流行のメカニズム

ファッションの社会学を読んだ。この本によれば、流行ができる理由は明確らだ。閉鎖されていてメンバーがお互いに影響し合っているコミュニティがある。彼らは、財産や時間が余っていることを誇示して労働者階級とは違うということを示す必要がある。また、仲間内で全く同じ格好はしたくない。この結果、こうしたコミュニティには自律的な「トレンド」のサイクルが生まれる。ファッションの流行サイクルは自律的であり政治や経済の状況には影響されないのだそうだ。
ただし、これだけではファッションの流行は仲間内だけのものになってしまうだろう。
これを摸倣したいと感じる層が別に存在する。当初自律的にファッッションを決める階層は貴族だったのだが、中産階級に引き継がれ、さらに映画俳優やスポーツ選手などが担うようになった。その内に巨大な発行部数を誇るジャーナリズムが介在するようになり「消費」の対象になる。
ファッションジャーナリズムは情報の通り道に過ぎないのだから、憧れの存在を見つけ出すことはできても、ないものを作りだすことはできないはずである。デザイナーは勝手にトレンドを作り出すのではない。過去のアーカイブやミューズになりそうな対象物、またはコミュニティを参考にしつつ、新しい何かを提案しているということになる。
これとは別の観察もある。ジンメルは「外では共同体に隷属している」している弱者が、はけ口として、まずは見た目から刷新しようとファッションを利用する、というようなことを言っているのだそうだ。現代でも女性のファッションでは、常に「解放」がテーマになっているという観察がある。トレンドの発信源は「上流階級」なのだが、実際にトレンドを発信するのは「その中でも弱者」ということになる。現代でも、女性ファッションのテーマは「解放」であるという観察がある。男性が、背広という比較的安定した形を手に入れたのに比べて、女性のファッションは見られて、選ばれることを前提にしている。ここから解放を試みているという観察だ。
流行は「区切られた見せびらかしの時間と空間」を持っている集団によって作られ、摸倣されるものだと定義できる。

  • 同調:あるコミュニティのメンバーとして認められたい。
  • 摸倣:そのコミュニティのメンバーでない人が、コミュニティを摸倣したい。
  • 区分:そのコミュニティの中から、半歩抜きん出たい。
  • 解放:隷属するコミュニティの規範から解放されたい。

ファッション業界が目下悩んでいるのは、昔のような規範集団が残っているのかということだろう。オートクチュールは既に衰退しつつある。一方で、中国のように新たに消費に加わった国には、フランスやアメリカのブランドに対する熱烈な購買意欲がある。不況とされた2011年だが、ブランドの売上げは好調だったそうだ。中国人がブランドモノを「熱烈歓迎的」に買うのは、エルメスのバッグの高級さゆえではなく、フランス人のような生活がしたいからだろう。「品物の良さ」を品定めできるようになるためにはさらに時間がかかるのではないかと思われる。
ファッション雑誌を読むと「今年のトレンド」がどこからか湧いて来たような印象を持つことがある。またマーケターが自分が売らなければならないモノに集中しすぎるあまり、それがどのような来歴で作られたものかという視点は消えがちだ。しかし人々が本当に摸倣したいと思っているのは「モノではなく人」「人よりもコミュニティ」だ。つまり裏側に人が透けて見えなければ、ファッショントレンドは意味を持たないのだ。

消費は祝祭になり得るか

買い物は祝祭化しており、場合によってはかつて宗教が担っていた機能を代替しているようにさえ見える。この主張を「ああ、そうだな」とか「何かの哲学書で読んだなあ」と感じる方もいらっしゃるだろう。また、そんな馬鹿なことがあるはずはない、と思う人もいるのではないかと思う。
消費は祝祭ではない。だから祝祭空間が持っている機能をすべて満足させることができない。いったい何が欠けているのだろうか。
かつて宗教と買い物の間にははっきりした垣根があった。ファッションの歴史(下巻)を参考に見て行きたい。
ファッションの近代化は1815年頃から始まった。背景にはアメリカが綿の生産地になったこと、テキスタイルの機械化が進んだことがある。
1829年にバルセルミー・ティモニエがミシンを商業ベースに乗せる。その後、アイザック・シンガーがミシン業界を席巻した。工程の分業化が進み、デパートで注文服を受け付けるようになる。
しかし、一番重要な点は「中産階級」が生まれたことだ。チャールズ・フレデリック・ワース(シャルル・フレデリック・ウォルトと書いている文献もあるが同じ人だ)が、予めデザインを作り、それを売り込むことを始めた。これを「オート・クチュール」と呼ぶ。
1851年、第一回ロンドン万博が開かれた年だ。最初は中産階級向けに商売をしていたのだが、メッテルニッヒ公爵夫人に服を売り込んだ。これがパリ中で評判を呼び、ついには海外からの観光客を呼び寄せるまでになった。(ちなみに、トーマス・クックにより鉄道による団体旅行が行われるようになったのは1839年から1841年頃だった。)
ファッションデザインアーカイブによると、1868年にフランス・クチュール組合(サンディカ)が作られ、1911年にパリのファッションショーが開始される。プレタポルテが出てくるのはこれよりずっとあと、第二次世界大戦後だそうである。
産業革命の後「消費に回す金がある中産階級の人たち」がデパートへ買い物に行くようになった。彼らは「労働とは別に消費をする場所と時間」を持っていた。もともとこうした時間や空間を持てたのは土地を持っている貴族だけだったのだが、経済が成長し、層が厚みをましたのだと考えられる。『共産党宣言』が刊行されたのが1848年だそうだ。プロレタリアート(無産階級)という言葉が発明された時点で、彼らは資本家であり、ブルジョワだという概念ができた。
この頃の市民はまだ宗教に影響を受けた生活をしていたはずだ。神様が死んだり(ニーチェ)、無意識という言葉が発明されたり(フロイト)するのはまだ後のことだ。なぜ消費の担い手が貴族から中産階級に広がると消費が始まるのかという疑問は残る。身分制度が揺らぐと支出によって身分を証明したり、価値を共有する必要が出て来たということなのではないかと思う。消費の現場にいなければ、流行に関する情報を得る事はできなかっただろう。
ワースがオートクチュールを始めるまでは、消費者が「生地を買い」「装飾品を選び」「仕立て屋に行き」「お針子に仕立てさせる」という作業を行っていたのだ。つまりコミュニティに流行があり、その流行に沿ったものを消費者が選んでいたということだ。男性服からは顕著なファッション性は消えていたが、女性服の流行はめまぐるしく変化しつづけていた。
現代では、出来合いの服を選択し、それをどう組み合わせるかで「モテるかどうか」が決まる。つまり、ファッションで自分が所属したいコミュニティに所属できるかどうかが決まる。さらに、コミュニティがどのような「モテ」を選択するかには明確な決まりはない。「自分にあった服を着ればいいんじゃないですか」などといいながらも漠然としたラインは存在する。コミュニティの移動も可能といえば可能だ。
消費者が出て来たばかりの時代には、それなりのコミュニティがあり規範が決まっていた。どのような服を着るのかということはメンバーに知られていて、それに従って職人が服を作る。消費階級がふくらみ、上流階級のコードを伝達するうちに「モード」が生まれ、やがて、発信源が仕立て屋からデザイナーに取って代わられるようになった。
こうした流れはやがて、人々に「自分は何者か」という問いを突きつけるようになる。まず科学が発展し、自分たちが聖書をベースにして作り上げて来た世界観が「実は正確でない」ことに気がつき始める。国際分業と植民地獲得競争が激化するにつれて「国民」という概念が組み上げられるようになる。このブログで何回か取り上げた、1930年代のドイツやオーストラリアの人たちのように「ドイツ性」や「ドイツ語圏を生きるユダヤ人性」というやっかいな問題もうまれた。やがて、ウィーンに上京して来た画家志望の青年が、都市のコミュニティから排除されたのち「崇高なアーリア性」を崇拝するような時代がやってくるのである。ヒトラーがウィーンで美術学校に受け入れられていたら、現在のヨーロッパは今とは違った形になっていたかもしれない。
現在の銀座はコミュニティの要件を欠いている。何の情報もなしに銀座に行っても、誰もその人を仲間に加えてはくれない。自分の活動は自分で定義する必要がある。ヒトラーほど極端な人が出てくるかは分からないが、阻害された後に多いに立腹する人も出てくるだろう。
消費が宗教的な祝祭空間にならないのは、消費するだけでは何かに所属している気分が味わえないからだ。逆に消費が所属欲求を満たす仕組みさえ作れば、消費は祝祭になり得る。

ファッションに見る、消費者の誕生

買い物は祝祭化しており、場合によってはかつて宗教が果たしていた機能を代替している。この主張を「ああ、そうだな」とか「何かの哲学書で読んだなあ」と感じる方もいらっしゃるだろう。また、そんな馬鹿なことがあるはずはない、と思う人もいるのではないかと思う。ある人は宗教はそんなに軽薄なものではないと思うだろうし、ある人は宗教のように訳のわからないものではないと感じるだろう。

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ジェームズ・ディーンとファッション

ジェームス・ディーンは、「大人」と「子ども」しかなかった所に「若者」という新しいカテゴリーを作ったとされている。大抵の分析では、ジーンズはその象徴として扱われているが、必ずしも主役だったいうわけではない。まだ、現代のようなファッション・シーンはうまれていなかったからだ。
有名な映画三作は1955年から1956年にかけて公開されている。自動車事故で亡くなったのは1955年で、このとき二十四歳だったそうだ。世界的にはワルシャワ条約機構が成立して東西冷戦が始まった年だ。日本では自由民主党と社会党のいわゆる五十五年年体制ができ上がった時代でもある。十年かけて第二次世界大戦後の枠組みが完成しつつあった。
ジェームス・ディーンは身長百七十三センチと背の低い青年だ。近眼でメガネをかけていた。とてもファッションモデルにはなれそうにないのだが、だからこそ大人でも子どもでもない「若者」というジャンルが作れたのだろう。
彼を特徴づけているのは、役柄への直感的なアプローチだ。加えて、回りのことを気にしない。これは俳優としては致命傷になり得る。アンサンブルができないので脇役ができない。つまり、主役にしかなれないのだ。
このため、世の中に出るためにはそれなりの苦労をしている。ゲイの大物に食べさせてもらい―たいていほのめかすように書いてあるだけだが、肉体関係があったと主張する本もある―逃げるようにしてニューヨークの舞台に立つ。そこでエリア・カザンに見いだされハリウッドに戻った。親友の脚本家が書いたという伝記には彼らの肉体的な関係が書かれている。どうやら男性が好きだったというわけではなく、食べるための選択肢だったらしい。
現代から見ると「ジーンズ」というファッションアイテムがあり、それに似合うアイコンとしてジェームス・ディーンがいたように思える。しかし彼にとって服装は「単なる衣装だった」らしい。与えられるものを、直感的に着こなしていたということだ。本の中には衣装を着て写真を撮ったものが残っている。これを元に次の衣装を考えるのだそうだ。
背が低いのだから、ことさら大きく見せてもよさそうだが、肩をすぼませて「反抗的」なキャラクターを演じてみせる。これが「少年性」を演出した。中には上半身ハダカ―つまり伝統的な男らしさを求められる―もあるが、こちらはあまり効果的な写真になっていない。例えば、ジャイアンツに出てくる成功したあとの主人公はあまり「ジェームズ・ディーン」らしくない。
このことから、彼がファッションアイコンになったのは、有名になってから青年のままで亡くなってしまったからかもしれない。こうして見ると、ジェームズ・ディーンのファッションについて解説した本のなかに、ことさらファッション性や彼の着こなしのセクシーさを褒めているものを見つけると、却って「この人本当に分かって書いているのかなあ」とさえ思えてくる。ジェームス・ディーンはそれくらい刹那の人だった。だからこそ若者というカテゴリを作り出すことができた。五十代を過ぎても若者らしくジーンズが似合わなくてはならないと考えられる以前のことなのだ。
ジェームス・ディーンのファッションには、ことさら「かっこよく見せよう」という自意識が感じられない。スターとして扱われてもどこか寂しげである。アルマーニのようにファッションと映画が密接に結びつくのはずっとあとの事である。
もし、彼があのまま生きていたとしたら、スター性を維持するために「流行のファッション」を取り入れることになったかもしれない。しかし、彼は亡くなってしまったので、1955年から56年の青年はスクリーンの中でジェームズ・ディーンという、あのいつも肩をすぼませたキャラクターとして記憶されることになった。
時代は一足飛びには進まない。まずジェームス・ディーンが若者というカテゴリを作った。そこに市場がうまれ、新しい概念「ファッション・トレンド」が作られた。。いよいよ1960年代に入り、我々が知っているファッション・シーンが生まれるのだ。

日本の男性ファッション誌

ファッション雑誌が嫌いだった。もともとオシャレに自信がないというのが根底にあるのだが、見てもよく分からない。最初はどうして分からないのかすら分からなかった。現在「服が売れない」と言われており、出版社も赤字続きなのだという。ということで、どうしたら新しいアプローチができるのか考えてみようと、今年の始めくらいからファッション雑誌を読み始めた。それに加えて、ちょっとオシャレな人と言われたいという密かな野望もある。いちどはそういうシゴトもしてみたい。
何回も繰り返して読んでみたのだが、さっぱり分からなかった。どういうアプローチを取ろうかと思ったのだが、2つ実践してみることにした。

  • 自分で買い物するときの参考書にする。
  • あるものを使って工夫できないか考えてみるなかで、参考書として使う。

すると、ところどころに使えるコンテンツがあるのがわかる。スカーフを使ってひと味加えるとか、色を揃えるとか、そういうのがところどころ混ぜ込まれている。だから、ところどころ読んでゆけばいいわけだ。
しかし、結局日本の雑誌は参考にしなかった。参考になったのはGQとEsquireだ。典型的なコンテンツがこれ。The 12 Styles of American Man。Webではスライド式になっていて、ときどき広告がはさまる。アメリカも出版不況なので、Webの広告が大きな収益源になりつつあるのだろう。10とか12のスタイルの中から、気に入ったスタイルが見つかったら右側にある文章を読む。要点が短くまとまっている。気に入ったのはThe Rake(レーキ)で、熊手の意味だ。要は女ったらしで熊手のように女性をかき集める男性だ。ブレザー、ドレスシャツ(ただし上の3つのボタンは開けておく)、大きな時計が特徴だそうだ。まあ、3,400ドルのスーツは買えないので見るだけだとは思う。
結局、こういうのが記憶に残るのは、ヒトが中心にいるからだ、と思った。それを念頭に入れて日本の雑誌に戻る。すると次から次へと新しいモノに関する情報が流れてくる。結局買い物するとしても選べるのはその内の一つか二つだ。いったい何が見所なのか分からなくなる。モノが中心なので記憶に残らない。これがトータルに組み合わせられることによって全体のスタイルが生まれるのだが、部品が散乱したカタログ雑誌みたいになっているのが、日本の現状なのだ。記憶に残るのはパーツではなく、全体の印象だ。所詮、買わせるための雑誌だからなのだという見方もできるのだが、通販サイトはもっと親切になっている。掲載されている情報が売れ行きに直接関わるのだから、雑誌よりも「選ぶのに役に立つ情報」だけが生き残って来た結果なのだろう。
どうしてこういう事になったのか、というのは一応説明ができる。多分、記事の大半がタイアップになっているのだろう。広告主の関心はその服をどう売るかであって、読者がどういうスタイルを持つかということではない。だからでき上がる記事はカタログのようになる。それに「最近服の売り上げは落ちている」という情報が入る。だから「思い切って浪費するのが大人買いなのだ」という特集記事まである。ちょっと共感しかねる。作り手の都合で、記事がつぎはぎされて、最終的に一貫性のない雑誌ができ上がる。それでも売れる雑誌は20万部以上出ているというのだからすごいものだ。
でも、もう一歩踏み込んで考えるとちょっと分からなくなる。それにしても日本人が徹底的に「人間」に関心を向けないのはどうしてなのだろう?アメリカ流のスタイルガイドは、読み手がいろいろなスタイルを持っているのだということを前提にしている。人種的なばらつき、職業、生き方などがあるので「これが正しい」というスタイルはない。日本の雑誌で、同じようなモデルが、同じような服を着ているのとは対照的だ。これは「日本人にスタイルがない」ということなのだろうか。
もう一つは、GQもEsquireもファッション雑誌ではないということだ。男性誌という枠組みで、Esquireにはヌードも出てくる。極端な話をすると、週刊文春や週刊新潮に本格的なファッション情報が出ているのと同じことだ。生活情報の中にファッションが組み込まれているということのようだ。だからこうした雑誌がファッションだけを延々と特集するということはあり得ない。普通のビジネスマンにとってもどう見られるかということは大切な知識の一つなのだろう。
よい風に考えると、日本人はとりわけファッションに関心が高く、ファッションだけに興味を持つ人たちが多かったのだというようにも解釈できる。どのような仕組みでこうした枠組みが維持されていたのかはよく分からない。しかしこれが崩れてしまうと、そこそこの価格で、とりあえずみんなと同じような、こぎれいな格好をしていれば安心という社会ができ上がる。
今日は取り立てて結論のようなものはない。最後に情報アーキテクチャ的な論点からこれを整理してみたい。こうした日本の雑誌の情報はある程度整理することができる。例えば、覚えていられる情報の量は限られているので、読者を調査して全体が把握できる情報量を精査する事は可能だ。また、分類方法を工夫することで、初心者向け情報と中級者向け情報を分かりやすく整理することも可能だろう。するとどこを読んで、どこを読まないかという分類ができるようになり、読者が情報の迷路のなかで迷うことはなくなるだろう。最初にオーバービューを定義して、ディテールに移るという紙面構成もできるようになる。
アメリカの雑誌が読みやすく、日本の雑誌が読みにくいのはこの情報アーキテクチャーが不足しているからだ。ウェブの現場でもそうなのだが、日本のインタラクティブ・デザインのコースでは、情報アーキテクチャについて体系的に教えてくれない。アメリカのコースではインターフェイスデザインは必須項目になっている。しかし、ウェブサイトのデザイナーはこれを勉強せざるを得ない。雑誌と違ってナビゲーションを自分で定義しなければならないからだ。Web情報アーキテクチャ―最適なサイト構築のための論理的アプローチのような本もあるので、これを読んで勉強したヒトも多いだろう。
多分、紙メディアで働く人たち、特に編集プロのような末端にいる人たちはこうした学問があることすら知らないのではないかと思われる。同じように、大学の経済学部あたりを卒業して出版社に入った人たちもこういう勉強をするチャンスはなかったのではないだろうか。
しかし、情報デザインは根本的な問題を解決することはできない。それは「ヒトを中心に情報を組む」か「モノを中心に情報を組むか」とか「ファッションだけで行くか」「総合誌にするか」といったような問題だ。情報整理以前のプロデュースの領域だ。多分、読者に聞いてみても「生活に必要な情報とより快適に過ごす情報が適度に盛り込まれた雑誌」を見た事がないわけだから、こうしたニーズを発見することはできないだろう。
このような一連の問題を整理する事で、今までファッション雑誌が分かりづらいと考えてきた人たちが体系的に買い物ができるような情報を提供することができるようになるはずだ。今持っている専門知識や広告主との関係といったビジネスモデル上の制約が、本来どうあるべきなのかという議論を難しくしているように思われる。

アルマーニの起源

アルマーニについて見てみよう。今ではバブルの代名詞として知られている。アルマーニだが、成功したのは新しい市場の開拓に成功したからなのだ。信じられないかもしれないが、その成功はどこかユニクロの成功に似ていて、違っているところもある。テキストとして使ったのはジョルジオ アルマーニ 帝王の美学だ。
ジョルジョ・アルマーニは、1975年に自身の会社を興す前に、デパートで働いていた。かつて西武パルコがそうだったように、ミラノの街が外国からの文化を受容する窓口になっていたようだ。同じ時期1967年にファッション雑誌『ウォモ・ボーグ』が誕生した。全てに前例がないので自分たちで作り上げる余地が多分にあったのだという。
アルマーニはその後、セルッティの元で働くようになり、ファッションの基礎を学んだ。そして1975年にゲイのパートナーでもあったガレオッティ(後に40歳の若さでエイズで亡くなる)に促され自身のブランドを立ち上げた。アルマーニ自身は意外な事に針の持ち方を知らないそうだ。つまり彼はテイラー出身ではなかった。リテイラー出身なので「街で何が流行っているか」ということを形にするのが彼の役割なのだ。イタリアにはこうした職業は存在しなかった。後にこういう人たちは「デザイナー」と呼ばれることになる。
アルマーニの特徴は、スーツから彼が余分だと考えるものを除いてゆく「脱構築的」な考え方と曲線を多用したパターンだ。これが体の線を活かした独特なラインを生む。しかし、保守的な人たちの間では1970年代にはオイルショックによる不況もあり、こうした新しいラインは受け入れられなかった。アルマーニを着ていたのは主に俳優やアーティストといった人たちだ。
彼の服はアメリカに渡った。高級デパートで扱われるようになり、1970年代の終わりまでには俳優達が着るようになった。そして1980年のアメリカン・ジゴロでリチャード・ギアが着たことで世界的に知られるようになった。この図式は面白い。アルマーニはしつらえの高級服に手がとどかなった人たち向けに作られている。セレブしか入る事ができないパーティーや映画を通じて「高級感」をアピールしつつも、一般の人たち向けに作られた服なのだ。この「憧れ」がアルマーニの人気の秘密になっている。「憧れ」が続く間、このブランドの人気は保たれるだろう。裏返せば、憧れが消えたとき、ブランドの寿命も終わってしまうことになる。憧れを作っているのは「情報の格差」である。なので、彼らは情報をコントロールしようとする。
アルマーニは確かに高級品なのだが、既製品であることには変わりはない。ハンドメイドの工業製品なのだ。ピエール・カルダンらがこうしたジャンル – プレタポルテ – を作るまでは、服には一般庶民向けの服か、テイラーが作る高級服しかなかった。つまり、プレタポルテの位置づけは新しい「ニッチ」だったわけである。そしてこういったニッチに飛びついたのは、アーティスト、俳優といった人たちであり、この人たちが後にトレンドセッターとなることで、普通の人たちまでがプレタポルテの服を着るようになった。アルマーニは自分の服は飾るための高級品ではなく、シゴトをする人が着るための服だと言っている。(これについては実際に、お店の人にいろいろ聞いてみよう。本当にアルマーニはシゴト服として使えるだろうか?)
新しいニッチの創出が成功に結びついたのは、ユニクロも同じだ。ユニクロの服はパターン化された工業製品だ。かつて、ファッション業界にはこういった考え方はなかった。全ての製品が多様化・個性化に向かう中で、ユニクロだけが部品化・機能化を指向したのだろう。色も形も単純で比較がしやすい。そして「暖かい繊維」といった売り方は電化製品のそれに近い。デザインが多様化してくるとこんどは逆に「何を選ぶのが正解なのか」が分からなくなる。つまりこちらは、情報が多様化し、どこまでも伝わるようになった時代にあったポジションを獲得しているのだ。スペックはニュアンスよりも伝わりやすいのだ。
ファッション雑誌は(雑誌については別の独立したエントリーをつくろうと思っているのだが)新しいデザインを売るためにそれぞれのメッセージを発信する。すると全体としては混乱したメッセージがつくられ、訳が分からなくなってしまう。ユニクロが解決しているのは「一般庶民にも分かりやすいおしゃれさ」だ。ここに、みんなユニクロを着ているという第三者のメッセージや家族の情報が加わることで、ユニクロが正解なのだと思わせるような空気が生まれたのだと思われる。
ユニクロを見ていて面白いなと思うのはこうしたニッチが意図して作られた訳ではないという点だ。多分正しく認知もされていないし、柳井さん自身もこういう認識はしていないのではないかと思われる。その証拠にユニクロはジル・サンダーと組んだ服を作ったり、アーティストと組んだTシャツなどを発表したりすることがある。マーケティングとしては面白そうだ。
さて、ユニクロは最初から工場から流通・マーケティングまでを一環してカバーしているが、アルマーニはそのようなやり方を取らなかった。最初はGFTという会社を通じて流通を行なう。SIMのような会社と提携して品物をつくってもらっていた。そしてライセンスという比較的新しいやり方を通じて、各地のデパートに品物を卸していた。成長するに従って、アルマーニはいくつかの拡張戦略を取る。一つはこうした流通や製造の過程を自前化することだ。ジーンズやカジュアルラインを作っているSIM(現在はSIMINT社)は、1989年に20%の株式をアルマーニ社に取得され、1994年までには90%以上の株式がアルマーニに保有されている。日本にアルマーニを持ち込んだのは伊藤忠商事だった。主にデパートで売られていたのだが、直営のショップが出来始め2000年代に入ると銀座にアルマーニタワーが作られた。
もう一つの成長戦略がラインの拡張だ。イタリア軍人に服を着てアマチュアモデルになって貰ったことから軍服などにインスパイアされエンポリオ・アルマーニが作られる。ビジネスマン向けにコレッツィオーネが出来る。そして若年向けにアルマーニ・ジーンズや、A|Xといったブランドが立ち上げられた。最後には、ホテル、スパ、家具などと多角化路線を突き進んでいる。
ユニクロが柳井正さんの強烈なリーダーシップによって支えられているように、アルマーニも、パートナーの死後はジョルジョ一人が支えている。評伝には彼の「病的」ともいえるコントロールについての記述がある。ファッションショーに使われる素材はすべて本社から送られ、全ての最終判断はジョルジョが行なう。コンセプトはジョルジョの頭の中にしかないのだ。部下を叱責する姿は、例えばアップル社のスティーブ・ジョブズを思わせる。部下は完全に「手足」となることが期待されるのだ。つまりこれは同時に彼らが死んだ後、ブランドの行く末に問題を抱えているということになる。
さて、情報という観点からまとめてみよう。アルマーニのようなデザイナーズブランドは、選ばれた人たちの物でしかなかった情報を小出しに一般に流出させることで裁定取引(アービトラージ)の機会を作り出していた。しかしユニクロはアービトラージがなく、かつ情報の取捨選択が難しい状況で選ばれやすい服を市場に提供している。背景には情報価値の暴落(情報のデフレ)がある。だからユニクロを模倣したい企業は、その安さを分析するのではなく、企業がどのような情報環境でどんな情報を提供しているのかを分析すべきだろう。

モテたければこどもっぽく – ネオテニー

最近an・anで、向井理がヌードになったのをご存知だろうか。この人身長は高いが「男らしい」とは言いがたい。男性が胸やお尻が大きな女性らしいヌードを好むのに比べて、女性があまり男らしくない体を好むのはどうしてだろうか。
久しぶりに『幼児化するヒト』を読んだ。科学論文ではないのでストーリーは追いやすいが、類推に類推が重なっていて、そのまま引用していいかどうかはよくわからない。
筋をまとめると、人間はチンパンジーの子どもに似ている。こうした進化を「ネオテニー」と言う。成熟したオスは攻撃的だが、コドモのままでいると群れを維持するのに便利である。
これが生き残りに有利だったため、女性はより幼い男性を好んだ。男らしいオスは魅力的だが、長期間婚姻を維持できない可能性が高い。最後に、子どもっぽさを維持することで、学習能力、知的好奇心、遊び好きな性格などが発揮される。
男性の幼児化が進み過ぎて、同性愛、小児性愛などの逸脱が発現するようになったのだという。こうした人たちは、新奇性(つまり創造力など)が高い人が多い。だから芸術家などには同性愛の人が多いと、推論される。また、この本は、東洋人は特に幼児化が進んだ人種なのだと言っている。幼児化が進んだ人たちは新しいモノの興味があり、学習能力も高いとされる。
この論を引くと、an・anで向井理が好まれるのは、性的に成熟しているものの過度に男らしくもないからだということになる。モテたければ筋トレは控えて、有酸素運動でヤセた方がよいらしい。
科学的な研究書ではないのでわかりやすい例が多く(著者は、動物の行動について勉強したあと、テレビの企画を書いている人だ)、いろいろな現象を考えるきっかけを与えてくれる。しかし実際に起きている事象も同時に見てみないととんでもない結論を導きだす危険性もありそうだ。