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なぜ日本の政治議論は不毛になるのか 夫婦別姓問題と憲法9条問題で考える

10〜16分

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本日のテーマは、なぜ日本の政治議論は不毛になるのか、である。これをドラマのプロデューサーの例で考えてみたい。題材として扱うのは夫婦別姓問題と憲法改正議論である。自民党保守派は戸籍制度には指一本触れさせないと息巻いているが、結果的に戸籍の形骸化が進みそうだ。また護憲派も憲法9条には指一本触れさせないと言っているが、結果的に平和主義国家としての理念が形骸化している。

高市総理の「旧姓の法制化」検討を受けて、自民党の保守派の閣僚経験者が「民法と戸籍法には絶対に触らない。これが至上命令だ」と時事通信社に語った。ところが、これを突き詰めていくと「戸籍が社会生活と遊離し、戸籍の形骸化が起きる」という事態に気がついていない。

また護憲論者は憲法9条に触れると平和主義が瓦解すると主張するが、激変する国際環境の変化に追いつかず、結果的に平和主義国家の理念が形骸化している。

このように、日本の政治は今ある制度を守ることが至上命題になっており、制度を使って何を達成すべきなのかが見えにくくなっている。ここまでは分かるのだが、なぜそうなったのかは政治議論をいくら見つめても明らかにならない。

制度でなく本質を守るためには「まず何を達成すべきかというビジョン」を作り、「そのビジョンを達成するための仮説」を立て、「利害調整を行った」後で一つに決めるというプロセスが必要になる。しかし、今の日本の政治議論にはそもそも「何を達成すべきかを決めなければならない」という了解がない。

ではなぜそうなったのか。ヒントは意外な場所にある。テレビドラマや映画の制作現場だ。

テレビドラマや映画を流行させるためには、視聴者をあっと言わせるような新しいコンセプトが必要である。テレビドラマや映画に「新しいコンセプトなど必要なのか」と疑問視する人はいないだろう。

ところが、何か新しいことをやろうとすると既存のシステムでは対応できない。そこでプロデューサーが中心となり、さまざまな調整を行うことになる。そしてその調整の結果、視聴者がそれを受け入れると「成功事例」になり制度化される。日本の政治は「新しい企画」抜きに制度化の議論をしている。前に進まないのは当然だ。

新しい企画を通すためにはさまざまな関係者を説得する必要があり、そのためにプロデューサーはピッチデッキと呼ばれるドキュメントを作り、「イメージボード」や「コンセプトの言語化」を通じて企画のコンセプトを説明する。ハリウッドではこうした企画書作成手法はある程度定式化されており、それを教える学校もある。このためプロデューサーは professional persuader(職業的説得者) と呼ばれることがある。とにかく新しいものを通すために説得ばかりしているという自虐的な意味合いもあるかもしれない。

では映画やテレビドラマの制作には必ず職業的説得者が必要なのだろうか。テレビ朝日やフジテレビの事例を見ると、必ずしもそうではないことが分かる。

テレビ朝日は視聴率が見込める事件もの、医者もの、戦隊もの(これは最近は破綻したが)、仮面ライダーなどを定式化している。またフジテレビもジャニーズのタレントを連れてきて「なんとなくそれっぽい台本」をあてがい、ドラマを量産してきた。既存のユーザーをつなぎ止めることはできたが、新規ユーザーは獲得できなかった。

政治でも同じことが起きている。前例踏襲主義のもとで同じような番組が量産される。時々の問題に対して対策が打ち出されるが、施策ごとにつながりがないため利用者が制度に合わせて動く必要がある。だから少子化対策も地方の過疎化も防げない。これらの政策が機能するためには総合的なコーディネートが必要だが推進者が現れないのだ。

高市早苗総理の国民人気が高いのは、「ようやく新しいビジョンを示してくれるプロデューサーっぽい人」が現れたと国民が感じたからなのかもしれない。しかし高市総理の口から聞かれるのは「力強い日本」という漠然としたスローガンだけだった。彼女はプロデューサーっぽくはあるが、プロデューサーに必要ないくつかの視点を欠いている。構想力、説得のための具体的なスキル(ピッチデッキ作成能力)、人脈構成力だ。

高市プロデューサーには構想力がない。旧姓単記で保守系を怒らせ、急性を単記すると戸籍制度との整合性が取れないことに気がつき提案が揺れている。時事通信は「具体的制度設計はこれから」と言っている。「各方面要望」には応えようとしているがそれを実現するための具体的構想力は持っていないのである。

もう一つ重要なのは、日本からプロデューサーシップが失われたことで、誰も組織の全体像に関心を持つ人がいなくなってしまったという点だ。プロデューサーは常に新しい企画を通すために全体を俯瞰している。しかし「新しい企画」を通す必要がなくなると、全体を見回す人がいなくなる。

時折「これではダメなのではないか?」と考える人が出てくるが、調整権限がないため調整で疲弊し、最終的に「自分の持ち場だけを守ろう」と考えるようになる。

日本の政治からはすでにプロデューサーシップが消えている。そのため「新しい企画を通すためには総合企画力がある政治家が必要ですよね」という指摘すらできない。だから外から「ハリウッドのプロデューサー」のような概念を持ってくる必要がある。だからこの論は唐突に聞こえる。

政治言論に関わる人たちはそもそも全体最適化という視点を持たないため、それぞれの原理原則にしがみつくことになる。護憲派は憲法9条にこだわるが、すでに現実に合わなくなった憲法9条は平和主義を形骸化させることになるだろう。同じように保守も戸籍制度にこだわるあまり、戸籍の形骸化が進んでいく。

こうして日本社会は全体調整力を失い、昔ながらのつまらない制度に退屈しながら、現行制度も形骸化するという救いがたい停滞状態に陥ってしまうのだ。

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