義を大切に考えなくなっているということがわかる。

ではアメリカ合衆国が民主主義を重んじなくなったことはいいことなのか悪いことなのか。

Quoraのスペース運営を通じて「民主主義」が自明の価値であると人々を説得するのが難しくなっていると感じる。

政治に興味を持つ人ほど、自分を勝手にどちらかの陣営に結びつけて「私こそが正しい」という永遠の闘争状態に陥っている。当ブログも政治について扱っているのだから「おそらく自分もそうなっている」と考えたほうが良さそうだが、自分の姿を自分で見ることはできず何らかの鏡が必要だ。

トランプ大統領は「アルゼンチンの民意」をカネで買おうとしているが、アメリカ合衆国で同じことが起きれば激しく反発するだろう。世界経済と直結しているアメリカ合衆国の経済は世界中から干渉されかねない。

現在の自由主義・民主主義は健全な中間層が自助努力によって経済を拡張させるだろうという見込みのもとに正当化されている。健全な中間層が衰えればベンチャースピリットは失われイノベーション主導の経済は失速してゆくだろう。民主主義が発展しなかった中国経済は成長点を自ら作り出すことができない。つまりアメリカの従属経済なのでアメリカでイノベーションが起こらないと中国経済も失速してしまうのだ。

ただしアメリカ合衆国でイノベーションの問題が議論されるようになるのは随分先のことだろう。現在はAI主導で株価が絶好調である。このようにアメリカ経済は鉄道、通信、インターネット、AIなどとフロンティアを拡張して成長してきている。

では今何が問題になっているのか。ABCの分析を元に考えてみた。今回の援助の枠組みは次の通りだ。

  • アメリカ合衆国財務省がドルをペソに替える
  • 200億ドルは臨時資金であって最終的にアメリカに返済される
  • 当面の資金源は納税者が負担
  • ただし財務省は詳細を明らかにしていない

第一にアメリカ合衆国の連邦政府の資金繰りの目処もついていないのに外国に援助を優先してもよいのだろうかという問題が出てくる。

しかしABCはさらに大豆農家について考えている。つまりアメリカの大豆農家がトランプ大統領の政策の犠牲になる可能性がある。

  • 中国は大豆の購入を停止している
  • 中国はアメリカ合衆国が輸出する大豆の50%を買っていた
  • このため農家は将来の経営が成り立つのかを心配しはじめている
  • アルゼンチンやブラジルは中国に対する大豆輸出を増やしておりアメリカ合衆国にとってはライバルに当たる

ところがABCは農家は必ずしもトランプ大統領の政策に反対しているわけではないと続ける。

一旦トランプ大統領の政策を支持しただけでなく、それを周りに宣言してしまっているため「オーバーコミットメント」が起きる。トランプ大統領にに対する支持を引っ込めることができなくなってしまうのだ。

確かにトランプ大統領はミレイ大統領に対して中国との関係を強化しないように釘をさしている。トランプ大統領を信じたい人たちはこの発言に一縷の希望を見出すだろうが「本当は自分たちは見捨てられようとしているのではないか」という疑念を払拭できなくなるはずだ。

ミレイ氏の前でトランプ氏は、中国との関係に触れつつ、「貿易は多少してもいいが、それ以上のことをすべきではない」と発言。「中国といかなる軍事的関わりも持つべきではない。もしそうなった場合、非常に不快に思う」と強調した。

トランプ氏がアルゼンチンに警告、中国が軍事活動なら「非常に不快」(BBC)

SNSの政治言論を観察していると、人々は「自分の主張こそが正しいのだ」と言いたがる傾向がある。自己正当化欲求は思考ではなく感情に強く働きかける。結果的に合理的な判断ができなくなり自分たちに不利な状況を受け入れてしまう人も出てくる。

最後のに残るのは「こうした政治状況はいつまで持続するのか」という問題である。

おそらく民主主義は党派対立に陥りがちな議論を整理し全体の意思を統合する働きがあるのだろう。つまりこの先に起きるのは「分裂」ということになる。しかしその分裂がすんなり起きることはなく優先順位がわからなくなった人たちの万人闘争が定着することになるだろう。いわゆる政治的内戦である。

民主主義が究極かつ最後の答えだと主張するつもりはない。しかしながら「万人闘争抑止装置」として歴史が生み出した一つの解決策であることは疑いようがない事実なのではないか。

繰り返しになるが、政治に関心を持っている人たちは誰でもこうした党派性に囚われているのだから、おそらく自己を顧みたときに「自分もそうなっている」という前提を置くべきなんだろうなと思う。

ただし自分の姿を自分で見ることはできない。