読売新聞が「投票にカメラを持ち込んでいいの?」と疑問視する記事を書いている。この記事を読んで「他人の迷惑を考えるべきだ」と感じた人は多いのだろうが、主権者意識が浸透していないと感じた人はどれくらいいるだろうか。日本では国民主権という概念が浸透していない事がわかる。これは民主主義にとっては危険な兆候だ。
読売新聞の記事は「参院選で広がる「推し」投稿、SNSで「この候補・政党に投票しました」…選管が注意呼びかけ」というもの。最近、投票場で投票用紙を撮影してSNSにアップするのが流行っているのだそうだ。
ただ、選挙管理委員会によっては規制をするところも出ているという。他の投票者に迷惑になるからである。
この記事には「本当にこんなことをやってもいいのか?」というトーンがあり、「読売新聞らしいな」とは思ったが個人的には違和感も感じた。国民主権の我が国でどのような選挙活動が許されるのかを決めるのは主権者たる国民であるべきだ。
ただ、日本はもともと恩賜選挙なので「許可されないことはやってはいけない」という認識が強く浸透していることは理解できる。国民主権は建前に過ぎないと言う理解が一般的なのかもしれない。
現実的には「やってはいけないこと」がたくさんある。例えば選挙期間中未成年は政治家の投稿をリポストしてはいけない。未成年の選挙活動は禁止されているからである。複雑なルールを覚えることは難しいため「政治には関わるべきではない」「言われたことだけをやっていればいいのだ」という意識が先行する。
考えてみれば、我々はこうした「謎ルール」に慣れている。校則を通じて「校則が作られた理由は考えるな」「ただただ従え」と教えられる。
この「ただただ従え」にはメリットもある。難しい問題は誰かが解決してくれるのだから学校運営に主体的に関わらなくても済む。こうして我々は組織において責任を負わないことを学んでゆく。
一方で規則に触れない限りは何をしてもいいことになる。政治家が関わらない第三者の無責任な切り抜き動画は規制されない。日本的常識に従えば「難しい問題は誰かが解決してくれるのだから別に楽しければいいじゃないか」ということになる。
政府が国家運営に失敗すると国民に対して様々な「お願い事」をしてくるが、これも別に守らなくていい。国民が主権者というのは単なる建前に過ぎないからである。便利なことに、選挙のときだけ主権者と言う存在が強調されるのだ。
今回、ある政党が国民主権を大幅に制限するような憲法草案を出している。これもそもそも国民主権などあっても面倒な責任を押し付けられると考える人にとっては好都合かもしれない。
この政党の憲法草案は「税は唯一の財源ではない」と言っている。つまり国民は国家運営の財政的負担からも解放される。権理(彼らはなぜかこう書いている)には義務が伴うのだからそれを放棄してしまえば責任から解放されると言う理屈だ。日本版自由からの逃走だなと感じたが、実際にそう分析している記事もあった。新潮は「有権者の一部は自由を持て余している」と書いている。
これは歴史的には非常に興味深い。もともと日本の参政権は納税と紐づいていた。次第に戦費を調達する必要が出てきたが重税感に苦しんだ国民が暴動を起こす。戦争に勝てば賠償金が戻ってくると言われたから我慢していたという人々が話が違うと起こしたのが日比谷焼打事件(1905年)だった。実際にはかろうじて勝っただけだったそうだが国民は理解しなかった。
この後、大正期にかけて当時は危険思想だった民主主義運動が高まったことで政府側も国民を抱き込む必要が出てきた。このときに作られたのが男子普通選挙だったが同時に治安維持法が制定され民主主義運動が取締の対象になった。これが1925年のことだ。議会はその後も問題を解決できず軍部が台頭し破綻へと突き進んでいった。
今の中途半端な小選挙区比例代表並立制では選挙権があっても自分を代表してくれる候補者がいないと言う問題に直面しがちだ。二大政党が党内政策コンペで政策を統合する事が前提になっているがその仕組は機能しておらず、そもそも政党が政策を作ることができるのかさえ不明である。
そもそも主権が保証されているとは考えにくいのだから「結果責任だけ押しつられても困る」と考える人がでてくることは容易に想像ができる。
