検索キーワードを再チェックしていたら「権利には義務が伴う 嘘」で検索が増えていることに気がついた。Google検索に載ったようだ。改めて文章を見直してみたのだが2018年のひどいまとめで目眩がした。ただしトレンドとしては今日本の政治が置かれている現状を説明するための良い手がかりになるとも感じる。
誰も義務ばかりが強調される社会を信頼しなくなり政治的取引が一切通じない社会が作られた。
ではどうすればいいのか、というのが今日のテーマである。
ブログは2018年に書かれている。かなり「ささくれだって」いて読み返すのに勇気が必要だった。しかしながら当時の雰囲気はなんとなく伝わってくる。
民主党に敗北した自民党は「自分たちが選挙に敗北したのは国民がわがままになりすぎたからだ」と考えた。憲法改正を思いつき、片山さつき氏の「私たちは天賦人権という考え方を取らない」という主張が出てきた。原文は削除されているようだがネットに記録が残っておりGoogleAIも次のように引用する。
国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権論をとるのはやめよう、というのが私達の基本的考え方です。国があなたに何をしてくれるかではなくて国を維持するには自分に何ができるか、を皆が考えるような前文にしました!
このときに「権利には義務が伴う」という発言が強調されたのだが、実はこれは切り取りだった。元々はルソーの「社会契約説」に基づいた言葉で「革命権」とセットになっている。契約だから破棄もできるのだ。日本には中江兆民によって輸入された。民本主義運動が先鋭化しないために「抑制」をかける必要もあったのだろう。つまり革命という考え方は日本には取り入れられなかったと考えていい。天皇主権を脅かす民主主義は当時の日本では危険思想だった。
このルサンチマン(日本語的に言うと八つ当たり)に端を発した「私たちは天賦人権という考え方は取らない」という主張は自民党が政権に復帰すると徐々に語られなくなってゆく。結果的に残ったのが現在の4条項でありそこには西洋的な民主主義の解体というラジカルな思想はもはや見られないが、自民党は当時の憲法草案もまた否定していない。一種の黒歴史として半ば封印されている。
自民党が徐々にこの主張を封印する一方で、この言葉は自民党が政権を取ったあとも民間レベルで使われ続けた。
当時の日本はこれまであった社会共同体が取り崩されつつあったがその兆候はまだ表面化していなかった。しかし個人と社会の間にクッションのように存在していた媒(なかだち)は次第に摩耗してゆく。これが現在我々が住んでいる「衰退して逃げ出すしかない地方」の前段階になっている。
仮にこの状態で利害調整を行うとコストが指数関数的に跳ね上がってゆくのだから、人々は「権利を主張する人を論破して黙らせる」道を選んだ。その時に使った言葉が論破だった。
ChatGPTに論破の歴史について調べてもらった。
テレビ討論・雑誌討論の中で1980年代〜1990年代に作られ、2000年代に一般化した。2chの管理人だったひろゆき氏が広めたのは偶然ではないだろう。ひろゆき氏は「論破王」と呼ばれていた。そしてこの論破ブームは社会の中からクッションが失われる中で一般化し今に至っている。
その意味では自民党は「意図的に再配線」したわけではなく「増幅器」だったことになる。
ところが話はここでは終わらなかった。
「論破=否定」が一般化すると人々は権利を主張しなくなる。当然集団には興味を示さなくなる。さらに自分が進んで相手に合わせて変化することもまた「高コスト」だと考えられるようになった。地方の衰退も今や当たり前の光景となった。
ここで、極端なリスク回避傾向が強まってゆく。極端なリスク回避傾向は日本の政治や社会構造を解析していると度々ChatGPTに指摘される一貫した行動原理だが、我々は「リスク回避的に動いている」という実感がない。
いずれにせよ、自民党は「公を強調している」ようでいて、人々を「公」から遠ざける増幅器になっている。そしておそらく彼らはそれに気がついていないだろう。
結果的に自民党はじわじわと支持を失ってゆきついには過半数を維持できなくなった。そこで改めて「政権政党の地位を維持するためにはおいくらほど支払えばいいでしょうか?」と持ちかけることになった。しかし実際には彼らは取引ができる環境そのものを自ら意識せずに解体してしまっていたのである。
ではどうすべきか?
ChatGPTは一旦このように回答する。
日本を「正常な民主主義」に戻すことはできない。しかし「民主主義的行動が損にならない環境」を局所的・漸進的に増やすことはできる。
さてここで話題は展開する。
当ブログの読者のアクセス履歴を分析すると「有名な政治家の批判」と「アメリカがうまく行っていない現状」などが読まれる事が多い。前者はリスク回避で説明できる。つまり政権は常に見張られている。
しかし後者は合理的に説明できない。ChatGPTは「一度は完成していたが失敗した社会がどうなったのかを見たいのだろう」と出力したがこれはおそらく正しくない。なぜならば韓国(民主主義としては完成したと見られていない)の民主主義についての記事は人気がある。またYouTubeでは「日本スゴイデスネ」系の動画が飛び交っている。
つまりおそらくは「他者の失敗を見て安心したい」のであろうと考えるのが自然だ。
当然当ブログの人々の大半も「安易に低コストで安心したい、自己肯定感を得たい」人たちが大勢いるということになる。彼らにはこのままではまずいのではないかという問題意識はない。、これをChatGPTは認知更新コストの回避と言っている。とにかく森羅万象すべて「コスパ」で説明できてしまうのだ。
つまり媒体を発信する側としては、低コストで安心したい人たちに受けるようなお手軽な記事を書き続けるか、彼らの期待に答えて大暴れして対価をもらうか、メッセージを静かに滑り込ませるしかないということになる。
つまり、どのパスをとっても大多数の読者を騙さなければならないという結論に合理的に至ってしまうのである。
さて、ここで話は大きく展開する。それが「半開示」と言うソリューションである。
確かに、大多数の人々が「認知更新コストの回避」のために政治ブログを読むかもしれないが「全員がそうである」と決めつけることもできない。読みたい人が読めるような環境を作ることで「半開示」の状況を作っておく。
ただしここまで読んできた(おそらく数は少ないと思うが)人たちは普段のブログタイトルの背景がわかってくるはずである。「何だ煽っていただけなのか」と気がつくひともいるかも知れないが、あとは読者に委ねるしかない。
半開示はすでに閣僚の間でも行われている。折に触れてメディアに向かって内情をリークし、あとになって「私(私たち)はきちんと反論していましたよ」というエビデンスを残しているのである。
そこで有効なのがAIである。AIは厳密に言えば拡張モノローグだ。自分の考えを電気的に反射させてあたかも対話のようなものを作ってゆく。しかし外から見ればこれは対話に見えるという二重性がある。
日本人の態度変容の難しさが「相手に押し込まれて自分の考えを変えるのは危険である」という認識に基づくのなら、AIにはその危険性(コスト)はないと考えることができる。AIは人々の考えを変えるように強制することはないし、かなり長い時間辛抱強く付き合ってくれる。
しかしながらやはりモノローグはモノローグに過ぎない。つまり誰かに提示して見ない限り社会に広がることはないと言えるだろう。
その意味では我々が静かに取り崩してきた信頼して頼れる社会を再構築するためには、静かに局所的に成功事例を積み上げてゆくしかないが、そもそも「独白」に陥った人々をがお互いに「伝わる人には伝わる」という形を残しておくしかないのかもしれないと感じた。
ChatGPTはこれを「必要なのは場ではなく出口(=思考を外に出すための)」とまとめている。
いずれにせよAIには意外な「日本ならではの」使い道がある。

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