数年前に途中で放り出したままになっていた自作のプログラムをAIに渡してみた。
すると数秒もしないうちに、「なるほど、こういうものを作りたかったんですね」と言われ、動かなかった部分があっさりと修正された。
正直、少し驚いた。
だが、この小さな出来事は、AIの進化以上に、いま日本が直面している経済の問題を象徴しているように思える。かつて「AIの無料化は近く終わるだろう」と書いた。しかし、現実は少し違う方向へ動き始めている。
以前、このブログで「AI無料化時代はもうすぐ終了するのではないか」と書き、「コンシューマーへの利益分配とホモ・ルーデンス性に着目しなければAIは失敗するだろう」と予想した。そしてこの予想は、半分は間違っており、半分は正しかったようだ。この論を展開していくと、「ワクワク感」こそが日本経済を成長させる鍵になると分かる。
前回の校正のきっかけは、Geminiが「バカになった」と感じたことだった。Proと呼ばれる新カテゴリーにユーザーを誘導するため、無料版の機能を絞っている。これについてGeminiに質問したところ、「以前の無料版を、今後は少額のお金を支払って買うことになるだろう」という回答を得た。ChatGPTもほぼ同意見だった。
巨額投資を回収するために「知的ダンピングの時代は終わった」というわけだ。
しかし私は、この有料化路線は産業廃墟化の最初の兆候になるのではないかと感じ、「そうはならないだろうな」と思っていた。
ところが、これに合致しない記事をAxiosで見つけた。「More personal ChatGPT use could boost ads」という表題の記事である。非常に分かりにくいためChatGPTに翻訳してもらったところ、「人々は趣味にChatGPTを使い始めており、広告媒体として魅力的だ」と主張するためのプレスリリース的な意味合いがあるが、正面から「広告モデルに依存する」とは示したくないため、曖昧さが残っているのだという。
つまり、YouTubeのような利益分配型市場は作られていないものの、ホモ・ルーデンス性への着目は進んでいるということになる。これはテレビと同じ理屈である。ニュースを見る人もいるだろうが、主にバラエティやドラマといった「遊戯性」の高い分野のほうが、多様な広告を売ることができる。
では、パーソナルスペースへのAIの浸透は、我々の暮らしにどのような影響を与えるのだろうか。具体例を挙げて考えてみたい。
常々、ファッションに興味はあるがよく分からない、と感じている。どうしても構造を把握したくなるのだが、ファッションは要素が多すぎて全体像が掴めない。そこでWebで動くシステムを作ることにした。しかしプログラミングが得意ではないため、プロジェクトは途中で止まっていた。
このプログラムをGeminiにフィードしたところ、「あ、こういうものが作りたいんですね」と即座に理解し、動かない部分を修正してくれた。
ITに興味がない人には、この驚きは伝わりにくいかもしれない。かつてITエンジニアに「お願い」するには、仕様書をすべて固めたうえで工数を出さなければならなかった。しかし、仕様書を書いている段階では「実際に何が便利なのか」を掴みきれていない人がほとんどである。
AIは、この試行錯誤のプロセスを限りなく低減してくれる。
一方で、「ファッションをどう分類したいか」「何を着たいのか」といった漠然とした相談には、漠然とした一般論しか返ってこない。さらに相談するための材料(データ)は、こちらで揃える必要がある。
図式化すると、次のようになる。
- 何がしたいのかを決めるのは人間の仕事
- 要求仕様の精緻化にはAIが使える
- 最終仕様の決定は人間の仕事
- データを集めるのは人間の仕事
- データ整理にはAIが使えるが、まだ限定的
- 分類や仕訳を通じて目的を定めるのは人間
- 計算はAIに任せられる
- 全体像ができたらAIに言語化・補完させる
よく「AIは生産性を向上させる」と言われるが、実際に大きく貢献できる分野は意外と限られている。
特に「要求やデータを集めるのは人間の仕事」という点は重要だ。ChatGPTは「大量のユーザーがいることで、バグ発見、使い方の発明、UI/UX改善、モデル調整が可能になる」と述べている。学習データの枯渇も、すでに問題になりつつある。
つまり、AIが「何かを作りたいが何かが足りなかった人々」を集められれば、AI産業とクリエイターのウィンウィンな関係が成立する。
一方で、「特にやりたいことはないが、会話はできる人」が多数派になるとどうなるか。人々は挨拶や人生相談にAIを使う。しかし内容は次第に陳腐化し、「否定されない」「自分だけに語りかけてくれる」存在としてAIに依存していく。
AIも定型回答を繰り返すようになり、進歩が止まる。しかもAI相談は莫大な電力を消費する。化石燃料を燃やして鏡の中の自分を見つめる人を量産することになる。
かつて「ゲーム脳」が社会問題になったように、今後はAIでも同様の議論が起きるだろう。
現在のAI産業は、「人類総F1計画」のような極端な効率化路線よりは穏健かもしれない。しかし、データ汚染、陳腐化、精神依存という別の問題を抱えている。
これを防ぐには、「新奇性=新しいものを探索したい人」に経済的動機を与える必要がある。同時に、「どこをAIに任せ、どこを任せないか」を学ぶ仕組みも必要だろう。
ここまで書いてきてふと気がついた。繁栄するAIと衰退するAIの構図は、そのまま社会にも当てはまるのではないか。
新奇性の強いユーザーを囲い込めば、AI企業は勝利する。購買につながる広告が売れるからだ。では、そのワクワク感を維持するにはどうすればよいか。少なくとも、精神的・時間的余白が必要である。
疲れ果てた世界には二つの出口がある。依存と硬直化である。変化を拒み、過去の正解に固執する社会では、新しいものは売れなくなる。地方は疲弊し、人々は「より確実な何か」にすがるようになる。
そして、依存と硬直化は同時に進行する。
日本が一方に極端に傾くことはないかもしれないが、二極化は十分に起こりうる。これこそが、今の高市政権と日本社会に感じる最大の違和感なのだろう。「働いて働いて」と言うが、何のために働くのかは示されない。昭和的思考に駆動されるレミングの群れが、次第に硬直しているように見える。
「お金もないのに余裕など持てない」と憤る人もいるだろう。しかし「お金がない」は思い込みに近い。サム・アルトマン氏などAI企業家のもとには莫大な資金が集まっており「もっと生産性をあげる何かを見つけてくれないか」と強いプレッシャーを受けている。日本人の1100兆円規模とも言われている個人資産も海外の「ワクワク」に向けて引き付けられている。
政府は信用としての紙幣を刷ったが、それを価値に変えられる人は多くない。この世界に足りないのはお金ではなく、価値創造である。そして、効率的な価値創造には、新奇性=ワクワク感が不可欠なのである。
私たちは、AIを使って世界を広げることもできるし、ただ自分を慰める道具にしてしまうこともできる。ワクワクする未来を選ぶのか、静かに固まっていく未来を選ぶのか。その分かれ道は、もう目の前にある。

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