デザイナーの佐野研二郎氏がデザイン撤回に追いこまれてからしばらく経った。パクリの常習犯だから追いつめられたのは当然だという意見もあれば、ネットのいじめは執拗過ぎたという批判もある。どうしてこのようなことが起きたのだろうか。人間には「人をいじめたくなる遺伝子」のようなものが備わっているのだろうか。
手始めに「いじめが快感を生み出すのか」について調べてみた。一般に人は他人の苦痛を自分の苦痛として感じる能力がある、とされる。「いじめ常習犯の中には、他人の苦痛に快感を感じる人がいる」という研究もあるにはあるのだが、ごく一部に限られているようだ。サイコパスという気質があり、他人と共感関係を結び回路が壊れている人もいるようだが、これも一部に限られる。どうやら、いじめが快感を生み出すという仮説は証明できそうにない。
脳に快感をもたらす活動は多岐に渡る。その中でも特に複雑なのが学習に関する活動だ。人間は、不安定な状況で新しい技術を獲得し、状況をコントロールすることに快感を感じる。また、情報の一部が隠されるとそれを埋めて知識を完成させたくなる。これを形式化したのがゲームである。
研究によると、ゲームをしている人の脳では複雑な活動が起きている。側坐核や扁桃体といった快感に結びつく領域とともに、作戦を考える前頭前皮質のような領域が活発に活動するのだという。快感に結びつく回路を報酬系というのだが、報酬系は欲求が満たされた時だけではなく、報酬を得ることができると期待しただけで活性化される。
思い返してみると、騒動の最初のきっかけは「たまたま似ている」デザインがテレビで公表されたことだった。佐野氏がこれを「パクリではない」と主張したために、ネットでは佐野氏が「パクっている」証拠を掴もうとやっきになった。過去の作品から似たデザインがいくつも見つかると「似たデザインを探し、嘘を暴く」というゲームが生まれた。似たデザインを探して公表すると、ネット上では反響があり社会的報酬が得られた。ゲームが拡大するとテレビでも取り上げられる。報酬が増え、さらに参加者が増えた。これを助長したのは組織委員会側だった。状況が過熱したところで、デザインが修正される経緯を発表したのだが、これはゲームに参加する人たちに新しいパズルを提供することになった。
つまり、これは巨大なソーシャルゲームであり、社会協力を通じた学習活動が遊戯化されたものだったのだと言えるだろう。そして、最終的にデザインが撤回されることでコンプリートした。「ラスボス攻略」だ。
ゲームに夢中になっている人は、相手がどのように苦しむのかを考慮していないという点は忘れてはならない。シューティングゲームで人を殺しても罪悪感を案じないのと同じ事だ。実際のいじめを防ぐ為には「できるだけ報酬を与えず」「行われている行為はゲームではないと認識させる」ことが重要だろう。
いずれにせよ、社会協力を通じた学習活動は脳の働きを活発化させる働きがあるようだ。ネットの活用でかつてのようなコストをかけずに、こうした活動ができるようになった。これを社会改革やイノベーションのために活かす事ができれば、世の中を良くする為に役立てることができるだろう。
もともと日本人は社会協力を通じた学習活動に熱心に取り組む国民だ。かつては製造業の現場では「改善活動」という品質管理の取り組みが行われていた。チームで協力して状況を改善すると金銭的報酬の他に社会的な報酬が得られたのだ。これはKAIZENという英語になり、各国に輸出されたほどだった。
ネットを使った社会協力が現状破壊にしか向かわないのは残念なことだ。裏を返せば、企業の生産活動や社会改善では報酬が得られにくくなっているという現状があるのだろう。
合意形成型意思決定の方法とメリット
近年、様々場所で「民主主義の危機」が叫ばれるようになった。その議論の根本を探って行くと、合意形成に関する知識が明文化されていないことに原因があるのではないかと思う。言い換えれば、日本人がかつて持っていた暗黙知に基づく合意形成の秘密が失われたにも関わらず、それに代わる新しい合意形成の方法が見つかっていないことが問題になっているのだと思う。つまり、先に進むことも戻ることもできなくなっているのだ。
合意形成型の意思決定には多くのメリットがある。そのメリットとデメリットについて知ると、民主主義がどうあるべきかということが議論できるようになる。
合意形成のメリット
合意形成型の意思決定は面倒なプロセスだがメリットも多い。まず、多様な知恵が集められるのでより良い判断が下せるようになる。また、グループ内の人間関係も円滑になるだろう。さらに、実行段階では関係者の協力が得やすくなるというのも優れた点だ。
アジェンダの明確化
合意形成を目指すためには、まず「何を決めるべきか」を明確にする必要がある。次に利害関係のある関係者(ステークスホルダ)をできるだけ多く集める。さらに、関係者にできるだけ多くの正確な情報を渡して考えてもらう必要がある。いつまでに何を決めるべきかというゴールを設定するのも大切だ。さらに、議論や意思決定のプロセスに信頼がなければせっかくの合意も無駄になってしまうかもしれない。
意見と対立点の可視化
人の意見は多様なので、できるだけ多くの人から意見を聞くのが大切だ。賛成か反対かを尋ねるのではなく、その裏にある理由(個人的な好み、心配事、利害や関心)などを聞き出すべきだ。問題点はできるだけ明瞭に言語化する必要があるが、全ての人が本心を明確に言語化できるわけではない。聞き手(ファシリテータ)の手腕が問われる。また、透明性を高めるためにも、意見はみんなが見ている前で表明すべきだ。裏で一部のグループがこそこそと話しあうのはルール違反だろう。
次に、対立点を明確に提示しよう。最初にA案とB案があるとして、その案が全ての人を満足させるとは限らない。歩み寄ったり、新しい案(C案)を作る必要があるかもしれない。議論をしているうちに、最初とは違った考えを持つ人もいるだろう。
感情的な議論を避けるには
意見の相違は人と人との対立になることがあるがこれは避けるべきだ。個人攻撃も避けるべきだ。また、相手の立場になって考えることも重要だ。切迫した議論が続くと興奮して感情的な議論に発展することがあるので、小休止を入れる必要もあるだろう。中立な調停者(メディエータ)を立てると対立が激化するのを防ぐことができる。
合意形成は全員一致とは違う
合意形成は「全員が完全に納得する」のとは違う。賛成とまではいかなくても全ての参加者が受け入れ可能な案を作る事が需要だ。また全てのメンバーが採決に参加すべきだというわけでもない。情報提供だけで十分な人もいれば、議論にコミットするべき人もいる。また、できるだけ多くの人が満足する案を作らなければならない人もいるだろう。重要なのはできるだけ多くのメンバーが平等に意見を述べられるようにすることだ。
合意形成型意思決定のデメリット
合意形成型の民主主義には少数派の意見を聞き、よりよい解決策を模索できるというメリットがある。しかし、合意形成型意思決定は万能というわけではない。まず、合意形成型の意思決定は現状維持に陥りやすい。次にいつまでも合意が得られないと反対派メンバーへの敵意が造成され、グループが仲間割れする危険性もある。さらに安易な解決策に流れるグループシンキング(集団思考)も陥りやすいわなの一つだ。
つまり、民主主義は必ずしも合意形成型であるべきとは言えない。多数決で結論を出すタイプの民主主義もあれば、多数派のリーダーが意思決定を行うタイプの民主主義もある。ただし、多数決で物事を決めた場合、うまくいかなれけば、形勢が変わって合意形成がひっくり返ってしまうことも覚悟しなければならない。変革には向いているが失敗する可能性もあるのが多数決型の民主主義なのだ。
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ジャニーズの解けそうで解けないパズル
なつかしい歌手につられて日本テレビの「音楽のちから」という番組を見た。改めて歌番組っていいなと思った。筋を追わずだらだらと見られるからだ。
「音楽のちから」は嵐が前面に押し出されていてジャニーズ祭りの様相を呈している。が、なぜかSMAPが出ていない。なぜだろうと検索してみるとジャニーズには派閥があるという噂に行き当たった。広く知られているらしい。その証拠に、別の日に放送されたTBSの「音楽の日」という似た名前の番組には嵐は出ていないのだそうだ。
噂によると、日本テレビは嵐を押し出しており、同じ派閥のTOKIO、V6、NEWSなどが出ている。一方SMAPを前面に押し出しているTBSにはこれらのグループは全く顔を出さない。これは、ジャニーズが派閥を持っている証拠なのだという。派閥の背後には二人の女性幹部がいるのだそうだ。
ネットにあまたある噂のなかには、それを否定するもの、ファンを軽視していると嘆くもの、規定事実として受け入れるものと様々なものがあり、なかなか興味深い。本当のところはよく分からないが、グループ名まで名指しされているのを見ると、何らかの内部事情があるのかもしれない。
「音楽のちから」には7グループがバラバラになり総勢40名でメドレーを行うというものがあった。スゴイと思う人もいるだろうが、誰がだれかも分からない。トランプがシャッフルされて床に散らばっているかのよう。この背景にはデビューできなかった人もいるわけだから、ジャニーズAとBに別れているのも別にいいんじゃないのか、などと考えた。さらに嵐とSMAPが競演する番組でSMAPをトリに持ってきたりすると、並び順はどうするのだ、全く解けないパズルが出現するのではないかと思う。40名メドレーも並び順を気にしないですむ苦肉の策なのではと邪推してしまった。
ジャニーズといえば、朝のTV番組の司会がNHKとTBSでバッティングしたという「問題」で知られている。どちらかが降りるのではという噂があったが、事務所が大きくなっているのだから、うまくやらないと様々なジャンルで同じような問題が起こるはずだ。そしてバッティングが起きると、いちいちネット上で問題視されることになる。
歌手は明らかに大事務所化しているようだが、いろいろな方法でこの問題を解決している。他にも48グループ(事務所はバラバラなようだが…)やEXILEなどを輩出するLDHがある。48グループは選挙を行い序列の問題を解決している。
すでにレコード会社が歌手を売出す時代は終わり、興行(ライブや握手会など)やファンコミュニティの運営を通じて歌手を売出す時代になっているのだろうなあ、と考えた。その中でグループの大型化が進み、いろいろな対策が講じられているようである。
ジャニーズが他の会社が行っている劇場やスクールに興味を持たないはずはないと思って調べてみるとジャニーズにも総勢40名のジュニアを選抜し、入れ替えるグループ「Twenty・Twenty」という構想があるそうだ。
ハイル・ヒトラーの意味
多様性について考えている。前回までに、多様性は「動きのある状態」だと考えた。異なった価値観が同じ場に共存するというようなイメージだ。まだ、それがどのような意味合いを持つのかは分からないのだが、取りあえず、違った価値観がぶつかると新しいアイディアが生まれ、それが豊かさにつながるのだと、いささか功利的な説明をしている。
この「多様性」を考えるに当たって、対極にある「排他性」を考えてみることにした。最初はユングあたりを読んで、ヒトラーについて言及しようと考えたのだが、『エッセンシャル・ユング』などのユング研究書はナチズムに関する言及を避けているように思える。(実際にはユングはナチズムについて発言をしているらしい)また、ユングは曼荼羅を書いて「ああ、今日は心が乱れているなあ」とか「今日はよくできた」などと観察している。その関心はもっぱら自分の心の中を向いているようだ。
ハイルというドイツ語は「完璧な状態」を示す
その代わりに見つけて来たのが、「ハイル(heil)」という表現だ。普通「ハイル・ヒトラー」は、ヒトラー万歳と訳される。しかし、この単語は英語ではwholeを意味する一般的な形容詞なのだそうだ。Google翻訳を通してみると、heilは「ヒール」すなわち「癒す」となる。どちらかが誤訳というわけではなさそうだ。つまり、英語やドイツ語では「完全な、全体である」という用語と健康な状態を同系統の単語で表現するようなのだ。英語の辞書でwholeを引くと「健康な」という定義が最初に来る。つまり、全体性を回復する動きが健康になる、癒されるというイメージである。これが「完全な」というイメージにつながる。
また、ナチス式の敬礼は「ローマ式」だと考えられているらしい。これを理解するには、少し歴史を見る必要がある。西ローマ帝国が崩壊してかなり経ったあと、ローマ教会は神聖ローマ帝国を後継に選んだ。これが徐々に「ドイツ人の帝国」を形成する。実際には1つの国ではなく、他民族を含んでいた。この神聖ローマ帝国は、「フランス皇帝」ナポレオンの時代に崩壊した。神聖ローマ帝国の皇帝はローマの権威とは関係がない「オーストリア皇帝」になり、ハンガリーと合邦してオーストリア・ハンガリーを形成する。
つまり、ドイツ人は、ローマ人の後継だという漠然とした自負はあるものの、現代的な意味での「ドイツ人意識」というものは持っていなかった。そもそも「ドイツ人」という言葉が何を意味するのかという明確な定義は今もってない。長い間神聖ローマ帝国の人たちは「ドイツ人」意識を明確に持つ必要がなかったのかもしれない。言語としては明確に他者と区別されるドイツ語を話しているのだし、指導者層として役割も明確だったからだ。しかし、その自意識は結局の所、ローマ教皇に与えられたものであり、自分たちで作り出したものではなかった。
アドルフ・ヒトラー(オーストリア出身)が台頭し、カール・グスタフ・ユング(スイス人)が「人格の統合」について取り組んでいた時代のドイツ人たちは「自分たちがどのようなアイデンティティを持つか」という点について確かな見解が持てない、とても不安定な時期にあったのだということが言える。
古い枠組みがこわれ、急ごしらえのアイデンティティが作られる
ここから徐々に作られるのが「アーリア民族」という意識だ。ヨーロッパの中のドイツ人という位置づけから、世界を指導するインド・ヨーロッパ系の正当な代表だという意識が無理矢理作られる。そして、インド・ヨーロッパ系ではないユダヤ人が排除されるようになるのである。インド・ヨーロッパ系を広く指す「アーリア民族」とそもそも定義のはっきりしないドイツ人はイコールではない。そこで「〜ではない」人たちを置く事によって、自分たちの優位性と純粋さを証明しようとする。
排除すべき他者ができると、社会の弱くてみにくいところを「ユダヤ人」に押し付けるようになる。しかしながら、なぜそうした思想を持つようになったのかはよく分からないし、それがどうしてドイツ人に広く受け入れられたのかも、なんだか分からない。
つまり、最初から細部の整合性を欠いた思想であり、それが行動に移る事で、さらに支離滅裂な単なる大虐殺へとつながって行ったのだと考えられる。
ドイツは結局第二次世界大戦に破れて、長い間分断していた。これが戦後再統合されて、ヨーロッパの中のドイツ人という新しい意識を作り出したのだった。
多様性が失われるのは、その社会が危機にあるからだ
興味深いのは、このようにめちゃくちゃになった状態で、人々が陶酔しながら「全体」とか「健康な状態」を意味する言葉を叫んでいたという点だ。つまり「全体の調和が乱れて、不健康な状態であったから」こそ、このように叫び続けなければならなかったのではないかと考えられる。つまり、純粋さや均質さに対する指向というのは、逆にバラバラになりつつあるという危機意識の裏返しに過ぎないのである。
この「多様性を認めない時代」の分析から分かるのは「多様性がある状態とは、あるまとまりが包括的にスムーズに流れている状態健全な」ということだ。
「ヘイトスピーチ」が危険なのは、極論すれば、攻撃対象になっている人たちが「かわいそう」だからではない。それは「ヘイトスピーチ」を叫んでいる人たちがバラバラになりつつあり、それに気がついていないからだといえる。彼らはもしかしたら「異物の排除」に成功するかもしれないが、それでも問題は解決しないに違いない。いったん気が抜けたようになり、更なる獲物を求めてさらに過激な行動に出るしかない。
中居さんの何が間違っていたのか
SMAPのバラエティ番組から日本の組織の問題を考える。日本の組織は自己保身などの理由から自己流の暗黙知を積み重ねてタコツボ化してしまうことがある。テレビ朝日では、バラエティ制作チームが同じ社内のスポーツ制作チームが考える「スポーツ番組らしさ」を理解できないほど専門化が進んでいる。社内が理解できないものを視聴者が理解できるはずがない。これを打破するのは簡単ではない。少なくともこのバラエティ番組では、中居さんが理解できない暗黙知にこだわらずに本人の目線や過去の経験を現場に持ち込むべきだった。
バラエティ番組の企画で、SMAPの5人がテレビ朝日に新入社員として入社した。そこで中居正広さんはスポーツ記者として研修を受ける。中居さんはスポーツに詳しいはずだが、初の仕事で「大惨敗」してしまう。
今回のテーマで考えたいのは、日本の終身雇用制度の特徴だ。この制度が多様な視点を排除仕手いることが分かる。直ちに問題はないが、徐々に中で働いている人を追い込んでいるのではないかと思う。
中居さんの唯一の誤りは「自分の目線」や「過去の経験」を取材現場に持ち込めなかったということだ。もともと「スポーツに詳しい」という自己認識があり、これが結果的に「軋轢」をうんだものと思われる。その背景には新入社員を巡る思い込みがある。新入社員といえば、大学を卒業した人の事で職業的な経験がないと見なされるのだ。だから「途中入社組」である中居さんの過去の経験は全く活かされないばかりか、社内的な軋轢のもとになる。
新入社員としての中居さんは、まず1日研修を受ける。専門職である記者には、映像で説明できるものは文字にしてはいけない、要点だけをまとめなければならないなどの基本的な知識があるようだ。知っている素材で記事を作るがやり直しを命じられる。その後、実際に編集作業してみるが「こだわり」があり、やはり要点がずれているようである。ここまでの研修には問題がない。基本的な知識を提示し、これに経験のフィードバックを与える事で、知識をより確かなものにしてゆくのだ。
その後に問題が待ち構えている。取材現場は、学校の先輩後輩がはじめて対戦する注目の試合だ。30秒と言われていたのだが、突然1分に伸ばされる。すると構成を最初からやり直さざるを得なくなる。実際に編集してみるものの、どうもマネージャに気に入ってもらえない。そのうち、指導教官役の先輩とデスクたちが、頭越しに話を始めた。「手を引いたほうがいい」と中居さんは考えはじめる。
憶測でしかないが、背景には、バラエティ部門とスポーツ部門の軋轢があったものと思われる。バラエティ番組の企画として中居さんが入ってくることに敵意があったのだろう。今回の他部署がバラエティの人たちと協業関係にあるのに比べると、スポーツ部門だけが競合部門に当たる。新卒で入った人たちは、配属先の文化を強く受け継ぐ。ここにローテーションがないと、そのまま「タコツボ化」してしまう可能性がある。
テレビ朝日の「スゴイ」ところは、この軋轢をそのまま生放送に乗せてしまったところだ。
ところが「タコツボ化」には別の問題もあるようだ。スポーツ側の人間には「お互いに分かるが、他人には説明ができない」知識の伝達があった。これもVTRの中で、バラエティ側の人間が「整理して伝えてあげてほしい」と懇願するのを「時間がないから」といって無視するスポーツ側人たちの発言が出てくる。同じテレビ局のスタッフでも「スポーツの人たちが何を望んでいるのか」分からなかったのだろう。
ここに「時間がない」という制約が加わる。過去に集積された「これがスポーツニュースである」という形に対して議論する時間がない。このようにして長い時間をかけて「言葉にはできないものの、お互いに感じ合う事ができる」知識が共有される。これを「暗黙知」と呼ぶ。人材に流動性がない職場では、ある程度の時間をかけて暗黙知を伝えることができる。ジョブトレーニングを通じて慣行的に教育プログラムができあがっているからだ。
中居さんは、スポーツ報道については素人かもしれないが、過去にいくつかのスポーツ番組に携わっている。また個人的にも野球が好きなようである。だから、中居さんに欠落しているのは、専門的なスポーツの知識でも、番組を作るための知識でもない。「口に出しては説明できないが、お互いに響き合う」がコミュニケーション不全をうんでいる。つまり、暗黙的な知識共有には、外部の異なった経験を持った人たちと情報共有ができないという問題がある。
普通の企業であればよさそうだが、テレビ局には特殊な事情がある。それは視聴者が「外部」であるという事実だ。つまり「1人の具体的なヨソモノ」に対して説明できないことを、複数のヨソモノである視聴者に説明できるはずがないのだ。ここで視聴者が排除されないのは、たまたま合っているのか、視聴者が慣れているかのどちらかなのだろう。
この問題を分かりやすくするために、政治部で同じ事が起きた場合について考えてみたい。政治部の記者たちは、長年の取材を通じてお互いに「暗黙的な知識を共有し、分かり合っている」はずだ。そこにヨソモノが入ってきても「それは、形になっていないから」といって排除されてしまう。記者たちは時間に追われいて振り返りの時間がない。
政治記者たちは、職業的な経験がないまま政治記者として育成される。職業的経験とは、公共に携わる経験(つまり、政治を必要としている人たちとの関わり)や経済の実態(別の会社勤め)だ。代わりに彼らは政治家たちとの間に親密な関係を作る。だから、政策は分からないが、政局(政治家の人間関係や勢力図)はよく理解できるのである。
政治記者たちは政局報道に慣れている。だから視聴者にも、こちらのほうが「本物っぽく」見えてしまうはずだ。もともと好きだったということもあるのだろうが、普段から見ているうちにそれにならされてしまったという側面があるはずだ。この流れを変革する事ができるのは、別の職業経験を持った人たちだけだろう。
ここで中居さんが「自分で考えるのをやめてしまった」ことを重ね合わせると、テレビ朝日がこれを放送したのはとても「勇気があった」ことが分かる。バラエティなのだから「適当に花を持たせる」形であしらっても良かったはずである。
これができなかったのはなぜなのだろう。それは、現場を預かるマネージャたちが差別化の材料を持っていないからだと考えられる。彼らが持っているのは「長年の経験で作られた暗黙的知識ネットワーク上のポジション」だけなのである。だから、彼らは、潜在的に多様な視点を認めることはできない。それは自分たちの価値をおとしめるからだ。
日本のサービス産業はこのように「持ち運びができない知識」を持った専門性が高い人たちと、「マニュアル化(形式化)できる」単純労働者に二極化されているようだ。専門性が高い人たちがこの「暗黙的な知識のネットワーク」から弾き出されてしまうと、あとはまた長い時間をかけて暗黙的な知識を学び直すか、単純知識のネットワークに甘んじるかという極端な選択を迫られることになる。
このまま労働の流動化が進めば、こうした問題はますます顕在化するはずである。と、同時にこうした移動は多くの労働者が「単純なマニュアル労働」しかできなくなるということを意味する。
これを克服するためには、知識がどのように伝達されうるかということを学び直す必要がある。『ナレッジ・マネジメント (ハーバード・ビジネス・レビュー・ブックス)』のような知識の理解は、少なくとも経営者にとっては必要な知識になるだろう。
強迫性の人々とアイディア
アイディアがなぜ出ないのかについて考える2回目。
小佐古敏荘さんという東京大学の教授が、泣きながら記者会見した。この映像を見た人は「なんかヤバいことが起こっているんだろうな」と感じたに違いない。官邸はこれに「守秘義務があるから」とかぶせた。情報を管理しようとしたものと思われる。
論理的な議論と泣き声では、泣き声の方がよく伝わる。もっと伝わりがいいのは叫び声だったろう。官邸は「守秘義務」と主張したことで、いくつかの重要なメッセージを発信した。もし結論に自信があるのであれば、守秘義務を主張する必要はなかったはずだ。堂々と議論すればいいのである。しゃべるなということは、つまり、彼らが最初からある結論を持っていて、会議の構成員を選んだことを傍証する。多分、厳しい基準を選ぶと補償範囲が膨大に広がるのだろう。
これを見て、関東地方に住んでいる人は「福島県の人はかわいそうに」と思いつつ「自分たちの身の安全は守らねば」と感じるに違いない。これは無用な差別につながる。福島市に住んでいる子どものお母さんは不安な気持ちのまま今後何十年を過ごすことになるだろう。にも関わらず、学者は泣きながら逃げ、官邸は「守秘義務」を口にするのである。
さて、この件で気になったのは、小佐古さんの「その場限りで『臨機応変』な対応を行い、事故収束を遅らせている」という一節だ。場当たり的というべきところを柔らかめな言い方に改めたのだと思うが、この言い方に違和感を感じた。その他にも違和感を感じさせる言葉がある。「私の学者生命は終わり」など、白黒をはっきりさせたがる発言が多いのである。
ヒトはなぜのぞきたがるのか – 行動生物学者が見た人間世界の中でストレスに弱い人たちについての記述が出てくる。一つはタイプAというがんばり屋さんのタイプだ。そしてもう一つに抑圧型の人たちが出てくる。この人たちは常に我慢している。自分の感情を押さえ込んでいるので、感情に対して曖昧な態度が受容できない。つねに白黒がはっきりした世界に身を置きたがるのだそうだ。
これをネットで調べて行くと別の類型に行き着いた。それは強迫性人格である。自分で全てをコントロールしないと気が済まないタイプの人たちだと説明される。完璧主義だが、ちょっとした欠点があると全てを投げ出してしまう傾向もある。全てをコントロールしたいわけだから、他人に何かを任せる事もできない。
この人たちは曖昧さを嫌う。コントロールできないことは嫌いなのである。NHKでやっていたスタンフォードの授業を見ると、ブレインストーミングはまさにこの「曖昧さ」なのだということがわかる。そこには誰が最初に発言し…といったルールはない。むしろある種の混沌を作り出すことによって、発想をストレッチする狙いがある。
そもそもアイディアを作り出しても、それが絶対確実に完成するという保証はないわけだ。これを「何が起こるか分からない」とわくわくする人もいれば、リスクだと考える人たちもいるだろう。
そしてYes And型の思考とは、他人の感情や論理を理解した上で、そこに何かを適切に積み上げて行くことだ。強迫性の人たちは感情を読み取る事も苦手だ。曖昧で何かよく分からないからだ。
「強迫性人格」というと何かその人を「病気だ」と糾弾しているように思われがちである。しかし強迫性の人たちから見ると、柔軟性を持っている人たちは「一つのことに集中できず、いつまでもふらふらしている人」ということになる。
菅直人さんはたくさんの私的諮問機関を作った。どうやら「自分の決定を非難されたくないものの」「他人には任せられない」と思っているようである。二つの心の中で揺れているように思えるが、多分「自分が他人を非難することで勝ち上がって来た」歴史があるからこそ、自分が攻撃される恐ろしさも知っているのではないかと思う。しかし「他人に任せられない」ところを見ると、必ずしも柔軟な人ではないようだ。あとは類推するしかないが、多分他人の感情を読み取るのも、表現するのも苦手なのではないかと思う。
そして小佐古さんも「白黒付けたがり」「人前で適切な感情表現ができない」性格だったようだ。小佐古さんだけが東京大学の先生ではないだろうが、勉強はとてもよくできるのに、感情表現に問題があり、他人の気持ちを類推できない教授という類型は容易に想像できる。彼にとって「臨機応変」は「場当たり的」と同じ意味なのである。
さて、小佐古さんが泣いているのを見て、日本の上層部にはこういう人たちが多いんだろうなあと思った。彼らにとってアイディア出しは「場当たり的な思いつき」であり、起業は「人生をかけた博打」に過ぎない。こういう社会で新しい産業を育成するのは難しいだろうなあと思う。そればかりではなく、実際に存在するリスクすら無視してしまった。結果、議論も管理もできず、ついに人前で泣き出してしまったものと思われる。
最後に、この経験から学べることは何なのか考えてみたい。私たちは多かれ少なかれ「不確実さ」に対する不安を持っている。この怖れを克服するためには「何か不測の事態が起こったときに、協力すればなんとか事態が収拾できる」という経験を積むとよいだろう。人は受容されるために「完璧である必要はないし」「完璧であることもできない」のである。
だらしない人ほどうまくゆく
MBTIシリーズの中で「J」と「P」という要素が出て来たのをご記憶の方も多いかもしれない。現実の規範を重んじるのがJで、外部要因を受容できるのがPだ。事務処理に向いているのはJだが、発明家や企画者にはPの方がいい。いいかえればコントロール可能な部分をきちんと管理できるのがJで、コントロール不可能な部分と向き合ってゆけるのがPということになる。
ご紹介する本はだらしない人ほどうまくいくという本だ。
まず、きちんとするには経費(コスト)がかかる。机の上にある散乱したものを片付ける時間もコストだし、きちんとしたスーツも高くつく。さらにきちんとすることに意識が向くと、だんだんある一定の経路に従ってしか物事が考えられなくなる。
そもそも人間の脳はそのようにできている。常識とか慣れということもできるし、発想の観点では「思い込み」と呼ばれる。すると大胆な発想が生まれにくくなる。また、不意の事件に対応できなくなる。これは柔軟性を奪うばかりではない。時にはこうした不意の事件から大きな儲け口が生まれたりもする。こうしただらしない人たちの机は散らかっており、大抵こういう人たちは「生産性が低い」と見なされる。しかし、たとえばこのランダムな状態から「ふとした思いつき」が生まれることもあるわけだ。
また、ちゃんとしていることに生き甲斐を覚える人がでてくると厄介だ。管理職とは書類の様式が整っているかをチェックする人のことだと思っている人がいる。こういう人は書類をチェックするのに忙しく、話を隣の部署に通していなかったりすることがある。ちゃんとしていることが好きな人は、できる(つまりコントロール可能である)ことをついつい追いかけてしまうので、コントロールできない事は後回しにしてしまうのだ。このような人たちがたくさん集ったのが「市役所」や「県庁」といったお役所だろう。この本には「ちゃんとした人がたくさん集って、結果的にだらしなくなってしまう」組織のことが書いてある。
ちゃんとしていない人を支える技術も出て来ている。今でもウェブ・デザイナー向けの雑誌を読むと「IA(インフォメーション・アーキテクチャ)をきっちり構築しましょう」という記事が出ている。しかし、この考え方は崩壊してしまったと考えてもいいと思う。それはGoogleが登場したからだ。Googleは情報をスキャンし、ユーザーは思いついたときに好きなキーワードでサイトにアクセスする。そこには構造的な決まり事はない。つまり記憶できる情報の量が増えて、アクセス性が増すと、構造は無意味になってしまうのである。
さて、日本がこれだけ硬直化しているのは、コントロール不可能な要因が急速に変化しているのに、コントロール可能なところばかりを議論しているからだろう。またJALの例で分かるように「ちゃんとするコスト」が高くなりすぎて、支えきれなくなってきている企業も多いのではないかと思われる。おまけに、目立った起業はなく新しい雇用も創出されそうにない。
こうした時には「戦略」は立てられない。代わりにできることは周囲の状況に耳を澄ませて、いろいろな人の意見を聞きながら、場当たり的にでもいいから何かを試してみることだろう。付け加えて、もし何か突発的な機会があったら「それは予定していたことではないから」と排除するのではなく「面白そうだ」と検討してみてもいいかもしれない。必ずしも立派な事業戦略を立てれば、企業が立ち直るとは限らないのである。
ピーターの法則
ピーターの法則は、1969年(だいたいウルトラマンとか仮面ライダーとかと同じくらい昔)に書かれた本。上司はどうしてみんなアホなのかを説明する。階層社会においては全てのヒトが、それ以上昇進できなくなるところまで昇進するので、結果的にすべてのヒトが無能になるのだそうだ。そうすると組織はすべてアホで満たされるはずなのだが、昇進途中のヒトは無能レベルに達していないので、シゴトはそういった人たちによって執行されるのだそうだ。作者はこれを「階層社会学」と呼ぶ。ただ作者は社会学者ではなく教育学者だ。
あまりにも優秀すぎると、周りから疎まれることになる。すると組織から排除されてしまうので、組織レベルを越える有能なヒトは1人もいないということになる。解決策は簡単だ。昇進を拒めば有能でいられるのだから「無能」を装って昇進しなければよいのである。日本語のwikipediaには翻訳がないが、ディルバートの法則というのもある。最も非生産的なヒトはシステム的に中間管理職に追い込まれるという法則だそうだ。
しかしこれは管理されるヒトの理論だ。マネージャーを志すヒトは「有能」「無能」でヒトの質を判断してはいけない。出世したいヒトにおすすめする本は、イヤなやつほど成功する! -マキャヴェリに学ぶ出世術だ。こちらはマキャベリに学ぶ「イヤな奴になる方法」だ。例えば、時々訳もなく怒ってみる。すると相手はビビって敬意を払うようになる。組織の上の方の方々はみんな嫌なヒトたちなので、間違いなくあなたを上層部に引き入れてくれるだろう。どっちみちシゴトは誰かにやらせるわけだし、有能でも俺のためにシゴトをしないやつは潰してしまえばいいわけである。
さて、組織の中で生き残るためには2つの方法があることがわかる。一つは有能でいつづけることで、もう一つはいい人と言われたいという欲求を捨ててイヤな奴に徹する方法だ。どちらがよいのかはわからないし、生き残ることができたとしても、イヤなヤツ、無能なヤツ、有能だけどそれを表に見せないヤツばかりになったら組織は潰れてしまうだろう。こうした法則はいくつもあるのだが、やはり前提として退屈になるほど平和だった企業文化がある。
それはともかく、ピーターの法則のすごいところは、みんなが「ああそうだよね」と思うようなことについて、畳み掛けるように様々な事例を加えているところだろう。とりあえず数が揃うと、数式や調査がなくても人々は納得する。また、細かい事は忘れてしまうかもしれないが、大まかな「法則」は覚えている。こうした手法はいろいろな本で使われている。そうしたこともあってこの本は40年も人々に読み継がれているのである。