TBSが初期の情勢調査を発表した。自民党と公明党をあわせても過半数に届かない可能性が出てきたとしている。代わりに躍進したのが国民民主党と参政党だ。
TBSは参政党を問題視しているようだが、さすがに選挙期間中のために表現はニュートラルなものにとどまっている。一億総中流時代が終わり一億総下中流時代が来たことを実感させる。この右傾化は我々の暮らしにどのような影響を与えるだろうか。考えてみた。
TBSの報道を見て「今情勢を伝えてしまうとこれに影響を受ける人が出てくるのではないか」と感じた。漠然と違和感を感じていた人は「周りが自民党離れを起こしている」のかと考え「じゃあ私も」と考えてしまうのではないか。
彼らの関心事はおそらく自民党・公明党が参議院で優位を維持できるかなのだろう。たしかに重要な問題ではあるが、結果的に一つひとつの政策が自分たちにどう影響を与えるのかと言う問題意識が置き去りになる可能性がある。
事実上の政権選択選挙という言葉には、政権さえ代われば問題は魔法のように消えてしまうというありもしない楽観が含まれている。思えば民主党政権に代わった当時にも同じような気分があった。
この中でTBSが特に問題視しているのは参政党である。穏健な政権交代が起きてほしいが第三極が割って入ると政局が混乱するという恐れが滲む。
ネットを見て初めて選挙に興味を持った人がいると指摘したうえで「あまり良くわかっていない人が参政党に惹きつけられているのではないか?」と仄めかしている。
確かに参政党の党首の発言を聞いていると排外主義的な内容が多いと感じる。
また財源についても国債依存度が極めて高い内容になっている。本当に持続可能性があるのかと言う疑いを抱かざるを得ないが党首は「大丈夫だ」というばかりで詳しい説明はしてくれないのだという。
参政党のウェブサイトによれば「国債をデジタル円に替えればすべての問題は解決する」事になっている。自信を持って断言されると「ああ、そうなのか」と思わなくもない。
こうした無責任な議論はすでに安倍政権の初期に見られた。安倍総理の主張によると日銀が国債を引き受ければすべての問題は解決するはずだったが、政策は持続可能なものではないと当初から指摘されていた。経済が低成長のときには問題がでないのだがいったん成長が始まると持続可能性が損なわれる。
ただしこのときには「おそらく自民党は何らかの出口を考えているのだろう」と考える人も少なくなかった。
しかしながら、菅政権・岸田政権・石破政権と進むに連れ「だれも出口など考えていなかったのだ」ということが明らかになってゆく。自民党は安倍派の瓦解を経験し、次第に今はデフレなのかインフレなのかすら言えなくなってしまった。
石破自民党は次世代の成長戦略を提示していない。単に近い将来所得は倍増するはずだとの楽観的な見通しを示すばかりだ。おそらく政権は成長戦略の青図を提示できずにいるのだろう。だが事情は野党も同じである。
こうなると国民には2つの選択肢しかなくなる。
1つ目の選択肢は実質賃金の増額が望めないまま社会保障費に押しつぶされるというもの。もう1つの選択肢は財政の発散だ。つまり財政を拡大させてハイパーインフレが起きるまで楽しむと言う選択肢である。
どちらにせよ日本は最終的に破綻するので(経済は破綻するが日本というシステムはなくならない)別にデジタル円だろうが鰯(イワシ)の頭であろうがすがるものは何でも良いと言えるだろう。
もう一つ重要なのは自民党が吸収できなくなった保守と呼ばれる人たちが、国民民主党や参政党の支持に回りつつあるという点である。
一億総中流と言われた時代には保守とリベラルと言う対立構図があった。生活に余裕があり科学技術の進展により今日より明日が良くなると言う見込みがあったのだ。ところが成長期待が失われるとリベラルを支持していたような人たちの意識が過去に向かうことになる。彼らは「私達はもっと優遇されるべき」と考えるが暮らし向きは日に日に悪くなり従って彼らののぞみは叶わない。
国民民主党すらいまや右傾化の防波堤と言われている。絶対的人権を理解しない日本人はおそらく右傾化した日本に対応できないだろう。状況を自分で整理することはできず中には共犯者になることを選ぶ人もいるはずである。
先日フジテレビについて記述した。
中にはフジテレビの重役批判だと感じた人もいるだろう。実はフジテレビは「楽しくなければテレビじゃない」をスローガンに成長した会社だが2010年代に入ると「一人負け」に陥ってしまった。この過程で「楽しくなければテレビじゃない」という標語は腐敗した喜び組イデオロギーに取って代わられた。
フジテレビの状況は第二次世界大戦にきわめて似ている。軍部に当たるなにか(フジテレビの場合にはバラエティの数字市場主義者だった)が破綻に向けて暴走し一部は加害者に一部は被害者になる。そして全体が破綻すると「あれは仕方がなかった、水に流そう、ああ全てが焼き尽くされてしまった、嘆かわしいことだ」と総括してしまうのである。
渦中にいた佐々木恭子氏は今回の問題について総括が出来ていないが、実際には女性の部下から選択肢を奪う共犯者として機能していたことは明らかだ。仮に佐々木さんが「一体いま自分は管理職として何を守るべきなのか」がわかっておりかつそれを周りと共有できていれば問題は未然に防げたであろう。
一億総下中流化が進む中、おそらく我々一人ひとりの内的な価値が、いま試されている。
