立花孝志容疑者がようやく逮捕されネットに喜びの声が広がっている。立花孝志氏は認否を明らかにしていないそうだ。執行猶予中だったために有罪になれば実刑は免れないのだそうだ。そもそも立花孝志現象とは何だったのかを考えてみたい。
今回Quoraの投稿で驚いたのは「喜んでいる人」が多い点だった。喜ぶと言うより解放に近い感覚のようだ。では彼らは何から解放されたのか。これが実はよくわからない。
なんとなく社会秩序を目指す共通の敵と認識されている事がわかるが言語化が難しい。実は「醜いもの」「危害を加えそうなもの」に対して団結し排除を目指すのが人間の本能である。つまり特に言語化する必要もないということなのだろう。
そもそも立花孝志氏がSNSで扇動を繰り返したのはどうしてなのだろうか。それはYouTubeで強い継続的な刺激が得られるからだろう。
あくまでも一般論だが自分でモチベーションを作れない人がいる。
ゲームのように人工的にモチベーションが維持されるものには取り組むことができるが勉強や問題解決など自分でモチベーションを想起するものには取り組めない人がいる。ADHDの専門家はこれは脳の特性でありうまく付き合ってゆくべきだと指摘する。
これはあくまでも一般論であり立花氏が強い動機を求め続けた理由はわからない。執行猶予判決中でありリスクは計算できたはずだがそのリスクを度外視し危険な挑戦を続けてきた。
とはいえ、これに反応する大衆がいなければ立花孝志氏は強い興奮を得られなかっただろう。
問題解決に成功すると人々は強い報酬を受ける。しかしながらいつまでも問題解決ができないと人々は逆に問題解決に心理的負荷だけを感じるようになるだろう。政治関連のブログにおいて問題解決型の記事が読まれにくいのはそのためである。つまり社会が硬直化すると問題解決が苦痛であると学習してしまう人が増えるのだ。人々はあくまでも強い刺激が得られる報酬を求めている。
しかしながら立花孝志氏を支える人は「社会に対して異議申し立てをしてはいけない」と躾けられており社会をめちゃくちゃにしてやりたいという動機を抑圧している。これを解放するためには誰かからの指示を必要とする。「自分の欲望を満たすためではなくなにか大きなもののために戦うのだ」という大義を必要としているのだろう。この開放感も強い報酬につながるものと考えられる。
おそらく我々が潜在的に恐れていたのは「社会を破壊したい」と考えている人が実は我々の隣に増えているという事実である。ひょっとすると今アナタのとなりにいるスマホに目を落としているその人がそんな願望を持っているのかもしれない。
いずれにせよ一時的にせよ脅威は取り除かれたがその動機にもある程度屈折が含まれている。組織防衛という極めて現実的な欲求だ。
時事通信の記事を見ながら確認してゆきたい。今回の逮捕は「竹内県議が亡くなったあとに」「死亡の原因は」「警察の取り調べである」と主張したことが名誉毀損に当たるとの判断に基づいている。判断主体は警察でありおそらく検察の許可は取っているものと考えられている。
つまり「警察のせいで政治家が死んだ」という主張を抑制したかったのかもしれないが、警察も検察も「自分たちを利用するとはケシカラン」と主張するわけにはいかないので竹内県議の奥さんが告発してくれるのを待っていた。
死者に対する名誉毀損罪が異例であるという点については警察も認めている。また、伊東市長選挙への立候補について県警は「政治活動の自由は保証されなければならない」と言っている。しかしこれも伊東市長選挙であることないこと情報発信されては困るという気持ちがあった可能性は否定できない。つまり組織防衛的が目的の一つだったのではないかという仮定を置いて説明できることも多いのである。
今逮捕する理由は「逃亡と証拠隠滅のおそれあり」ということだが、本人が強く否認しているという事実が必要になる。このため警察は認否を明らかにしていない。
警察・検察の本音と建前の使い分けは極めてわかりやすいが、おそらくこれがわからないという人もいる。ゲームのルールがわからないと問題解決は難しくなる。このため誰かが社会を破壊する指示を出してくれるか、代わって社会を破壊してくれることを望むようになる。
今回の逮捕で「民主主義に対する抑圧である」と立花孝志氏の側にたったコメントはあまり聞かれなかった。誰かの許可を待って社会をガツンと変えたい人がより強くより大きなものを求めるのは自然なこと。立花孝志氏に惹きつけられていた人々は参政党や国民民主党に流れていたが、今は高市早苗総理大臣が一夜にして既得権を破壊して強い日本を取り戻してくれることに期待しているのではないか。
