Addicted – ある中毒性の告白

始まりはほんの小さな不安だった。10年以上使っているパソコンをつくづくと見ていて、ああこれのどこが最初に壊れるのだろうかと思ったのだ。バックアップは取ってあったのでデータが消えることはないのだが、電源が壊れるか、ハードディスクが飛ぶか、それとも画面がダメになるかと不安になってしまった。
最初に漁ったのは近所の中古ショップだった。見つけたのはWindows XPの画面の小さいパソコンだった。YouTubeなどは問題なく見られるような速さになったのだが、これもChromeで「アップデートできません」と出るようになった。XPを実用で使うのは危険だという記事もよく目にする。
そこでヤフオクを物色し始めた。3000円ほどでMac MiniのG4を手に入れて持っているパソコンの環境を移した。しかしモニターを買わなかったので結局古いパソコンを主に使い続けることになった。さらに、ヤフオクでOS10.7という中途半端にしかアップデートできないノートパソコンを4000円ほどで手に入れた。これもChromeで「アップーデートできません」と出るようになったが、もとのパソコンに比べれば使える。
結局最終的に行き着いたのは今のところ最新のOSが入れられるデスクトップパソコンだった。モニター一体型だがモニターが壊れている。そのため2000円と格安で手に入れることができた。これに外付けのモニター(500円で買ってきた)を組み合わせて使うことにした。
ここで本来の目的は充足したのだが、あることに気がついた。いろいろやっているうちに「探して、手に入れる」ことに中毒していた。今でも何かを期待してヤフオクを覗いている。もう目的を達成したのに「探すこと」の中毒性から抜けられなくなってしまったのだ。
よく、議論を複雑にしないために本来の目的にフォーカスすべきだなどと書くわけだが、本来の目的に集中するのは意外と難しい。探索の中毒性は本来やるべきことがどうでもよくなるくらい強烈だ。「こうしたらこうなるのではないか」と考えるとやってみたくなる。パソコンのOSの入れ替えに夢中になりノートパソコンを一台ダメにした。本来OSを入れ替えるくらいでパソコンが吹き飛ぶことはないわけで、それほど入り込んでいたということになる。
最終目的のにフォーカスして最初から最新OSが使える機器を手に入れていれば、途中の無駄な出費はなかったはずだ。最終OSに行かなかったのは「どうせそんなものは手に入れられない」と思ったからなのだが、実際にはそんなことはなかった。実際の価格付けは性能とは関係なく値段によって決まっているようだ。100台ほどの落札価格を調べたのだが3000円近辺に山がある。需要と供給の理論では性能と価格の間に相関性があるはずなのだが、アフォーダブルプライスという概念もあるようだ。
中毒性がどこにあるのかはわからない。ちょっとした不安とちょっとしたリソースがドライブになっていることは確かだが、不安がなくても探索の中毒にはまっていたかもしれない。
無駄遣いしないためには、少々値段が張っても最終目的にかなうものを買った方がよい。妥協しても不安が解消されないので探索のループから抜けられないからだ。
こうした中毒性は探索だけではない。ネット上で「俺は正しい、あいつは間違っている」というトラブルを起こしている人を知っているのだが、対決などもそれ自体が中毒性を持ちやすい。人が目的を達成するためにモチベーションを維持する仕組みがいくつかあるのだが、それが暴走しているのだろうと思われる。これをやめるためにはどうしたらよいかと思うのだが、中長期的に考えてたり、長い文章を読んだりする状態にはないはずなので「収束するまで見守る」しか手がない。リソースを断つという方法もあるが、対決の場合「燃料」は逐次投下されるので、これもなかなか難しそうだ。
オークションは不確実に見えるのだが、中期的にデータを取ってみるとだいたいの相場がわかる。いっけん不確実に見えるが実は統計的に処理できる程度の<不確実性>にすぎない。ただし、データの整形には時間と手間がかかるのも確かだ。
一方、需要と供給を超えて「買わせたい」人は、少々難易度をあげた方がよいことになる。オークションや中古ショップに中毒性があるのは「わざわざ探さなければならず」「いつ手に入るかわからない」という不確実性があるからだろう。「いつでも買える」という状況ができてしまうと消費者は合理的になりプレミアムを支払ってでも何かを買いたいという意欲を失ってしまうのだ。
 

働き方改革が失敗するわけ

今日の日曜討論は安倍政権の働き方改革の宣伝をしていた。政府は「ちゃんとやっていますよ」というアピールだったのだろう。「これは失敗するな」と思ったのだが、聞き流しているときには理論的に説明できそうになかった。数時間経ってなんとなく説明できそうな気がしたので、試してみる。
現在の働き方改革の基礎にあるのは「政府による長時間労働の制限」に対する期待らしい。直感的には政府による制限はタリフに似ているように思える。タリフは国内産業を保護するが、その費用を払うのは消費者だということになっている。例えば日本人は高い米を食べているのだが、それは関税が高いせいである。同じように働き方改革という名前の保護政策は労働者に負担を強いることになるだろう。だが、枠組みは分かってもそれを理論的には説明できそうにない。
それではなぜ「政府によって長時間労働を制限」しなければならないのだろうか。どうやらA社が24時間労働をやめると、B社がそのオポチュニティを奪ってしまうという構造ができてしまっているからのようだ。これはコンビニだけではなく、様々な産業で起っているらしい。休んでいてもメールで指示が飛んでくるということもあるそうだ。ここからこぼれ落ちた人たちは非正規というステータスに落ち込んで行く。非正規は強い労働意欲を持てないので、全体的な活気がなくなり成長力が阻害されるということである。
例えて言えば、常に顧客を盗まれる危険性があるので、常時監視していなければならないのだ。顧客も短絡的になっていて「今手に入れられなければ別のところに行く」という癖がついてしまっている。だが、この監視のせいで子供も作れないし人間らしい生活が送れないという実にばかばかしいことになっているらしい。これを当事者間でやめることができないので、政府に監視してほしいと言っていることになる。お互いに縛り合っているうちにどうしようもなくなってしまったのだ。
政府は「監視しましょうか」と約束しようとしているのだが、パネラーの1人が「罰則が必要」と言っていた。
さて、ここからが問題だ。考えるべき要素は2つある。1つは監視がうまく行くかということだ。監視には費用がかかるのだが、労働基準監督署が強制力を持つような法整備はテクニカルには可能だが、労働警察を作って企業を24時間監視するには莫大な費用がかかる。誰がその費用を負担するのかといえば、実は労働者(=納税者)だ。
このような監視網が作られると脱法することのインセンティブが生まれる。法律の目をかいくぐったり労働警察の目をすり抜けたりすることにインセンティブが生まれることになる。罰則覚悟でもシェアを伸ばしさえすれば市場が独占できるわけだ。経済的利益があるところには必ず人は集まる。物が高いところから低いところに落ちて行くのを政府は制御できないのだ。
このように考えてくると、非常に単純な一つの疑問が浮かんでくる。「なぜ、監視し合わなければならないのか」という点だ。日本の産業の多くがサチュレーションを起こしていて、新規事業がないからではないだろうか。例えば、運輸業・保険業・携帯電話産業・電機・飲料・流通(デパート、スーパー)など成長が止まってパイの奪い合いになっている産業ばかりだ。こうした産業が顧客を奪われないようにするためには、24時間365日客を監視していなければならないのである。
つまり、この問題も日本に成長産業がなくなったことが原因になっているということになる。古い経営からリソースを解放しないかぎり、日本の労働条件は良くならないだろう。パネラーたちの要望が加藤大臣に聞き入れられても、脱法的な収奪行為が増えるだけなのだろう。

西日本新聞の倒錯した感覚

悲しい記事を読んだ。子園の応援を優先させて、吹奏楽コンテストの上位大会への出場ができなくなってしまったという話だ。美談と捉える人たちもいるのだが、それはおかしいのではないかと考える人もいて、ちょっとした議論になった。バズフィードの追加取材では校長の恫喝もあったらしい。
だが、西日本新聞は明らかに美談として捉えている。同調圧力をかけるのにマスコミが加担したのだ。

 「県予選で全力を出し切り吹っ切れた」。部員の田畑史也さん(16)は16日、スタンドでドラムを打ち鳴らした。樋口さんは「最高に気持ちが良い。僕たちも全力で戦います」。頂点を目指すナインとともに「熱い夏」を過ごすつもりだ。

三年生は涙ながらにコンクールを諦めたようだし、先生たちも参加させたかったようだ。「諦めさせられた」という側面があるのではないかと考えられる。そう言わざるを得なかったのだろうし、諦めてしまったという気持ちを正当化するためにはそう言わざるを得ない。日本人の同調圧力の恐ろしさをまざまざと見せつけられるし、「言わせている新聞」の無言の圧力には暴力性さえも感じられる。三年生にとっては一生に一度の夏だったのだ。
高校野球は、暑い中に生徒を走らせるいわば虐待のようなものである。日本人は他人が苦しむのを見るのが大好きだ。甲子園では丸坊主の学生が苦しむのを見て倒錯的な喜びを得るし、正月に学生を峠道で走らせるのを見るのも好きである。
オリンピックにもいえるのだが、日本人は「4年間みんなに感動を与えるために歯を食いしばり、人生を犠牲にしてがんばった」という図式が好きなのかもしれない。他人が犠牲になっているのを見るとどこかほっとするのだろう。ローマ人が奴隷を戦わせて熱狂するというのと似た心情がある。
それでも野球選手はマゾヒスティックな倒錯に浸って好きにやれば良いと思うのだが、それに他人を巻き込むのは受け入れがたい。「吹奏楽は高校野球の花」などと言っている記事もあるが、高校野球に来る人たちが、音楽を尊重しているとはとても思えない。球場の音響環境は劣悪で、木管楽器は響かない。聞こえるのはせいぜいトランペット・チューバ・大太鼓くらいだ。それも絶叫調の音楽でなければならない。甲子園でおなじみの曲はコンクールの曲だったりするのだが、一本調子に改変されている。太陽に晒される劣悪な環境は楽器にもダメージを与える。ひどい場合には水が飛んできたり雨が降ったりする。楽器は湿気には弱いのだが、お構いなしである。
夏になると悲しい気分になる。例えて言えば、コンサートに出場する歌手を真夏の平原に立たせてマイクなしで一日中叫ばせているのと同じことが行われている。それをお客が「音楽」として聞いているとは言えない。あれは本来なら音楽になり得たものを騒音としてまき散らしているのである。
例として有名なアフリカンシンフォニーを置いておく。最初が音楽としてのアフリカンシンフォニーだ。

次がブツ切れになったアフリカンシンフォニーである。有名な曲なので一度は聞いたことがあるのではないだろうか。
ノイズでいいのだから、巨大なスピーカーで音楽を流しておけばいいのだ。一本調子の曲が数曲あればいいのだから、楽隊などを置く必要は全くない。
にも関わらず、吹奏楽部員は「コンクールを優先させたい」とは言えない。日本人は野球に異常な関心がある。サッカーですら応援がつかないことがあるが、野球だけは全校挙げてやらなければならないと思い込んでいる。そこで同調圧力が働くのだろうと思われる。本当は自分たちの活動を優先させたいと思っているのに、涙ながらに違うことを言わされることになる。自発的に参加するという形を取らされ、魂を殺されるのだ。
差別される側とする側の落差を考える場合「普門館(今あるのかはわからないが)」のために甲子園をあきらめるかというのに置き換えるとわかりやすい。そんなことはありえないだろう。
同調圧力のおぞましさみたいなものはあるのだが、賞を取らなければならないのかというのもある。今回問題になったのは南九州大会に出場が決まっていたからだ。もし、優秀な成績を取らなければ「当然野球だろう」ということになったのだろう。「金メダルを取らなければ意味がない」というのと同じような、へんな成果主義を感じる。
この件がネットで反発されたのは「同調圧力で嫌々ながらやりたいことを諦めさせられた」という人が多いからではないかと考えられる。予め不合理な形で序列が作られており、それに従わないと責めを負うという窮屈な社会である。
西日本新聞はそれを読み解けず「汗と涙と感動のためにやりたいことを諦めたからあれは美談だ」と持ち上げた。安っぽい感動を得るために生徒の気持ちを踏みにじり商品として利用した。同調圧力どころか先生が圧力をかけていたことも取材しなかった。マスコミとして恥ずべき行為だ。
このような人たちがいるから、日本がどんどんダメになって行くのである。自由意志を同調圧力で曲げるというのは、極論すれば「特攻隊はお国のために進んで死んでいったのだのは、あれは美談だ」というのを同じ構造の話なのだ。第二の戦前はもう始まっているのかもしれない。

セブンイレブン – 問題を悪化させる構造

今回は、セブンイレブンで経験した個人的な問題から、組織がなぜ問題を解決できないかを考える。いろいろな要素があり整理ができないのだが、一週間程度経って思ったのは「持たれ合いになった集団では問題は悪化するのだなあ」ということだった。誰も最終的な責任を追わないという姿勢があるので、最終的には炎上させないと問題が解決しないのだ。
たいていの問題はローカルで燃えるだけなのだが、たまにネット全体を巻き込んだ炎上につながる。対応がなされるが、既に多くの人をうんざりさせている程度の解決策に過ぎないので「では燃やしてしまえ」ということになってしまうのだろう。

  • 非正規雇用を中心とした現場の知識不足とミス。
  • 忙しすぎる現場マネージャーの隠蔽。
  • 解決されない問題になれてしまって当事者意識を失ったカスタマーセンター。
  • 当然フィードバックが得られないので同じ失敗が繰り返される。問題を防ぐためのIT投資もされない。
  • 短い間にも伝言ゲームが起きている。

セブンイレブンで買い物をして91円をデビットカードで支払った。普段ならすぐにオンラインバンキングで買い物の記録がつくはずなのだが、今回はつかなかった。まあ、そういうこともあるだろうと考えて放置していた。
こちら側のミスは売り上げ伝票(レシート)を捨ててしまったことだった。買い物をした日付が曖昧になってしまった。
だが、しばらく待っても記録がつかなかった。この時点で「海外の場合には時間がかかることがある」が「追跡調査はできるのでご安心ください」となっていれば、問題にはしなかっただろうと思う。

サポートはないが、忙しい現場

そこで、15日にセブンイレブンジャパンに連絡をした。するとアルバイトらしいオペレータが「私どもでは分かりません」という。さらに店舗にも連絡してみたが「忙しいから記録は調べられない」という。漠然とした日付をもとにしてレジの記録をチェックする仕組みがないのだという。後になって分かったことだが、問題がおこるとわざわざレジに出かけていって伝票を手作業でチェックするしかないそうだ。
それでは困るので8月16日に銀行に連絡をした。どうやら「与信」はされたが、買い物の記録がつかなかったという。伝票の日付は8月11日だという。
「分からない」では困るのでセブンイレブンのカスタマーセンターで「上の人」を呼んでもらった。コールセンターのアルバイトの人はクレジットカードがどのような仕組みで決済されているのかを考えたことがないようだった。英語では「インクワイヤリー」と呼ぶのだが inquiry was made but not processed の意味(これを日本語に訳して言った)が分からないようだった。だが、アルバイトの人は自分から上司に電話を変わってくれとは言えない仕組みになっている。そこで、形式上客がクレームしてエスカレーションせざるをえなかったという形を作らなければならないのだ。
スキルによってエスカレーションする仕組みにはなっていないのだ。清水さんという担当者が出て来た。

隠蔽しようとする下部マネージメント

「上の人」が社員なのかコールセンターの従業員かは分からないのだが、とりあえず「inquiry (与信)」と「実際のプロセス」の違いは分かっているようだった。しかし、話を聞いているうちに、この人が「エラーがなく通常に処理された」という形を作りたがっているのがわかった。するとケースをクローズできるのだ。なかったことにして「91円をオゴる」という形にしてもよいような口ぶりだった。そこで「それでは問題は解決しない」旨を伝えた。清水さん的には「ケースがクローズできない」ということを意味する。コールセンターの目的は顧客に満足してもらうことでない。ケースをできるだけ早くクローズすることなのだ。
そもそもの問題はレジにありそうだと思った。何らかのオペレーションエラーがあったのだろう。建前上はお店は独立していることになっているので、調査するかしないかというのは店側の判断になるようだ。最終的にどのような処理をするのか(つまり客からの回収をしないのか)というのも店側の責任になるようだ。本部はリスク(つまり責任)を追わない仕組みになっているらしい。
ポイントになったのは、クレジットカードのインフラを誰が請け負っているかという点だった。「お店側は仕組みを理解して問題解決できますか」と聞いたら、清水さんは黙り込んでしまった。
レジはアルバイトなので当然間違いは起こりうる。店側は忙しすぎてイレギュラーケースついて判断したり、エラーを処理したりする余裕はないだろうと思った。店と本部をつなぐ経営相談員という人がいる。ネットでは「指導員たちの役割は店側を搾り取ったり無理に仕入れをさせる」ことだなどと書いてあるが、名目上は経営相談員だ。お店の人は「営業さん」と呼んでいるらしい。

IT投資が生産性向上に寄与しない

今回は、100円に満たない金額だが、こうした間違いは頻発しているのではないかと思われる。合わない勘定を普段どう処理しているのかということが気になった。もしかしたら、店長が補填するということが行われているのではないだろうか。
これを防ぐためには記録システムを作って、イレギュラーな処理にアラートを入れるようにすればよい。多分、コンビニは発注システムではシステムを作っているのではないかと思う。「品切れ・欠品」は本部の売り上げに影響を与えるからである。しかし、金銭的なインセンティブが働かないとIT投資をしないことになっているのだろう。
海外ATMカードの不正引き出しにも対応しきれていないらしいので、セブンイレブンはこの点では遅れているのだろうことが想像された。
お店で聞いたところ分かったことは2つある。現金の間違いはしょっちゅう起きていて、店長かバイトが補填しているそうだ。銀行のように1円まで探し出すということは行われていないらしい。シフトリーダーさんが前に努めていたスーパー(もしくはデパート)では500円を上限として、それ以上では従業員が補填していたということだ。

問題はなかったことになる

一日の終わりに問題が解決しなかったようで担当者から「今日はできなかった」「明日は私は休みである」という連絡が入った。休みならしょうがないなと思った。
だが、次の日に銀行口座をチェックすると、伝票が発行されていた。日付は8月15日になっていた。遅れて処理したのかもしれないし、ミスに気がついて何かをしたのかもしれない。もし、先日の買い物データが処理されていれば伝票の日付は8月11日になっているはずである。アメリカ西海岸時間の8月15日は日本時間の8月16日だなどとの疑問を持った。ただ、問題そのものは解決された。この時点で気は楽になった。

結局、報告はなかった

3日経っても連絡がなかったので、本部に問い合わせたところ「店が対応することになった」と言われた。16日中に連絡するということだったようだ。しかし、連絡はなかった。本部で責任を持って対応してほしいと依頼した。カスタマーサポートの担当清水氏は状況を把握していなかったらしく、店側に確認を入れたらしい。これは店に聞いてわかった。
思い立って店に行ってみたのだ。そこで、シフトリーダーと呼ばれるパートの人からいろいろな話を聞けた。

  • 店側はカードをスワイプしてレシートが出た時点で作業が完了するのでエラーは起りようがないようだ。お店側のオペレーションエラーを疑っていたがそれはなかったらしい。
  • 店側としては何も聞いていないという。
  • 人繰りがつかないので店長は夜通し勤務をしている。今頃は疲れて寝ており、連絡が取れない。

「店長さんは大変ですね」というと「コンビニはブラック企業ですよ」と笑っていた。
オーナーと連絡が取れたのだが「本部が責任を持って対応する」と言われたらしい。再びカスタマーサポートと話が食い違っている。そこでカスタマーサポートに連絡したところ、営業指導員が対応することになっているという。今朝と言っていることが違う。

伝言ゲーム

結局経営相談員のところにボールが飛んできたらしい。シフトリーダーは「顧客とのやり取りを聞いて報告しろ」と言われたというので、少しカッとなった。カスタマーセンターでは16日中に連絡しろと言っているのに、営業相談員が放置した上に「何があったかオレに報告しろ」と言っているように思えたからである。そこで「客が怒っているから今すぐ電話を寄越せと言ってくれ」とお願いした。
実際には営業指導員飯塚氏の言い分は異なっていた。経営相談員の飯塚氏は直接伝票を確認しなければならないが、今朝になってはじめて確認ができたというのである。で、あれば清水氏の「今日は休みだが責任を持って明後日には報告する」は何だったんだという話になってしまうという。その場で言い繕ったのだろう。
飯塚氏によると、11日に伝票は見つからなかったという。炭酸水とデビットカードだという情報は渡っているのだが、伝票を調べるためには全てのレコードを見て行かなければならないらしい。しかも、データはオーナーと社員(唯一店長だけ)しか分からないそうだ。あとは営業相談員がサポートすることができる。
面白いのは伝言ゲームが分かったことだっただった。飯塚氏は「11日には8時から9時に炭酸水が出た」と言ったらしいのだが、シフトリーダーさんは「11日の8時から9時のデータだけを調べた」と言ったのだ。つまり、短い間にも伝言ゲームが起きている。これが積み重なって状況が悪化していたらしい。飯塚氏は本部に対して「今朝やっと確認ができた」と言う報告をしたらしいが、サポートセンターはそれを記録に残していなかった。清水氏は「あとは店に丸投げ」と思っているので、忘れてしまっていた訳だ。

責任を取るのは誰なのか

経営相談員によると本来は客との折衝は店側の仕事なのだそうだ。しかし、お店側はクレジットカードシステムは理解していない。その上、店長は忙しすぎて昼間は寝ており、飯塚氏によるとオーナーも体調を崩しているのだそうだ。そこで結局、本部の人が出てきてやり取りを引き取り調査もせざるを得なくなったようだ。笑顔のコンビニ業界の裏にはこのような事情もあるのだなあと思った。
カスタマーサポートの清水氏によれば、カスタマーサポートには指導員を指導する権限はなく、プロジェクトをドライブするという部署でもないということだ。あくまでも「他人ごと」というスタンスなのである。それを会社の代表だと思っていると嫌な思いをするわけだ。話をしていて「ああ、この人は実際は死んでいるのだな」と思った。すでに処理しきれない問題を複数か買えているのだろう。

事故につながりそうだが……

こうした体制では小さな事故は無数に起りそうだが、直ちに大きな事故にはつながらないのだろう。ただ、一度重大な事件が起れば、それを防ぐのは難しいだろうなあと思う。たいていは、本部は状況を正しく把握しているのだから、現場を教育するという対策が取られるのだろうが、実際の現場は「本部は何も分かっていない」と感じるのではないだろうか。
問題の本質には搾取構造がある。本社はあらゆるリスクを店側に押し付けて安定した収入が得られるようにしている。だが、実際には店側にはリスクに対応するリソースは与えられていない。問題の解決能力もないし、意欲も余裕もない。黙っていてもお客さんが来るので、客を喜ばせようという気分もない。
だが、実際のブランドイメージは現場のオペレーションに依存している。これが破壊されてしまうと、リスクを現場に押し付けていた本部には解決手段がなくなるということになる。

結局問題は解決しなかった

飯塚さんがどこまで調べたかは分からないが(調べていない可能性もあるわけだが)買い物をした記録が見つからないと言っている。実際に買ったのがなかったことになっているのだ。セブンイレブンは誰が何を買ったかという記録を取っていないので、トラブルを避けるためにはクレジットカードのレシートを取っておくか、セブンイレブンを使わないに限るということになる。

「独島」という悲劇

韓国の国会議員が終戦記念日に竹島に上陸した。これを重大な挑発行為だと考える向きもあると思うのだが、今日は終戦記念日だ。すこし違った角度から見てみたい。
日本は民主的な過程で第二次世界大戦に突入した。少なくとも戦争が始まった時点では国民は軍部を支持していた。そしてかなりはっきりとした敗戦を迎えた。国力の差は明確で「うまく行けば勝てるかもしれない」というようなレベルの違いではなかった。日本人は自由意志で戦争に参加し、はっきり「負けたのだ」と考えることができた。
ところが韓国は自らの意思で戦争に参加したわけではなかった。中国はかろうじて戦勝国としての地位を与えられたが、朝鮮人はその列に加わることもできなかった。日本は半島を解放したが、米ソから自治能力がないと見なされ、戦後も植民地扱いを受けた。その後、外国を巻き込んだ内戦が始まり、国土が破壊された。つまり、8月15日は韓国人に何ももたらさなかったのである。
韓国は、列強と見なされないばかりか、主権があるとさえ思われなかった。つまり自由意志がなかったのだ。このことは、韓国人の自意識に大きな傷を残した。
その後も韓国は戦勝国のステータスを求め続け「対馬が欲しい」などと主張して戦勝国側に無視されている。南千島はソ連にとってトロフィーみたいなものだが、韓国も同じようなものを欲しがった。しかし、韓国には与えられなかった。
もともと朝鮮半島は文化的に進んだ地域だったのだが、中華秩序に安住しているうちに社会の進展が妨げられ、明治維新期までに取り返しがつかないほどの差がついていた。同じ東洋圏の日本は世界屈指の列強国となって行くのだが、朝鮮半島は滅びつつある清のそのまた属国という社会的地位に甘んじなければならなかった。
その惨めな韓国が唯一武力で外国から勝ち取ったもの、それが竹島なのだ。イスンマン大統領が一方的に漁業管轄権を主張し、漁民に発砲したりした。つまり、竹島を見せびらかすことで「戦勝国気分」を味わうことができる。逆に言えば、韓国はそれ以外の手段で戦争に勝つことがどんなことなのかが体験できない国なのだ。
終戦の日には他者にたいして寛容でありたいと思う。と、考えると韓国国会議員団の行動がとても哀しい意図を持っていることがわかる。竹島でどんなに力強く太極旗を降ったところで、韓国が日本に占領されていた歴史は変えられない。北朝鮮との間でどんなに経済的に優位に立っても、自分たちの歴史が誇れないのだ。
と、同時に日本にとっての竹島は靖国神社なのだということが分かる。外国が反対すればするほど靖国神社に行くことが「負けていないこと」に思えてくるのだ。しかし、靖国神社に参拝したからといって戦争に勝ったことにはならない。外国から冷めた目で見ると、それは単に自分を騙そうとしているようにしか見えないのではないだろうか。

終戦の日に考える – 戦争はいけないことなのか

今日は終戦の日だ。この季節になると、あの戦争は間違っていたというテレビ番組が流される。「軍部の暴走」で始まった戦争は個人の力では止められず、原爆のような非人道的な兵器が使用さえれ、多くの無辜の民が巻き込まれたというストーリーになっている。
きつい言い方になるが、そうした言葉を鵜呑みにする人たちは、自民党を応援してリベラルな人たちを罵倒する人たちとたいして違いがないと思う。大勢が信じることを言っていれば、絶対に賛同してもらえると信じているのだろう。
実は、戦争には経済的な効能がある。平等に生産施設を破壊されるので、格差が是正される効果があるのだ。現在、経済成長が鈍化しているのは先進国で需要が満たされてしまっているからなのだが、戦争は数年に渡る破壊活動は人々の「満たされたい」という気持ちを高める。この結果、大規模な経済成長が生まれ、新しいイノベーションの温床になるのだ。
同じように長年の対立も格差の解消に一役買っている。資本主義経済が比較的うまくいっていたのは、共産主義の脅威に対峙していたからだった。共産主義に触発された叛乱を防ぐために政治家は自国の労働者に分配せざるを得なかった。例えば、日本は共産国に囲まれていたために、社会主義的な分配機能が働いた。詳細に見ると、共産主義に影響された政治勢力があり、そこに票を奪われないために政権政党が分配政策を取っていたのだ。東西冷戦が終わると政権政党には分配のインセンティブがなくなったので「格差社会」が作られることになった。
つまり、現在の低成長や格差は、大規模な戦争や対立を通じて解消しうるのだ。
なぜ戦争を反対する立場から、戦争の効能を考えなければならないのだろうか。私たちは戦争の効能に変わりうる手段を発明していないからだ。資本主義は破壊を前提になりたっている。それが抑止されてしまったことで資本主義の一部が崩れてしまったのである。
では、戦争を代替しうる手段とはどんなものだろうか。
戦争には人を団結させる力がある。この争いを模式化したのがスポーツだ。国家間のスポーツ合戦が今行われているオリンピックである。オリンピックを見ていると世界各地でたくさんの戦争が開発されていることが分かる。なかにはレスリングや柔道のように似たような物もある。英語のWikipediaには操競技のあん馬の起源は兵士が馬の乗り降りの訓練がもとになっているという説が掲載されている。アーチェリーや射撃のような軍事訓練も競技として取り入れられている。
オリンピックは4年に一度、国家が巨大な需要を作り出すプロジェクトになった。オリンピックの要点はそれが途方もない無駄遣いであるということになる。
終戦の日には犠牲になった人々のことを考える日にしたいというのはもちろんなのだが、それだけで終わるのは少しもったいない気がする。戦争はなぜ必要だったのかを考えることにより、新しい発見があるかもしれない。結果的にはそれが新しい戦争を防ぐ知恵になるだろう。
 

SMAP解散に寄せて

昨晩はSMAPが解散するということで大騒ぎだったようだ。NHKは速報まで流したのだという。もともとはサイゾーが流した話だったが、一夜にして事務所発表ということになってしまった。時期を選んでオリンピックシーズンにぶつけたというわけではないかもしれない。
SMAPの経済効果を調べたところ、ファンクラブ(98万人が4000円の会費を払っているそうだ)収入とコンサート収入をあわせて100億円以上あるという。解散によってこれが消えてしまうことになる。
また、最近視聴率の低下に悩むフジテレビも看板番組を失う。12月まで活動するということだが、冷えきっていることが分かっているグループの番組を見たいと思う人は減るだろう。さらに、所属レコード会社であるビクター・エンターティンメントも稼ぎ頭の一組を失う。ビクター・エンターティンメントには他にサザンオールスターズなどがいるのだが、往時に比べると勢いは衰えているようだ。
SMAPが解散に至った直接の原因は、大きくなったプロダクトの一部を壊してしまったことにある。ジャニーズ側としてはマネージメントの飯島氏からプロダクトを分離して、自分たちのコントロール下に置きたいという思惑があったのだろう。しかし、現実には飯島氏はSMAPの一部であって「一緒にグループを育ててきた」という意識が強かったようだ。それを見誤った会社側は少なくとも100億円を瞬時に失うことになってしまった。
事務所側は危機管理に失敗した。関係者を巻き込んで「マネージャーが暴走した」という物語を作ってファンを納得させようとした。ジャニーズのタレントと良好な関係を保ちたいスポーツ新聞各社はあたかもこれが客観的事実のように報道したが、女性週刊誌はジャニーズの報道におつきあいしつつ、たびたび「香取慎吾が仲間内で脱退の話をしている」などと報じてきた。
しかしながら、最大の失敗はプロダクトを発展的に次の段階に持って行けなかったことだろう。アイドルグループは、コンサートで唄わせて、テレビ番組で仲がいいところを見せるという図式しか描けなかった。しかし、フジテレビが27時間テレビで「疲れるまで踊らせる」という企画を組んだ時点でSMAPは「アイドルのパロディー」になっていた。フジテレビやビクター・エンターティンメントという老舗企業がSMAPに依存しており、解散ができなかった。と、同時に新しい活躍の形を示すことができなかった。
SMAPの末路は、嵐などにも通じるのだろうか。その参考になるのがSMAPの前にいた2つのグループだ。
シブがき隊は解散したあと、メンバーの一人である本木雅弘が表現力のある俳優としてブレイクした。このようにグループ時代の知名度を活かして活躍する道がある。一方で、少年隊は未だに存続しているが、グループとしての活動は行われていない。大きく少年隊に依存する企業がなかったために、活動を段階的に縮小することができたものと思われる。東山紀之はテレビ番組のナビゲータや刑事ドラマの主役として認知されている。
 
 

目的の不在がデスマ案件を作る

タイムラインに「築地新市場は設計ミスだ」というツイートが流れてきた。不具合はいくつかあるらしいのだが、仲卸のスペースが足りず、通路が狭すぎて荷物を積んだ荷車が行き来できない恐れがあるらしい。
真偽は分からない。しかし、ありそうな話ではある。もともとスペースが決まっているところに無理矢理必要な数を埋め込んだのだろう。一方で、ありふれた話でもある。IT業界ではよく見られることだ。無理矢理マネジメントで仕様を決めて、あとで現場が「これは使えないですよ」という。それでもインプリするのだが、やはり使えないということになり、大混乱するのだ。
それをなんとか納めようとして泥沼化することを「デスマーチ」と呼ぶ。
しかし、製造業のプロジェクトではデスマーチは起らないものとされていた。曲げられない鉄は曲がらないわけで、マネージメントは現場を無視することはできなかったのだ。同じことは建築にもいえる。日本は目に見えて触れるものは扱うことができる。
どうしてこのような気風が生まれたのかは分からないが、農業が関係していたのかもしれないと思う。稲を育てるためには水と温度が必要だ。殿様が「稲が二倍に増えろ」などと叫んでも、農家を24時間働かせても稲は増えない。つまり、日本人は「所与の」ものは尊重する知恵を持っているということになる。
しかし、目に見えないと「なんとかなるんじゃないか」と考えてしまうらしい。IT産業はこれで没落したのかもしれない。プログラムだったらなんとかなるんじゃないかと思ってしまうのだろう。
だが、オリンピックの競技場の問題や築地市場の問題を見ていると、それも過去の話になってしまったのかもしれないと思う。甘い見積もりも、仕様のつめの甘さも、現場を交えずにマネジメントだけで「こうだったらいいなあ」という希望的観測でものごとを決めてしまっていることに起因している。
だが、それとはすこし毛色の違う引用ツイートを見つけた。


上位目的というのは聞き慣れない言葉だ。検索したところ、ワープロで文章を書くというのが目的だとすると、プレゼンの為に文章を書くというようなことのが上位目的になるのだそうだ。近視眼的な目的ばかりに気を取られて、中長期的な視野が持てないというような意味だろうと推察した。それが流行っているというのだ。
プログラムは完成した段階で不具合があると作り直しということになる。しかし、コンクリートは固まってしまうわけで、壊してやり直しということはできない。だから、先に進めてしまうということになる、
デスマーチは集団思考が作り出す。使う人・作る人・意思決定する人が分離されて起る問題だ。しかし、中長期目的の不在は、すなわちリーダーシップの不足である。意思決定に迷ったときに「原点に戻ろうではないか」というヴィジョンが提示できる人がいないのだ。
こうした問題は政治の世界でもよく見られる。最近では憲法がデスマ案件になっている。もともとは何かの不具合の修正だったのだろう。やがてそれに「気持ち」が乗るようになった。全文に日本を讃える文章が掲載された。さらに「自分たちを落とした有権者はけしからん」ということになり、人権はふさわしくないとか、日教組が学校で余計なことを吹き込むからだというようなことになった。最終的にできあがったものは「これは憲法をとはいえない」というような代物だ。最近では「これは案なので、そのまま議論に乗ることはない」などと言い出している。
ここでは課題と心情を分離できないことが問題になっている。最近では憲法を変えること自体が自己目的化しているようだ。さきほどの呟きを引用すると「上位目的」が失われているのだ。憲法草案を決めた人たちの中には「なぜ憲法を変えねばならないのだ」と疑問に思った人はいなかったらしい。自民党の党是だからというのが唯一示された理由である。
つらつらと考えていると、これは悪い兆候だなあと思う。欧米はコントロール不能なものをどうコントロールするかという視点で経済や社会を成長させてきた。ところが、日本はコントロールができないものに依存して生きて来たように思える。稲は人間の思惑通りには成長しないし、鉄は曲がらない。だからうまくやってこれた。だが、いったんコントロールを手にすると集団思考が働き、すべてをぶちこわしてしまうのだ。
「ああ、嘆かわしい」とか「日本終了」とか思うわけだが、最大限ポジティブになってみると次のような教訓が得られる。これさえ克服すれば課題の解決は可能だということになる。

  • 集団思考を避けるために、強力なリーダーシップを置く。
  • リーダーシップを円滑に働かせるために、フォロワーシップを発揮する。
  • 使う人、作る人、意思決定する人が話し合って物事を決める。
  • 課題と心情を分類し、目的を明確にする。
  • 目的はチームで共有する。

ボン・ジア!

リオオリンピックが始まってずっと気になっていたことがある。それがキャスターたちの「ボンジーア」だ。なんとなく挨拶であることは分かるのだが、発音が「ア」になるのはおかしいのではと思ったのだ。
これ日本人がまじめに発音するのはほぼ不可能らしい。ちなみに綴りは、Bom DIaである。発音記号はこのサイトで確認したこちらではポルトガル語との違いが書いてある。
まず、omだが実際にはoにティルダがついた発音になるようだ。日本語のンではなく母音の一種だ。母音なのにンと聞こえてしまうのだ。「鼻母音」としてフランス語の授業でやらされた人もいるかもしれない。東京外国語大学の説明は悪魔の教典のようである。サンパウロのンなど、ポルトガル語には、この音が多用されるという。音を聞いても、onと区別がつかない。中には表記に引きずられて「口を閉じるン」と解説している人もいた。ちなみに日本語ではサンマのンが「口を閉じるン」だ。が、ティルダのついた母音は口を閉じない。繰り返しになるが、悪魔の発音。
次にDiaだが、いろいろな説がある。ディと発音する地域とヂと発音する地域があるようだ。ポルトガルとブラジルで違うという人もいるし、サンパウロとリオデジャネイロで違っているという人もいた。Asiaのジと違って、破裂が伴うヂである。日本語には(一部弁別する地域があるそうだが)この区別はないのだが、英語圏なのでは全くの別物である。日本人のキャスターはほとんどがジと発音していると「思う」。日本語は区別しないので弁別ができない。だから、なかにはちゃんと発音している人もいるのかもしれない。
しかし、難物はこちらではなくaの音だった。ポルトガル語のaには二種類あるらしい。こちらは閉じたaと呼ばれるそうで、aをひっくり返した記号を使うようだ。Wikipediaは中舌狭めの広母音と呼んでいるようだが、聞いてもよく分からなかった。Wikipediaでは音声サンプルが聞けるのだが、少しくぐもった暗い印象がある。日本語のアより舌を奥に置くようだ。
ということで、ブラジル風に発音しようとすると、ヂで舌を微妙にならしてから舌を引っ込めてアを発音するとカリオカ気分が堪能できそうだ。
ということで、カタカナで書けそうなBom Diaなのだが、実際には正しく発音できたとしても、自分が正しく発音しているかどうかすらよく分からないだろうということになる。
ちなみにカタロニア語ではBon DIaと書くそうだが、oは開いたオの音らしい。nは日本語にもあるンの音だ。Diはディと発音し、aは普通のアである。

捏造される過去とフィルムカメラ

最近、カメラについての文章をいくつも読んでいる。Yahoo!知恵袋などを読むと、マーケットが何を求めているのかが意外に分かるのだ。一眼レフ分野では「初心者だが何を買っていいか分からない」という質問が多い。選択肢が多すぎるのだろうとは思うのだが、意外と「自分が何をやりたいのか」が分かっていない人が多いようだ。やりたいことにより必要なスペックが異なるのだ。
さて、フィルムカメラにも面白い質問があった。それは「どうやったらフィルムカメラみたいな古い写真が撮影できるのか」というものだ。これに対していらだちを募らせる人もいる。
実は15年ほど前には全く別の構図があった。デジタルカメラのセンサーが発達していなかったために「デジタルカメラ=おもちゃ」という図式があったのだ。プロがデジタルカメラを使うなどということは考えられなかったわけだ。
つまり、そこそこの一眼レフ・フィルムカメラを使えばそれなりの写真が撮れていたわけで、フィルムカメラ=古ぼけた写真が撮影できるということではない。これは昭和生まれの人ならたいていは知っていることだ。
古びた写真は、昔の写真の経年劣化だ。退色具合は各色バラバラなので、あのような色あせた写真ができる。もう一つの原因は「ビネット」と呼ばれる四隅が暗くなった写真だ。これはレンズとフィルムスペースが合致しないことで起るのだそうで、スマホカメラではまず起らない現象だ。
この間違った印象に輪をかけたのがインスタグラムなどの写真アプリだ。古びた写真を撮影して「懐かしい感じ」を出すフィルターがいくつも作られており、芸能人発信で広がって行く。すると、カメラの歴史を知らない人たちが「フィルムカメラ=古ぼけた写真が撮影できる」と勘違いしてしまうようだ。
このような思い込みが広がった状態で、古ぼけた写真を撮影しようとして普通のフィルムカメラに手を出す人がいる。そして「あれ、レトロの写真が撮影できないぞ」と言って、ラボなどに問い合わせする人がいるらしい。
一方で、デジタルカメラになって確実に変わったところもある。昔のカメラは自分で光の強さを計ってからカメラを設定する必要があった。しかし、最近のデジタルカメラは、センサーが光の具合を感知して設定を決めた上で、自分で絵作りをしてくれる。こうした機能は高級なデジタルカメラだけでなく、スマホカメラにも搭載されているありふれた機能だ。つまり、最近のカメラでは「失敗作」を撮影するのはほぼ不可能になっている。何でもきれいに撮影できてしまうので、失敗作が作れないのだ。