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そもそも今の国会審議は「タイパ」が悪いのではないか 強行採決を巡る不毛な駆け引き

10〜15分

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本日は、日本の政治議論が不毛なのは「プロデューサーシップがないからだ」というテーマでお送りしている。メディアの「強行採決論」を受けて、自民党は土曜日の審議を取り下げた。しかし衆議院を13日に通すというスケジュールは撤回しなかった。野党に派手に反対させつつ、年度内予算成立という本旨を守ろうとしたのかもしれない。自民党の強硬な国会対応は果たして民主主義の危機なのだろうか。

前回の議論では、平和主義や戸籍制度が形骸化する原因は「プロデューサーシップの不在にある」との論を展開した。プロデューサーシップが成り立つためには、新しいものを求める視聴者が必要だ。しかし日本の「視聴者」は、これまで通りの退屈な番組に概ね満足し、「同じものばかりでつまらない」と言いながらも視聴を続けている。

日本の地上波ドラマも同じような状態にあった。やがて視聴率を集められなくなり、「面白い番組」を見たい人はNetflixなどの配信に流れていった。実はハリウッドも一時、「マーベルやDCなどのヒーローもの」に傾斜し、Netflixに客を取られた経緯がある。

そもそも同じようなプログラムの繰り返しであるならば、企画会議に時間をかける必要はない。時間をかけて議論をするのではなく、政府の企画書をそのまま採用すべきだろう。せいぜい必要なのは校正作業くらいだ。しかし、いくら政府の企画書を校正しても、野党が新規顧客を引き付けることはできない。野党に必要なのは校正能力ではなく、「新規企画の提案能力」だ。

「新規企画」が受け入れられるためには、そもそも視聴者が「新しい番組」を望む必要がある。しかし今の日本の視聴者は、そもそも新しいコンセプトの番組を見た経験が少ない。同じようなタレントしか出てこない、同じような内容のバラエティ番組を「つまらないなあ」と言いながら流し見している。

次第に「政治の話をしているのかテレビの話をしているのか」がわからなくなってきているが、実は政治もテレビも同じような退屈の構造を抱えている。実は経済にも同じ構造がある。Bloombergの「投資家を黙らせた高市氏、日本の実験に世界が注目」という記事に、次のような一節がある。

CLSA証券のニコラス・スミス氏は「日本ではシュンペーターの魔法が許されてこなかった」と言っている。結果的に多くの業界で企業数が過剰になり、規模は小さく収益性も低いという。マネックスグループのイェスパー・コール氏は「日本に自動車メーカーが7社も、半導体商社が25社も、地方銀行が100行も、さらには800を超える大学も必要ない」と指摘している。

その象徴が、毎年1300種類も作られる清涼飲料水だ。同じようなコンセプトの商品が作られ続けるため、企業は手を変え品を変え、「フレーバーの変化」で消費者を飽きさせないようにしている。しかし結果的に、画期的な商品は生まれない。

こうしたフレーバーの変化は、テレビのバラエティ番組でも見られる。同じような枠組みに従ってベルトコンベア式に番組を量産するため、「どうやってフレーバーを変えて見せるか」ばかりが問われるのである。

政治に総合企画力がないため、新しいアイディアは生まれない。結果として、テクニカルなパーツの議論ばかりが先行することになる。しかしその議論に参加しなければ、そもそも政党として埋没してしまう。そこで中道改革連合と国民民主党は、国民会議という企画会議に参加し、高市プロデューサーの(あまり新鮮味のない)企画にケチを付けることで埋没を防ごうとしている。

つまり、停滞を打破したいのであれば、本来必要なのは「新規企画」である。視聴者に「これは見たことがない」と思わせるコンセプトを提示し、その実現のために利害を調整する。政治におけるプロデューサーシップとは、本来そうした仕事のはずだ。そしてその責任は野党の側にこそある。

しかし、日本の政治は必ずしも停滞の打破を目的としていないのかもしれない。もし目的が「手続きとしての民主主義を守ること」だけなのであれば話は変わる。与党も野党も新しい企画を考える必要はない。既存の制度を少しずつ手直ししながら、時間をかけて議論を続ければよい。つまり毎年1300の新しいフレーバーを出し続ければいいのだ。

その場合、重要なのは結論ではなく手続きになる。国会審議は政策を生み出す企画会議ではなく、民主主義という制度がきちんと作動していることを確認する儀式になる。野党は反対し、与党は修正し、最後は多数決で決める。このプロセスを丁寧に踏むこと自体が目的になる。

だとすれば、強行採決を巡る駆け引きもまた、ある意味では予定調和の一部なのだろう。国会は新しい企画を生み出す場所ではなく、既存の制度を確認する舞台なのである。

しかし、停滞を前提としたフレーバー政治は決して「タイパ」が良いとは言えない。退屈な番組を延々と見せられている視聴者が、やがて配信サービスに流れていったように、政治の視聴者もまた静かに離れていくかもしれない。問題は、そのとき日本政治に新しい企画を立ち上げるプロデューサーが残っているかどうかである。

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