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なぜ日本は戦後80年の総括に失敗したのか

14〜21分

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まもなく8月15日がやってくる。今年は戦後80周年の節目だが石破総理による戦後80年談話は発出されない見込みなのだそうだ。

なぜ日本は戦後80年総括に失敗したのかを考えると「日本は将来に対する国家ビジョンがない」ことに気がつく。よく保守と呼ばれる人たちがリベラルを批判するために「国家観がない」と表現することがあるがこれは保守にこそ向けられるべき批判だ。保守派は歪んだ鏡に映る醜い自己像と戦っていて未来に顔を向ける余裕がない。

橋下徹氏が高市早苗氏を批判している。普段は勇ましいことを言っているがいざとなると行動できないのだという。

「マッチョ」とはまさにそのとおりだ。日本の保守はアメリカの権威を笠に着ているだけの集団。その背景にあるのは特有の気弱さだ。高市早苗氏も自民党内の孤立を「保守」で補っているだけに過ぎない。現実に対処するためにリーダーシップを発揮できるわけではない。当然トランプ大統領のもとで崩壊しつつあるアメリカ合衆国という現実的変化に対処できない。

しかしながら保守の無能力ぶりばかりを嘆いていても仕方がない。そんな中、一部でドイツのシュタインマイヤー大統領の戦後80周年演説が注目を集めている。

シュタインマイヤー大統領の演説はファシズム批判になっている。

まず当時のドイツがファシズムに侵されていたことを認めた上で、現在ウクライナの「非ナチ化」を推進するロシアこそがファシズムに侵されていると指摘する。そしてこれを許容するトランプ大統領は容認できないとしている。

曰く「過去と向き合う者は未来を放棄しない」のだという。

なぜドイツはこのような総括ができるのか。

それはドイツ社会が極右などの例外がありながらも「自由主義世界の恩恵を享受する国であって自由主義世界を守り推進するためにコストを支払う準備がある」と明確に合意しているからだろう。

ドイツとの比較をして初めてそもそも日本人が現在の繁栄の基礎を明確に総括できていないと気づく。

「保守」と言われる人たちの問題点はおそらく卑屈な自己像にある。西洋(特にアメリカ合衆国)に対する卑屈な気持ちがあり心理的にアメリカと一体化することでその劣等感から目を逸らせてきた。

最近YouTubeでいくつか日本の国際援助に関する漫画仕立てのコンテンツを見た。外国(西洋なのか中国なのかははっきりしない)の立派な援助が紹介され、日本の援助は物足りないとされる。ところが外国の援助はすぐに打ち切られてしまい被援助国は再び困窮する。しかしながら日本の一見みすぼらしい援助は自活を目指したものであると現地の人々が気づき一転して日本の長期的な視野を称賛する。

この物語で解消されるのは「卑屈さ」だが、幾重にも隠匿されていて最近ではあまり意識されないようだ。

ではこの卑屈さにはどのような歴史的経緯があるのか。

昭和時代の日本では「日本人論」が流行っていた。日本は西洋に比べて遅れており、日本人性を超克しなければならないというのが主な内容だった。この日本人論は高度経済成長期の「世界に近づきつつある日本」を背景にしている。つまり昭和の日本人はその卑屈さを受け入れる余裕があった。視線は目指すべき西洋に向いておりアジアはあまり重視されなくなった。

バブル期になると「山手線の土地価格でアメリカ全土が買える」などと言われるようになった。こうなると次第に脱亜入欧的な日本人論は語られなくなってゆく。経済的な自信によって西洋を超克したと考える人や今や世界が日本の製造業を積極的に学びたがっており日本は西洋から学ぶことはなにもないと豪語する人もいた。この時点でもアジアはそれほど重要視されなかった。

ところがバブルが弾けると今度は失われた自尊心を補償するために「保守」という言葉が使われるようになってゆく。特に中国がアメリカ合衆国と並び立つようになるとこれを否定するために雑誌界隈で保守という言葉が乱用されるようになった。これが橋下徹氏がいう「一見マッチョな」世界の実像だ。

この時に保守はアジアを問題にするようになった。これまでの発展志向が逆転し後ろ向きになっていったのだ。

日本の失われた30年はプラザ合意によるところが大きい。これまでアメリカ合衆国は資本主義のショーケースとして日本や韓国の成功を必要としてきた。ところがアメリカ合衆国はこの構造を支えきれなくなりドルの価値を下げる選択を行った。ところが当時の自民党政権はこの歴史的変化を総括することができず日本の経済成長は止まり停滞経済が始まった。

つまり、これは単なる構造変化であって「日本人がなにか間違っていた」訳ではない。間違っていないのだから特に正当化も必要ない。日本人の卑屈さの背景は実は単純だ。合理的に問題を捉えることができていないだけなのである。

総括できなかったことで日本人は国としてのアイデンティティを補償する必要に迫られる。そこから生まれた新しい考え方が「保守」なのである。

ドイツの事例から考えると石破総理はまず現在の世界情勢を総括し自民党がどのようにこれに対処するのかを検討すべきだった。

特にトランプ大統領の台頭によりアメリカ合衆国が力による現状変更に傾いている時期の80年総括はその意味では非常に重要である。ドイツの大統領談話はこの前段階にある。イスラエルがパレスチナの現状変更に乗り出しているわけでもなければ、アメリカ合衆国がロシアと結んでウクライナに領土放棄を求めているわけでもない。

もちろん「総括」の内容についてドイツを真似すべきとは思わない。重要なのはコンセンサスである。自民党の総裁は議会第一党のリーダーであり対話を通じて議会のコンセンサスを取る責任がある。だからこそ総理談話は重いものなのだ。

例えばドイツのように「力による現状変更は決して認めない」という強い意志を示すこともできるだろう。この場合には同盟国であるアメリカ合衆国に向けた意志の確認が重要だったはずである。

しかし「アメリカ合衆国はすでに単独で今の体制を支えることはできない」との認識を示すこともできた。日本が戦争に追い込まれたた当時の世界は「ブロック経済」状態にあった。イギリスが覇権国家・基軸通貨国の地位を失いつつある時代で経済は極めて不安定になりやすかったのだ。

直接のきっかけは1929年の大恐慌だろう。基軸通貨国がなかったために世界の為替が管理できなかったことが問題の根幹にあるという指摘がある。

これを示すのが「キンドルバーガーの罠」だ。基軸通貨国がないためにアメリカ合衆国が保護主義に走り日本は遅れた列強として自力で共栄圏を作る必要性に迫られ自ら自滅に向けて歩みだすことになった。現在の状況は極めてこの状況に近い。日本は過去の経験からこうした不安定な世界システムを防ぐためのイニシアチブを発揮することもできただろう。

時事通信は多極化の時代でありアメリカがドルの切り下げを求めてくるのではないかと予想しているのだが、実際には極がない混乱の時代に突入する可能性も高い。イアン・ブレマー氏がいう「Gゼロ」状態だ。

日本がこうした総括に踏み切れない。ドイツの大統領に言わせれば「過去と向き合わない者は、未来を諦めるしかない」ことになる。

ドイツと日本の決定的な違いはどこにあるのか。それは学ぶものと学ばないものの違いである。ドイツは(一部極右の存在はあるものの)過去の体験から学び先に進もうとする意思を持っている。しかし過去の失敗から学ぶ意思のない日本人は謝罪は惨めな自己像を認めることであると頑なに総括を拒否し続けている。

結果的に自己像が醜いと考えているのは保守の思い込みに過ぎない。そしてこの思い込みは日本の国益を大きく損なっている。ただ保守の卑屈さに合わせて日本人は未来を放棄すべきなのか。もう一度冷静に考えた方が良いであろう。

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Comments

“なぜ日本は戦後80年の総括に失敗したのか” への2件のフィードバック

  1. 細長の野望のアバター
    細長の野望

    Wedgeや文春オンラインを読むと、戦後70年談話で一区切りが着いたので、80年談話が不要という感じの内容を読みました(文春のは産経新聞の引用)。国内や海外情勢が変わっていくのに(特にアメリカ関連が劇的に変わった)、以前に区切りが着いたから総括しなくていいというのは、過去に向き合うことが目指すべき未来につながっているという風には思っていないのでしょう。
    日本の謝罪は、「○○という事柄に対して○○というところに問題があった」というように、謝罪するきっかけになったことを分析が甘く、「とりあえず頭を下げるか」という感じに、災いが通り過ぎてくれないかと思っている節があるように感じます。
    70年談話での「あの戦争には何ら関わりのない私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」という言葉を見ると、頭を下げる謝罪をずっと求められていると思っているのかもしれませんが、本当は今の日本が過去の戦争をどういう風に認識していて、そしてその過去から現在の情勢に当てはめて、未来はどういう風に導くかを聞かれているのだと私は考えます。

    蛇足ですが、私もYouTubeでいくつか日本の国際援助に関するコンテンツを見たことがあります。長期的な支援をして感謝されたという大まかな概要は嘘ではないと思いますが、支援された人たちが中国の援助時に馬鹿にされたとか嘲笑されたみたいなセリフに関しては、その話の1次情報元が分からないので、ちょっと悪意のある脚色の可能性が否めませんでした。

    1. >過去に向き合うことが目指すべき未来につながっているという風には思っていないのでしょう。
      ということだと思います。